瀬上がり
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瀬上がり(せあがり)
- 相馬中村藩(相馬家)の家老、堀内家に伝来した太刀。
由来
- 相馬家の堀内俊胤が、永禄12年(1569年)正月の本圀寺の変の際に、三好義継の軍勢に加わり、三好長慶・松永久秀・岩成友通らと戦い、敗死した。
- 家来が俊胤の首を抱えて桂川を渡る際に、俊胤の佩刀が流れてきたために「瀬上がり」と名付けたという。
来歴
- 堀内俊胤の跡は、奥州三春城主の田村氏の一族である中津川大膳が堀内氏の養子となり名跡を継いでいたが、のち離縁されて国元へ帰る際にこの「瀬上がり」を持って帰ってしまう。
- ところが、国元で凶事が起こったため、この「瀬上がり」を堀内氏へ返して寄越した。
- その後伊達家に近い藤田四郎宗知が堀内氏を継いでいたのだが、離縁され国元へ帰る際に「瀬上がり」を持って帰るが、これも同様に奇怪なことが起こったためにやはり「瀬上がり」を堀内家へ返して寄越したという。
- その後は堀内家に伝来した。
来歴の謎
- もっともこの来歴には多くの謎がある。
- 堀内俊胤が敗死したのは、京都の本圀寺の変においてではなく、永禄12年(1569年)または元亀元年(1570年)の伊達氏との抗争の際とされる。
- 堀内氏は、戦国時代に断絶していたのを相馬氏14代相馬顕胤の弟近胤(堀内近胤)が継いで再興させたものである。近胤の妻は葦名氏15代蘆名盛舜の娘である。
- ところがその近胤の子である堀内俊胤が早世してしまったため、相馬氏15代相馬盛胤はその娘に自らの正室懸田氏(懸田義宗の娘)の弟懸田義氏(兵庫)を娶せて名跡を引き継がせた。しかし二人は折り合いが悪く分かれてしまう。
- そこで相馬盛胤は、自らの妹が嫁いでいた田村清顕の一族から中津川大膳亮(堀内大膳、泉胤秋)を婿に迎えるが、これも長くは続かず分かれてしまう。
これが上記来歴の、最初に「瀬上がり」を持ち帰った話となる。
- ついで相馬盛胤は、堀内俊胤の娘を相馬家家臣の二本松右馬頭に嫁がせ、代わって堀内家には俊胤の大叔父にあたる相馬胤乗の娘婿藤田齊庵の息子藤田宗和を入れ、堀内晴胤と名乗らせて名跡を継がせた。
- しかし藤田宗和は、天正12年(1584年)に実兄で黒木城主の黒木宗俊とともに謀反を企てたために相馬家より攻められ、伊達氏を頼って落ち延びてしまう。
これが二番目に「瀬上がり」を持ち帰る話になるが、謀反で出奔した際に持ち去った刀を返すというのがよくわからない。また謀反の時期についても諸説あり不明である。なお伊達家臣となった黒木宗俊の娘は、涌谷伊達氏初代当主となった伊達定宗に嫁いでおり、伊達宗重を生んでいる。この宗重が伊達騒動の伊達安芸である。「牛王吉光」の項などを参照のこと。
- その後堀内氏は、藤田齊庵の娘延命を相馬義胤の養女とし、これに泉田胤清の息子の胤政を娶せて名跡を継がせる。
- この堀内胤政の曾孫である堀内胤重が相馬中村藩の御一家に列せられている。この家系は代々堀内十兵衛を称し、家老に上っている。
- 来歴はともかく、来国光作の「瀬上がり」は、この堀内十兵衛家に伝来する。
瀬上
脇差
- 豊後佐伯氏に伝わった脇差。
- ある時、佐伯惟勝が竈門崎(蒲戸崎のことか)という所に船を浮かべて遊興していたとき、この脇差を誤って海に落としてしまう。海士を入れて探らせるも見つけることができなかった。その後、佐伯栂牟礼の城下、番匠川の木戸の瀬というところで、夜毎光るものがあり、人々が恐れていた。
佐伯惟勝は佐伯惟治の兄・惟信の子。
- 翌年惟勝が龍護寺詣でをする際にこの瀬を通りかかったところ、水底で光っているものがあったため調べさせると、この脇差が出てきた。刀身に牡蠣の殻がびっしり付き錆びていなかったため、「瀬上」と名付けたという。
- 一説に拾い上げたのは惟勝自身ではなく、叔父にあたる惟治であったともいう。
- 大永7年(1527年)、肥後の菊池義武に通じて大友義鑑に対し謀叛を企てていると讒言する者があり、佐伯惟治は大友義鑑麾下の臼杵長景に攻められ栂牟礼城を囲まれてしまう。城は堅固で落ちる気配がなかったため、臼杵は義鑑への口添えを約束して開城を促し、惟治はこれに応じて日向へと退去した。
- しかしこれは臼杵の罠であり、城を出た惟治は長景の要請を受けた土豪・新名氏の襲撃に遭って進退窮まり、11月25日に三川内の尾高智山で自害した。享年33。
- 本刀は三川内の神社に奉納されたという。
瀬上がり(安綱作)
伝来
- 鎮守府将軍の藤原利仁が、越後の神社に奉納したものという。
由来
- 号の由来は、この太刀があるとき川の中に落ちてしまい、長い年月を経た後に引き上げてみたところ少しも錆びたところがなかったためという。
瀬上りの宝刀
- 出羽戸沢氏に伝来した刀。
- 戸沢氏が戸沢城にいたころ、城に「瀬上がり」という伝家の宝刀が伝わっていた。
- 周囲の蝦夷がこの刀を伺って"待寝森"に集まり、戸沢城に向けて矢を撃ち下ろしたため、戸沢氏は"ガラクラ"まで逃げ延びた。それでも蝦夷が追ってきたために、やむなく宝刀を檜木内川に投じたという。蝦夷が川に入って刀を探したが遂に見つからなかった。
- のち鈴木喜兵衛家の先祖のものが檜木内川の上流の御堰根付近で鰍つき(カジカ漁)をしていると、水底に光るものがあったため拾い上げたところ、「瀬上がり」であったという。
- 鈴木氏は「瀬上がり」を密かに持ち帰り、家宝として秘蔵する。
- その後、付近の川で溺死したものがおり、他殺を疑った村人たちが村中の家探しをすることになったために慌てて「瀬上がり」を屋根の藁の中に隠した。のちに刀を取り出そうと探したが、出てこなかったという。同家は昭和期に焼失。
- 一説に、黒沢惣助というものが研ぎに出すために持ち出したともいう。
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