狐ヶ崎


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

OFUSEで応援を送る

 狐ヶ崎丸(きつねがさき)

太刀
銘 為次
号 狐ヶ崎(附黒漆太刀拵)
長二尺五寸九分、反り一寸一分
国宝
吉川報效会収蔵(山口県岩国市の吉川史料館保管)

  • 青江為次作。
    • 青江為次は平安時代末期から鎌倉時代初期の備中国の刀工。備中青江守次の子で建暦年間(1211-1213年)の活躍とする。
  • 鎬造り、庵棟、中鋒。
  • 目釘孔2個、目釘孔の下、佩表の棟寄りに二字銘。
  • 黒漆革巻太刀拵が附属する。
  • 狐ヶ崎為次(きつねがさきためつぐ)

 由来

  • 正治2年(1200年)、駿河国清見関にて発生した「梶原景時の変」(御家人による梶原景時に対する襲撃事件)の際に、吉川小次郎経光(吉川友兼、毛利家臣の祖)がこの太刀を振るって梶原景茂(景時の三男)を一騎討ちの末に討ち取った。

    【狐ヶ崎】 谷津山の尾崎なり、傳馬町傳馬地子に賜ふ所なり、字谷津山六本松と呼
    吾妻鏡に、梶原平三景時狐崎に相戰と見え、林道春翁丙辰紀行に、正治二年正月梶原相模國一宮を逃出て、駿河國清見關にいたる、折節的場よりかへりける甲乙人行あひてあやしみおもひ、矢を射かけゝれば、梶原狐崎にて返し合せ、蘆原小次郞、飯田五郞、吉香小次郞とあひ戰て景茂うたれぬ云々、と有て此所より返し合せ、大內にて悉く敗死せしなり大内高橋の條に審に云べし倭名抄郷名に眞壁とあるは此地なり、此里は國府見附より南安東地先につゞき、以下も街道に連り、江尻に至る道次なり

  • 「狐ヶ崎」の号は、梶原景時始め梶原一族を討伐した場所の名に由来する(駿河国狐ケ崎、現静岡県静岡市清水区上原地域)。

    右小次郎公友兼正治二年正月廿日駿州狐ケ崎に於て梶原一黨を誅殺の時に手つから三郎兵衛尉景茂を斬せられし御太刀なり御粧飾當時の儘と申傅へり縁金具今失之、實に七百年の御物にて建武觀応の比嫡庶派立して武功を相競はれし時も覚に傳正当家に御約束有て吉川氏にては恐なから神器にも比すべき第一の寶物なり

吉川氏は藤原南家工藤流で、平将門討伐で功をあげた藤原為憲に発する。為憲は将門追討の恩賞として従五位下に叙爵、木工助に任じられたことから、木”工”+”藤”原で工藤を称した。この藤原(工藤)為憲の曾孫・維清が駿河国有渡郡入江を本貫としたため入江氏を称し、さらにその3代孫入江景義の子・経義が在所である入江保内吉河邑の名前を取り吉川を名乗ったことに始まるという。なお表記は一定せず、「吉河」「吉香」「木河」などとも書かれるが後に「吉川」に改めた。本刀の逸話に登場する小次郎経光こと吉川友兼は、この入江(吉川)経義の嫡男である。

 来歴

  • 吉川友兼はこの刀で梶原景茂(景時の三男)を討ち取るが、自身も深傷を負ってしまい、翌日死亡している。
  • 子の吉川朝経は、亡父の功と本人の功により、梶原氏の所領であった播磨国福井荘(現、姫路市南部)の地頭に任ぜられた。
  • 狐ヶ崎為次も子に伝えられている。朝経の孫(友兼曾孫)である吉川経高の代に、安芸国大朝荘(現、広島県山県(やまがた)郡)に移住し安芸吉川氏の祖となっている。
    入江経義(吉川経義)──吉川友兼──朝経──経光──┬経高【安芸吉川氏】─┐
                              ├経盛        │
                              ├経茂【石見吉川氏】 │
                              ├経信【境吉川氏】  │
                              └経時        │
                                         │
    ┌────────────────────────────────────┘
    │
    └─経盛──(略)──国経──元経──興経━━吉川元春─┬吉川元長
                                ├吉川元氏(長州藩一門家老阿川毛利家)
                                └吉川広家(岩国領→岩国藩)
    
  • その後、子孫の安芸国人吉川氏に伝わり、さらにその家系を簒奪した毛利分家旧岩国藩主吉川氏のもとで伝来の家宝として拵えともども管理された。

    當家青氈之物渡進目録之事、
    一、重書一笥 御代々御綸旨、将軍家御内書在之、
    一、重代太刀一振為次金具惣赤紋篠
    一、従 太閤御所様御遺物被下置吉家太刀一振、刀一腰正宗黒龍目貫鈎匙 後藤祐乗
    (略)
       以上
      元和貳年六月十六日
         従四位下羽柴吉川侍従豊臣廣家朝臣(花押)
    (吉川家文書 一三六〇 吉川廣家什寶譲與目録)

    吉家の太刀は、太閤遺物形見分で拝領したもの。寛文5年(1665年)にも吉川広正より家督を継いだ広嘉へ宛てた同様の書状が残る。

  • 昭和8年(1933年)1月23日に刀身、拵ともに旧国宝指定。

    刀劔
    太刀 銘爲次 附革巻太刀
    東京府東京市品川區 子爵吉川元光
    (昭和8年 文部省告示第十五號)

  • 昭和13年(1938年)東京帝室博物館復興開館陳列目録にも載る。

    六〇 太刀名物 狐ケ崎)銘 為次 〔國寶〕 長二尺五寸九分 東京 子爵 吉川元光氏藏
     この太刀は正治二年駿州一の剛者吉香小次郎が梶原景時、景茂父子を同國狐ケ崎で誅した際に佩用したと云ふ由緒ある品で、當時の拵も今に保存せられて居る。
    ※拵も別途「二三番 革包太刀」として出品されている


Amazon Prime Student6ヶ月間無料体験