綱丸
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綱丸(つなまる)
- 奥州津軽家所蔵。
- 刃長三尺三寸。
- 佩き表に「八幡大菩薩」。
由来
- 後に弘前藩初代となった津軽為信は、天正13年(1585年)8月、豊臣秀吉への工作が必要と感じ、自ら上洛すべく軍船に乗り、鰺ヶ沢港を出港し秋田牡鹿半島まで来たところ、暴風にあい難破しそうになる。
- 老臣沼田面松斎(沼田祐光)の進言により、宝刀を海神に捧げたところ暴風が収まったという。船が北海道の松前に流されたために、一度自領の三厩港に戻って碇綱を引き上げると、刀が綱に絡まっていたため「綱丸」と号した。
天正十三年八月十日巳にとも綱とかせ給ひ、順風に帆を上させ給へば、海上も平かにて渡鹿の沖迄御走りける。かゝる處に、俄に天かき雲大風頻りに吹て御船もあやうく(略)其頃沼田面松斎と云人の有けるか此人申上けるは海中にてかやうに難風に逢しときは必其船中にて主君たる人のをしませ給ふものを海中へ打込龍神へ祈誓すれは必風波鎮ると聞し也、今度御拵之爲に上方へ御持参被成御重代の御太刀取出し給へ、如何程の御寶なり共大勢の人の命にはかへさせ給うまし御意をうかゝひ申とも御重代の御太刀を龍神へあたへよとは被仰出間敷候そ。此事後日に御咎あるならは此總御人數の身かはりに面松斎腹切可申是へと云て請取心中に祈念し海中へなけ入ける(略)十日計以前にとかの沖とおほしき所にて海中へしつめたる御太刀御船の綱にまとはれ則松前にて是を引あけける(略)彌此御太刀名譽の御道具なれはとて其名を綱丸と號し代々津軽の御家の御寶器の其一ツと成て御家に傳り候也。小原實守か作りし刀三尺三寸有之とかや聞傳し。
(愚耳舊聴記)
来歴
- 津軽家の先祖である大浦頼秀が、仁治元年(1240年)鎌倉において将軍頼経または北条泰時から拝領したという。
大浦氏とは津軽氏が先祖としている氏族。藤原基衡の後裔を称し、十三秀栄──大浦秀元──秀直──頼秀──秀行と続いたという。一般に津軽氏はその秀行からさらに七代後裔である大浦光信を祖とする。藤原基衡─秀栄─秀元─秀直─大浦頼秀─秀行─秀季─秀光─秀信─秀則─大浦威信─元信─光信
- あるいは「津軽家御系譜」では、南部彦六郎則信が鎌倉将軍より拝領と伝える。
南部禅高入道三子を召具し鎌倉将軍へ謁せられ、一男大膳大夫、二男左京亮、三男右京亮と御官位を賜り、是時右京公大原実盛作、裏へ八幡大菩薩とある太刀御拝領、則累世之御家宝綱丸是也
この「南部彦六郎則信=南部禅高入道」とは三戸南部氏の南部守行の子の大浦則信(久慈威信)を指す。また本刀を拝領したのはその三男元信であるとする。この系譜の場合、大浦則信(威信)から元信、光信と続く。
ただし(太刀を拝領した元信の祖父)南部守行は正平14年(1359年)生まれであり、孫の元信の頃にはすでに室町幕府の時代となっているが、詳細は不明。南部守行──大浦則信──大浦元信──大浦光信──大浦政信──…津軽為信
- 寛永4年(1627年)9月10日の夜、弘前城に落雷し炎上した際、この太刀だけは飛び出して松の梢にひっかかっていたという。
- さらに明暦3年(1657年)には江戸屋敷にあったため明暦の大火に巻き込まれるが、奇瑞があり無事だったという。
明暦三年正月十八日、十九兩日、江戸表大火事、此時漢だ小川町御上屋敷、御類焼に付、柳原御中屋敷へ、御立退、此節御重代綱丸太刀御奇瑞あり、尤、御上屋敷御土蔵御類焼に付、御代々御日記并御武器共消失
(津軽歴代記類 - 工藤家記)
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