秩父がかう平
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秩父がかう平(ちちぶがかうひら)
大太刀
三尺九寸(約182cm)
身巾四寸(約12.13cm)
秩父がこう平とも
- 畠山重忠が佩用したという大太刀。
畠山は、是ぞ宇治路の大将なるらんと見て、秩父がかう平と云は、平四寸長さ三尺九寸の太刀也。抜儲て歩せ寄れば、義員如何思けん、引退いて垣楯の中に入にけり。返合/\戦はんとはしけれ共、畠山にや恐けん、かう平にや臆しけん、引退々々、都に向て落行けり。
青地の錦の直垂に、赤威鎧を著、備前作のかう平の太刀帯たるは、武蔵国住人秩父末流、畠山庄司重能が一男、次郎重忠生年二十一と名乗。
(源平盛衰記)
由来
- 太刀の名の由来については諸説ある。
- 「秩父」とは、重忠の畠山氏が坂東八平氏のひとつ秩父氏の一族であることを示す。重忠の父、秩父重能は武蔵国男衾郡畠山郷を領し、畠山氏を称した。その子、重忠は別名庄司次郎、畠山庄司とも呼ばれた。
- 「平家物語」では、重忠の太刀が「高平」であると書かれている。これが古備前派三平の高平を指すという。通常、高平は「たかひら」と訓読みで呼ばれているが、これを「コウひら」と重箱読みしているのが「源平盛衰記」であるとする。
来歴
- 畠山氏は当初平氏に従っていたが、石橋山の戦いで敗走した源頼朝が安房で再興すると畠山重忠もこれに臣従、御家人に列し、北条時政の娘を正室に迎える。治承・寿永の乱でも活躍し、幕府創業の功臣となる。
- しかしその後は幕府内の権力闘争に巻き込まれ、正治2年(1200年)に梶原景時の変、建仁3年(1203年)比企能員の変と相次いで有力者が滅ぼされるのに続き、些細な事から疑いをかけられると、元久2年(1205年)数千騎を率いる北条義時により討ち取られてしまう。享年42。重忠は、存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。
- 曽我物語にも登場する。
伊豆の次郎が流されし事
然ても惡事千里を走る習にて、伊豆次郎未練なりと、鎌倉中に披露ありければ、秩父重忠御前にて此の事を聞き、曽我の五郎をば重忠賜つて、重代のかうひら にて誅し候ふべきを、不覺第一の伊豆次郎に下し給はつて、かはゆき次第と承り、口惜しく候ふまうされければ、君聞し召し、然様の不覺人にてあるべくば、誰にても仰せ付けらるべきものをとて、伊豆次郎は御不審を被り、奥州外の濱へ流されしが、幾程無くて惡しき疾を受けて、同年の九月に二十七歳にして失せにけり。是ひとへに五郎が憤の報ふところにやと唇を返さぬ者は無かりけり。時致は五月に斬られければ、祐兼は九月に失せにけり。不思議なりしためし、因果歴然とぞ見えける。
- 東京都青梅市の高水山にある真言宗豊山派の寺院高水山常福院は、重忠が建久年間(1190年~1198年)に再興した伝えられ、重忠奉納の太刀が残っていたという。
後秩父荘司畠山重忠侯 當山の麓常磐と云ふ處に逗留せし時 此尊に歸依し勝利を得る事數度 乃て渇仰愈々深く建久年中諸堂を建立する 仁王門 鐘樓 繪馬堂等檐を連ね甍天に輝ける
(髙水山縁起)
- 現在も木製の模造品ながら、非常に身巾の広い太刀が往年の奉納品を伝えるものとして祀られている。
- 詳細はわからないが、この奉納したのが「秩父がかう平」であったのかも知れない。
畠山氏
- なお畠山氏の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人を娶り継承したという(源姓畠山氏)。こうして秩父平氏の流れを汲む畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。足利一門においては斯波家に次ぐ高い序列となり、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を受けることとなった。
源義国─┬新田義重─┬新田義兼──新田義房──政義──政氏──基氏──朝氏──新田義貞 │ ├里見義俊(里見氏) │ └山名義範(山名氏) │ └足利義康─┬足利義兼─┬足利義氏─┬足利泰氏─┬足利頼氏──家時──貞氏─┬尊氏 │ │ │ └斯波家氏 └直義 │ │ └吉良長氏(吉良氏・今川氏) │ └足利義純(畠山氏) └矢田義清──広沢義実─┬仁木実国(仁木氏) └細川義季(細川氏)
- 畠山一門は、紀伊および河内・越中の守護をおおむね務め、分家は能登守護を務めた。
(秩父平氏) 畠山重忠 │ 北条時政娘 (源姓畠山氏) ├──畠山泰国─┬時国──高国──国氏(…二本松氏) 足利義純 │ └貞国─┬国清──義清(伊豆守護家) │ └家国──義深──基国─┬満家(河内守護家) └満慶(能登守護家) ※重忠から源姓畠山氏への継承時の関係系図には諸説あり
- 奥州二本松氏
- 畠山高国の子の国氏が奥州管領に任じられ多賀国府を拠点として奥州二本松氏の祖となる。
- 伊豆守護家
- 嫡流であった高国の弟の貞国の子、畠山国清に始まる。観応の擾乱で嫡流の家系が没落。尊氏に鞍替えした国清は、のち尊氏次男である鎌倉公方足利基氏を補佐する立場の関東管領となり、伊豆の守護となった(河内畠山家、伊豆守護家)。しかし国清が義詮と対立すると、河内畠山家は国清の弟・畠山義深の系統によって受け継がれた。
- 河内畠山家
- 義深の子畠山基国は、足利義満の側近として京の幕府を中心に活動するようになり、管領家の細川京兆家と斯波武衛家が対立する中で第三勢力として台頭、能登国の守護職を獲得し、のちに畠山家の人物として初めての管領職に任命される。これ以降、河内畠山家 (金吾家)は代々管領を輩出する家柄となった。
- 能登畠山家
- 能登国は当初は吉見家が守護を務めていたが、康暦の政変において細川頼之派であった吉見氏興が失脚すると、のち畠山基国が守護となり、以降は畠山家の分国となった。兄である畠山満家が蟄居していたがのち復帰した際に家督を返上したため、満慶は能登一国を譲られ能登畠山家(匠作家)が創設された。
- 応仁の乱後
(河内守護家) 畠山満家───┬持国──義就(総州家) │ └持富──政長(尾州家)
- 総州家(義就系)
- 河内畠山家当主・畠山満家の子である畠山持国は、嫡子がなかったために弟の持富を後継としていたが、庶子の義夏(のちの義就)を召し出し持富を廃して後継とする。これが家臣の反発を招き、お家騒動へと発展してしまう。結果的には義就が次ぐことになるが、持富の子である政長も容易には譲らずこれに細川氏、山名氏などが介入、さらには足利将軍家や斯波氏の争いも相まって応仁の乱へと発展してしまう。
- 尾州家(政長系)
- 政長は明応の政変を起こすが、孤立無援となり河内正覚寺城を包囲され自害する。この時の逸話が「薬研藤四郎」に残る。この後も、義就系の総州家と政長系の尾州家との対立は長く続く。河内国の守護は両家により上・下に二分され上半国を総州家が、下半国を尾州家が支配する時代が続く(河内半国守護)。最終的に尾州家が優勢となるも、四国より伸長してきた三好家の圧力を受け、畠山家は力を失っていく。
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