源太が産衣
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
源太が産衣(げんたがうぶぎぬ)
- 「元太がうぶぎぬ」、「くわんたかうふきぬ」、「ぐはつたが産衣」「丸太産衣」などとも。
由来
- 八幡太郎義家誕生の際に、父である源頼義が鎧を新造し、院の御所にその鎧と赤子(源義家)を添えて見参した。
- 「源太丸」という義家の幼名にちなみこの名が付けられたと言う。
この産衣・髭切は源氏重代の武具の中に、殊に秘藏の重寳なり。八幡殿の幼名を源太とぞ申しける。二歳の時、院より「参らせよ御覧ぜん」と仰を蒙り給ひて、わざと鎧を威し、袖に居ゑてぞ見参に入れられける。さてこそ源太が産衣とは附けられけれ。胸板に天照大神・正八幡大菩薩と鑄附けまゐらせ、左右の袖には藤の花の咲き掛りたる様を威せるなり。
- 源太が産衣の胸板には天照大神と正八幡宮とが表され、左右の袖には藤の花が咲きかかった様が縅されていたという。
来歴
- 代々、河内源氏の棟梁が鎧の着用初めに用い、のち源頼朝も着用したという。
- 平治の合戦において12歳の右兵衛佐頼朝が着用したが、合戦に負けて都落ちする際、雪中に脱ぎ捨てたという。
- ただし、源義家が初陣で背走した際に、重い為捨てたという話も伝わる。
Amazon Music Unlimited 30日間無料体験