海老錠切り
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海老錠切り(えびじょうきり)
太刀
天海僧正所持
- 建武2年(1335年)に北条時行が兵を挙げた時、三浦介時継がその鎮圧に向かい鎌倉宝蔵の"海老錠"を佩刀で切り割ったという。
来歴
- この後、海老錠切りはどういう由来かは不明だが葦名家に伝わる。
会津蘆名氏は三浦義明の七男佐原義連を初代とし、義連の孫に当たる光盛の代に葦名を名乗ったという。室町時代には、京都扶持衆として自ら「会津守護」と称していた。
- 一説によると天海僧正の母は奥州会津蘆名家の娘であるという。天正17年(1589年)、蘆名盛隆が居城白河城を伊達政宗に攻め取られあわや自害せんとしたとき、天海僧正がこの「海老錠切り」を抜いて寄手に立ち向かったという。その後天海僧正は二度の大阪の役にも家康のお供をしている。
- 寛永9年(1632年)紀州家の家老三浦為春が嫡子為時を伴い日光に参拝に来た時、蘆名家も三浦家も同族であるといって太刀を譲ったという。
年代も相当開いており、かなり眉唾な由来ではある。
海老錠切り
由来
- 室町将軍3代足利義満のころ、京都比叡山の僧に室厳院という者がいた。
- 市中に火事が起こり室厳院のいた建物に延焼してきたが、門に海老錠がかかっており多くの人が脱出できない状況になった。
- そこへ室厳院が駆け寄り、この備前長光で"海老錠"を閂の巻金もろともに切り落とし、多くの人が逃げることができたという。
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