竹現
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竹現(たけうつつ)
太刀
住吉大社の宝刀
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来歴
- 新大納言藤原成親が、立身を祈願し、平教盛(平清盛の弟)のもとにあった「竹現の太刀」を難波次郎経遠を遣わして取り寄せ、願文とともに住吉明神(住吉大社)に奉納した。
難波次郎に仰せられけるは、竹現と申太刀門脇宰相のもとにあり、それを取て此願書とゝもにかならすまいらせよと経遠に仰付らる、仰ことく是をまいらす、竹現ハ神劒と成て賓藏第一の重宝とそ聞えし、いまの世まてにあり
(平家物語 - 土仏因縁事)
藤原成親
- 新大納言藤原成親は藤原北家末茂流、藤原家成の子。
- 父家成は鳥羽法皇の第一の寵臣であった。成親も法王の側近となり、保元元年(1156年)19歳で左近衛少将に任じられる。
後白河法皇側近
- さらに保元3年(1158年)に右近衛中将、翌年には正四位下に叙せられている。妹が藤原信頼の妻となっていた関係から信頼と行動をともにするようになり、後白河院の側近に加わった。後白河院の成親への信頼は厚く、慈円は両者が男色関係にあったとする。
- 平治元年(1160年)に起きた平治の乱では藤原信頼とともに武装して参戦するが敗北、妹経子が平重盛(平清盛の嫡男)の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く解官にとどまった。
- のち右中将に還任され、仁安元年(1166年)左近衛中将へ進む。後白河院の復権の恩恵を受けて蔵人頭、参議、同年末には5人の上臈を超え29歳にして正三位に叙せられた。
- 後白河院が平清盛の後援を得て院政を本格的に開始すると、権中納言となる。成親の娘はのちに重盛の嫡子維盛の妻となっている。
- 園城寺と延暦寺の争いに巻き込まれ一度備中国への配流となるが召還され、その後も昇進を続け承安3年(1173年)に正二位に叙せられ、安元元年(1175年)には権大納言に昇進した。
延暦寺との対立
- 安元2年(1176年)7月に建春門院が死去したことで、後白河法皇と平家の対立はしだいに顕在化する。対立は安元3年(1177年)4月の白山事件ののち決定的なものとなる。
白山事件とは後白河の近臣である西光(藤原師光)の子藤原師高が加賀守に就任し、同じく子の藤原師経がその目代となり、師経が白山の末寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が山門(延暦寺)に訴えでた事件。これにより延暦寺と院は全面対決の様相を呈し、遂には大衆(僧徒)が神輿を持ち出して内裏に向かう。平重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出したことから事態はさらに悪化。大衆は激昂して神輿を放置して帰山する。院では、師高の尾張国への配流、重盛の家人の拘禁を決定、大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着した。 - 直後に安元の大火(太郎焼亡)が発生し、大極殿および関白松殿基房以下13人の公卿の邸宅が焼失する。後白河は突如として先の事件を蒸し返し、5月4日に天台座主明雲の逮捕を検非違使に命じ、翌日には座主職を解任、所領を没官すると5月21日に伊豆国へ配流した。
- さらに後白河は近衛大将の平重盛・宗盛に命じて坂本を封鎖して山門(延暦寺)そのものを攻撃するよう命令を下す。
- 驚いた2人は福原にいた父平清盛に判断を仰いだため、これを受けて清盛が上洛するが、結局は後白河に押し切られて延暦寺攻撃の準備を進める。
鹿ケ谷の陰謀
- しかし後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われたという密告が多田行綱により成され、6月1日成親は突然、清盛によって逮捕された。
ただしこの陰謀は、平清盛が院近臣勢力を潰すため、あるいは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性も指摘されている。
- 6月2日成親は備前国に配流され、18日解官された。平重盛から衣類を送られるなどの援助を受けていたが、7月9日に死去した。
- 「竹現の太刀」を住吉明神に奉納するのは、備前国に配流されるときの話とされる。
まことに祈は叶ふことにやと覚ゆる事は、げにも此大納言は業因つたなかりけるにや、配所の土となり、いわうが島まで流罪せられ給へる少将は召返されて、二たび殿上に昇られし事ありがたかりし事ども也、爭、成親の祈叶はざらん、諸仏念衆生、衆生不念仏、父母常念子
門脇宰相
- 「竹現」は、門脇宰相のもとにあるとする。
竹現と申太刀門脇宰相のもとにあり
- この「門脇宰相」は平教盛(平清盛の異母弟)のこと。
- 平教経の父。
- 邸宅が六波羅の総門の脇にあったことから門脇殿と通称される。
(清盛)兄弟多クオハシケル中ニ、コトニ此人ヲバ糸惜(いとほしく)オボシテ、一日モ見ネバ恋クオボツカナケレバトテ、六波羅ノ惣門ノ脇ニ家ヲ造テ据置給ヒタレバ、異名ニ門脇宰相ト申ケル也
(源平盛衰記)
- 保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。
- 平氏政権で重きをなし、仁安3年(1168年)には正三位参議となり「門脇宰相」、養和2年(1182年)従二位権中納言に進み「門脇中納言」と呼ばれた。
- 鹿ケ谷の陰謀事件では娘婿の藤原成経(藤原成親の子)が罪に問われたため、その赦免に奔走した。
- 教盛・通盛・教経の父子は寿永2年(1183年)閏10月の水島の戦いに参戦し勝利している。同年11月の室山の戦いでも平重衡とともに大将軍として出陣し、源行家を破っている
- 一ノ谷の戦いで嫡男の通盛を始め子息を失う。身重だった通盛の妻の小宰相も夫の後を追って入水自殺してしまう。
「吾妻鏡」ではこの時に平教経が安田義定の軍に討たれたとあり、同月13日に討ち取られた他の一門の首とともに京で獄門にされたとある。
- 壇ノ浦の戦いの敗戦の中、教盛は兄の経盛とともに鎧の上に碇をつなげ、兄弟手を取りあって入水した。
- 享年58。
- 娘の教子の子である重子は第82代後鳥羽天皇の寵妃となり、守成親王(のちの第84代順徳天皇)を産んでいる。
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