狐丸
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狐丸(きつねまる)
太刀
号 狐丸
小笠原若狭守所持
- 三条小鍛冶宗近の作という。
小笠原が佩たる太刀ハ狐丸と云名剣なり大戦ひに打落されて人しらず此太刀は三條の古鍛冶宗近か作
軍 終りて後に詮議する太刀も槍も死骸諸共皆埋め所々塚は小山の如し不思議やひとつの塚に狐数多夜毎に集る人々奇異の事におもひ若狭守其塚をほらしむるに尸 の中に狐丸の太刀有しと其所は廣田藤牧籠村の間に狐塚是ありと云
(甲越信戦録)
来歴
- 永禄4年(1561年)の川中島の合戦の際に、武田方についていた小笠原若狭守
長詮 が所持していた太刀。 - 高家衆として八幡原に陣を敷いていた小笠原若狭守は、怒涛の勢いで迫る上杉方に押され、この戦いは味方の負け戦であり、こうなったら潔い最期を遂げようとする。狐丸を奮って上杉軍の中に飛び込み、散々に斬って回ると、頭に受けた傷から流れる血と、返り血で顔が
百日紅 の花にも負けないくらい真っ赤に染まったという。 - 率いる兵の多くが討ち死にする中、小笠原若狭守はもはやこれまでと覚悟を決める。しかしその時家臣の
桑山茂見 が、狐丸と若狭守の兜を奪い主人の身代わりにと前に立ち、「我こそは新羅三郎の末、小笠原若狭守長詮、只今討死せん」と大音声で喚くと上杉方の宇佐美定行の陣へと突撃していった。宇佐美配下の三浦与左衛門があっぱれ良い敵よと槍で数合渡り合い、ついに桑山を突き伏せ首をとった。 - 桑山の忠死により一死を免れた小笠原若狭守は、落ちていた槍に雑兵の首を刺して上杉勢の体に見せて引き上げたという。
- この川中島の戦いののち同地に残る遺骸は、それぞれ小山のような塚が築かれ武器とともに葬られた。不思議な事にそのうちの一つの塚には夜ごと狐が多く集まり、鳴き騒いだ。
- そこでこの地の領主であった小笠原若狭守がその塚を掘らせてみると、屍に混じって「狐丸」があったという。
- その塚は現在も「桑山茂見の墓(狐丸塚)」として長野市の広徳中学校南東に残る。
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