秋保瀬登丸
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秋保瀬登丸(あきうせのぼりまる)
短刀
無銘
長七寸六分
- 表に素剣、裏に梵字の彫り物が入る。
由来
秋保 氏所持にちなむ。- 「瀬登丸」の号は、秋保直盛の逸話による。秋保氏12代当主の秋保弾正忠直盛が塩滝不動尊に詣でた帰り道、秋保温泉の覗淵をのぞき込んだ時に、差していた伝来の脇指(短刀)を淵に落としてしまった。拾い上げようとしたがあまりに淵が深く、やむなくそのまま館に戻ったという。
- その後この短刀は蛇となり、三町~四町も瀬を遡ったのちに元の姿に戻った。陽の光に照らされた刀身を見たものが拾い上げ秋保直盛に献上したことから、その奇瑞をとって「瀬登丸」と名付けたという。
右弾正代、秋保湯本村のそきと申渕へ落し候、深渕ニ而取上可申様無御座候處、翌日右之所ヨリ三四町程上之瀬ニテ取上申候ニ付、瀬登丸ト名付重宝仕候、
来歴
- 天正7年(1579年)、秋保氏は居城であった館山城が焼失してしまい、秋保直盛は一族郎党を引き連れ最上氏の庇護下に入った。天童頼貞の娘を娶るが、最上家の家督争いでは伊達稙宗の支援を受けた最上義守側につき、その後秋保氏は伊達氏に帰属している。
- 「瀬登丸」の奇瑞は伊達政宗の知るところとなり、秋保直盛の子・秋保定盛(播磨)は寛永2年(1626年)に本刀を献上する。
寛永元年(1624年)11月1日秋保雅楽頭に加増。
- この恩賞として、翌寛永3年(1627年)伊達家の年始規式より、それまで御一家十番目であった秋保氏の席次は二番目(右上席)へと昇格した。
松平陸奥守中納言正宗御代ニ継図御覧シ守脇指之御所望被成候依是雅楽頭定盛軍峨寛永三年正月元日より御座敷上り申候、此御礼太刀折紙ニて別而申納候、以上
寛永三年 秋保雅楽頭
正月三日 定盛(花押)
- 秋保氏23代当主の秋保氏盛(平三郎・外記)は近習から御小姓頭に取り立てられ、安永5年(1776年)には奉行(家老職)に上り詰める。氏盛は天明の大飢饉の最中破綻した藩財政の立て直しを図り、天明6年(1786年)その功績が認められ知行を1,000石に加増されている。
- 安永7年(1778年)、奉行職にあった秋保氏盛は、藩の御刀奉行に掛け合って先祖から献上されたこの「瀬登丸」を検分しており、「瀬登丸ハ長さ七寸六分、目貫赤銅三ツ根笹、外拵品無之」と書き留めている。
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