燭台切光忠


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 燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)


無銘
二尺二寸三厘
徳川ミュージアム所蔵

  • 備前の刀工光忠(備前長船派)の作
  • 関東大震災で罹災し、長らく「現存しない」とされてきた。
  • 罹災美術品目録所載

    備前光忠刀號燭臺 無銘
    長二尺二寸三厘 鎺元九分九厘 横手下七分三厘 厚二分二厘 反五分
    傳云、仙台候政宗近侍之臣有罪、隠于褐銅燈架之陰、政宗之斬之、燈架倶落、故名之燭臺斫、燭臺乃燈架之俗称也
    義公賞臨于政宗第、正宗持此刀語其由、終乃置之座右、公将歸請是刀、政宗愛之不興、公乃強持之去云

  • しかし2015年4月末、焼身の状態で保管されていることが知れ渡った。

    燭台切光忠は残念ながら関東大震災で被災し焼刀となってしまいました。今も焼刀の状態で博物館に保管されています。
    徳川ミュージアムのブログ

    2015年5月17日に行われたミュージアムの説明によれば、火にまかれて焼けたのではなく、蔵の扉を開けた際のバックドラフト現象により二次災害として蒸し焼き状態になったもの。そのため全体が黒く焼けてはいるが形は元のまま。また金の鎺(刀身を鞘に固定するための金具)が融け、なかご近くに付着している。ただ蔵自体は無事だったため、保管刀の設置場所で残存刀の特定ができたという。戦時中、鉄不足の際に刀の取り上げがあったが、家宝のため供出を拒否したという。

    同館では以前にも公開したことがあるとのことで、2015年が初公開ではないという。詳しい経緯については右記記事を参照のこと。『刀剣乱舞-ONLINE-』で注目された刀“燭台切光忠”の輝きが蘇るまでを徳川ミュージアムに訊く──審神者が支えた3年間の軌跡とその裏側

 由来

  • 伊達政宗の小姓某に少々の不行跡の事があり、政宗より懲戒を与えられるも少しも懲りたところがなかったため、差していた光忠の刀で抜打ちにこの小姓を斬った。
  • 小姓は二つになって倒れたが、切先がその先にあった燭台を真ん中より切り落としたために以後「燭台切光忠」と号したという。

 来歴

 信長→秀吉

  • 光忠作の刀を特に愛用した信長が所持し、その後秀吉へ伝わった。

 政宗

  • 秀吉晩年の慶長元年(1596年)10月、伏見城を築いていた頃の話。
    秀頼が生まれたため隠居城として最初に築いた指月伏見城が文禄5年(1596年)閏7月13日の慶長伏見地震により倒壊。その後、木幡山に築城しなおした木幡山伏見城築城の際の話と思われる。木幡山伏見城は1597年(慶長2年)に完成するが、その1年後の1598年(慶長3年)に、秀吉は伏見城内で没した。
  • 秀吉が度々伏見に登っていた頃、伊達政宗が淀川に浮かべる御座船を一艘造り献上し、その際に秀吉から拝領したのがこの光忠であるという。
  • 政宗は翌日には早速その刀を佩用し御前に出ているが、この時に秀吉が下賜したものの惜しかったのか、ふざけて捕り物をしたことが記録に残る。

    其翌日太閤普請場へ出て工事を見て居らるゝ処へ政宗昨日拝領の光忠の刀を指してお目見に出た処、太閤之を見て「昨日政宗に刀を盗れたり、小姓共あの刀を取返し候へ」と大聲に言るゝと小姓四五人バラゝと駆来るを見て、政宗笑飛し突のけて半町許り逃るを太閤「盗人であるが許すぞゝ早く参れ」と又呼はったので、政宗又御前へ出候云々
    (政宗記)同系統本である成実記、伊達日記にも同様の記述がある

    「半町許り」は約50mほどの距離。
     誤解されてる方がいて驚愕したのですが、「昨日政宗に刀を盗れたり」や「盗人であるが許す」は(面白いかどうかは別にして)ありがちなジョークで、政宗もわかってそのジョークにノッているだけです。本当に盗んだのなら、わざわざ秀吉に会う時に(しかも翌日)その光忠を差して眼前に出るわけがありません。この光忠が燭台切かどうかは別にして、秀吉にしてみれば光忠をくれてやるのが惜しいという感情があったのかもしれません。それを"盗まれたがくれてやった"という一種のジョークにした可能性はあります。同時に政宗としても嬉しかったからこそわざわざ翌日差していったのです。政宗が太閤拝領の刀剣を大事にしたという話はいくつも残っています。くどいですが現代人の我々にとってこの種のジョークが面白いかどうかは全く別の話です。

 水戸徳川家

  • 伊達家ではこれを秘蔵したが、ある時水戸徳川家の頼房から懇望され進上したという。
  • その後水戸徳川家に伝わった。

    一、光忠 長二尺二寸、正宗殿(政宗)より来る

  • 一説には、3代将軍家光が水戸頼房に対し、「陸奥守(政宗)が光忠を差して参ったなら所望せよ、あの光忠は珍しい道具である」と話をしていたという。その後家光媒酌の場で頼房が政宗に「光忠を吾等に嫁入らせ候へ」と戯れにいったところ、政宗大いに笑って「秘蔵の子なれど上様の媒人ではいやとも言れまじ」といってそのまま進上したともいう。
  • 8代藩主徳川斉脩が編纂した「武庫刀纂」には、伊達家から水戸頼房がかなり強引に持ち去ったという逸話と、焼ける前の押形が収録されている。

    傳云、仙台候政宗近侍之臣有罪、隠于褐銅燈架之陰、政宗之斬之、燈架倶落、故名之燭臺斫、燭臺乃燈架之俗称也
    義公賞臨于政宗第、正宗持此刀語其由、終乃置之座右、公将歸請是刀、政宗愛之不興、公乃強持之去云

    「武庫刀纂」は徳川ミュージアム所蔵

  • 水戸徳川侯爵家に伝わったが、大正12年(1923年)の関東大震災にて焼ける。

    小梅の徳川圀順侯爵家では、光圀佩用「硯手柏(ママ)」の名剣、伊達政宗燭台切りの名刀を初めおびただしい古刀剣、光圀自筆の古書を初めとする古書画、銘器、武具など数知れず所蔵していたが、すべて焼失した。

  • また「罹災美術品目録」でも、同家に伝わった160口が焼失したといい、関東大震災の被害としては最大。名物では、児手柏、物懼(ものおじ)、菊造り、香西長光池田光忠新身国光上下龍正宗宗喜貞宗、大長光などが含まれていた。などと記す。
    「罹災美術品目録」にはこのように書かれているが、燭台切が残っていたことを考えると他の刀剣も(状態はさておき)現存している可能性がある。

刀 銘 無銘 (燭台切光忠) かたな しょくだいきりみつただ
鎌倉時代/13世紀
1
〒310-0912 茨城県水戸市 見川1丁目1215-1
焼刀4-1
公益財団法人徳川ミュージアム
鎌倉時代の備前長船派刀工光忠が制作。伊達政宗から水戸徳川家2代当主徳川光圀に譲られたという逸話を持つ刀で、大正12年(1923)の関東大震災で被災刀となる。



 異説

 伊達家「剣槍秘録」について

  • 伊達家の刀剣台帳「剣槍秘録」の第一巻の2番目に本刀が登場する。

    一、光忠御刀
    御記録云慶長元年月日不知、木幡山御普請之節、
    太閤之御召舟を献らる仍之御拝領也
    御腰物方無御伝光忠太刀金拾五枚
    忠山様御七夜御祝儀之節、享保三年六月五日、従獅山様泉田木工御使者ニ而被進之、蓋此御太刀なるへし

  • 最初の「慶長元年月日不知、木幡山御普請之節云々」は、慶長伏見地震により指月伏見城が倒壊した後に、木幡山に築城された木幡山伏見城のことを指している。つまり、上の御座船を一艘造り献上した際に拝領したという文章に符合する。翌日の捕り物はともかくとして、享保頃の伊達家でも来歴をそのように伝えていたことになる。
  • なお「剣槍秘録」第一巻の1番目は「鎺国行」、3番目は「鎬藤四郎」であり、いずれも太閤秀吉より拝領のものである。鎺国行については他家に出すべからずと命じており、鎬藤四郎についても将軍御成の際にすら献上を勧められるが激怒して拒み、その後仙台城二ノ丸増築を条件に献上させたほどの品である。その間に収まる本刀も、伊達家において重要な位置を占めていたものと想像できる。
  • 「剣槍秘録」は、寛政元年(1789年)5月に御刀奉行が調べて書き上げたものであり、伊達家から水戸徳川家への伝来が確かならば、150年以上前に他家に移ってしまった刀を2番目に載せていることになる。なお3番目の鎬藤四郎も寛永13年(1636年)に献上しており、その後明暦の大火で焼失している。
  • 「忠山様(6代伊達宗村)御七夜云々」は、享保3年(1718年)6月5日の伊達宗村のお七夜のお祝いに、獅山様(5代伊達吉村)より泉田木工を使者として贈ったのがこの太刀であろうという意味だが、伊達宗村が生まれたのは享保3年(1718年)5月27日であり、すでに本刀「燭台切光忠」は水戸家に移ってしまっているため別の光忠であったと思われる。

 長について

  • 長については、二尺二寸八分、二尺三寸など諸説ある。

 伝来について

  • 「燭台切」の伝来についてはっきりしているのは、経緯はどうであれ伊達家から水戸家に移ったものだけである。水戸家以前に押形など詳細な記録がないため、それ以外はすべて類推の域を超えない。
    「剣槍秘録」に書かれている内容も、秀吉から贈られた光忠の話に過ぎず、それが燭台切なのかどうかはわからない。
  • もし仮にそうであるとすると「伊達政宗が小姓ともども燭台を切った光忠が、その後水戸家に伝来した。」という実に無味乾燥な伝来となる。またなぜ水戸頼房がそこまでしてこの光忠に固執したのかという理由も不明になる。

 豊臣家から政宗へ贈られた光忠

  • 豊臣家御腰物帳」四之箱にある光忠刀に、「慶長十六年卯月三日政宗ニ被下候」と記されるものがある。これは秀吉死後、二条城において家康と秀頼が対面した後のことになる。
  • なお「御太刀御腰物御脇指方々ニ被遣之帳」では、四之箱の内として「慶長六年十月」に「政宗ニ被進之」と記される光忠がある。ただし四之箱には光忠は10番目に登場する一振しか記されておらず、1.いずれかの年月日が誤り、2.光忠が二振あった。のいずれかが考えられる。
  • いずれにしろ、慶長3年(1598年)8月に没した秀吉の「死後」に、伊達家へ贈られたものである。慶長16年は1611年、慶長6年は1601年。※「剣槍秘録」に書かれている光忠は慶長元年(1596年)であり、これらとも別物。
  1. 【慶長元年(1596年)】:「剣槍秘録」記載、燭台切?
  2. 【慶長3年(1598年)8月18日】秀吉薨去
  3. 【慶長6年(1601年)10月】:「御太刀御腰物御脇指方々ニ被遣之帳」記載の光忠
  4. 【慶長16年(1611年)3月3日】:「豊臣家御腰物帳」記載の光忠
  • なお水戸徳川家徳川頼房が元服したのは、慶長16年(1611年)3月20日であり、譲渡されたのはそれ以降になると思われる。


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