灯台切
- 丹後宮津京極家伝来
- 平戸松浦家伝来
Table of Contents |
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京極家「灯台切」(とうだいぎり)
刀
銘 久勝
二尺一寸
- 濃州住久勝作
- 差表に「燈臺斬」(灯台切)、裏に「始封丹波佩刀也 後京極拾遺源高知公四代曾孫高門識」と金象嵌が入る。
- 「始封丹」の丹は丹後守高知。
来歴
- もとは京極高知の差料。
- 高知から三男・高三に与えられ、高直、高盛を経て高盛三男の京極高門に伝わった。
- 明治維新後に売りに出され、今村長賀の所蔵となる。
京極高門
- 京極高門は二千石の旗本・国学者・歌人。丹後国田辺藩の2代藩主・京極高直の三男。高直隠居時に丹後国内で二千石を分知され、旗本寄合となった。本家が但馬国に転封となった際、高門の領地も但馬国に移された。中院通茂に和歌を学び、晩年出家。国学者で歌人。金沢八景の歌を詠み世に広める。
洲崎晴嵐
賑へる 洲崎の里の 朝けぶり
晴るる嵐に たてる市人
金沢八景 洲崎晴嵐 - 神奈川県立歴史博物館父・京極高直は、丹後国田辺藩の2代藩主。初代藩主・京極高三(高知三男)の長男。隣藩である宮津藩主の京極高広と国境などをめぐって争う。高広と高直は伯父と甥でありながら仲が悪かった。寛文3年(1663年)正月32歳で死去。跡は長男の高盛が継いだ。
松浦家「灯台切」
脇差
平戸住正則作
- 柄に白鮫をきせ黒糸で巻いたもの。
- 三所物は三星紋。
松浦氏は嵯峨源氏渡辺氏流で、松浦星と呼ばれる三ツ星を家紋とする。
- 朱鞘で啄木の下げ緒。
- 法印公こと松浦鎮信より相伝した刀だという。
- 寛政11年(1799年)8月、松浦静山が日光東照宮に参拝した時には、この「灯台切」を小とし、大は備後三原正近を指したという。「甲子夜話」で詩的な紀行文の中に登場する。
予在勤中日光山の参行を願ひ、
允 を蒙りて乃詣拝す。(略)
やがて其事の允蒙て寛政十一年己未の秋八月十三日にかしこに赴く。寅の刻(※午前4時前後)といふに第を出づ、臣子皆門に送る。また白川少将より(松平越中守定信)使者給はりたれば、玄關にて答申て立出るに、夜深ければ我に從へる街路行人もなし。それより御藏の前町を北へ行くに、まだ夜暗きに花川戸今戸の橋を過ぎぬ。爰は遊里に趨く嫖客の行きかふ街にて、夜をこめ暁に至りて橋を南に還り行くに、我はかく夜𨴨うち渡るぞ、志ざす方のいとヾかしこくぞ覺えぬ、こゝよりしばし行きて長隄を北に行くほどに暁なほくらし。かの吉原の娼樓の燈火遠く左に見なし、暫しの程田のほとりを行きて小塚原といへるに到る。曙近く見ゆれど家居の人も起ず、行く程に千住の大橋といへるを渡る。爰にて夜明く。四方の景色も見江て川風凄冷として寒かりし、千住の驛行過路の傍なる安養院といへる荒れたる寺の門にしばし輿を停む。朝ゆえか路行人もなければ、これより徒行し稲の浪うつ田のほとりを行ほどに、右の方遠く連たる蒼樹の間より紅日さし昇り光淸らけく心爽にぞ覚ゆ。(略)
余この日の装束は、青き直垂に三星の紋を白くつけて、腰刀は燈臺切といへる法印公(※松浦鎮信)より相傳せし、正則がうちたるに金にて三星の紋おきたる三所物に、白鮫に黑き柄絲かけ朱漆の鞘におさむ、刀縧は啄木をつけたり。打刀は三原の正近が鍛えたる二尺餘なるが反たると、鞘は同く朱にぬり太刀作に金具して茶褐絲もて柄まき、刀縧には同色の腕貫の紐をつく。これは法印公の帯びたまひし御太刀を模して造りたるなり。これ等のこと神祖の駿河に坐しゝ時、法印公の彼地に到て拝謁したまひし故事を思ふてなり。
当日は、恐らく鳥越邸(現在の東京都立忍岡高等学校のブロックあたり)から出発し輿で日光街道を北上している。蔵前を通り過ぎて駒形から浅草寺の東側を抜けて小塚原、千住へ向かった。
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