流星刀


 流星刀(りゅうせいとう)

Table of Contents

 概要

  • 榎本武揚が、明治23年(1890年)に富山県上市川上流で発見された鉄隕石「白萩隕鉄(白萩隕鉄1号)」を明治28年(1895年)に第1号2.27kg(比重7.9)を買い取り、その一部分4kgを欠き取り、隕鉄6分鋼4分で混ぜたうえで刀工・岡吉国宗に長短合わせて大小5口作らせたもの。※第2号については関東大震災で失われた。

    鍛錬 長刀及び短刀各二振の内甲の一振は星鐵を十六回析返し鍛錬したる者を用ひ乙の一振は二十四回析返し鍛錬したる者を用ひて造れり二振共に刀身の表面に恰も槻の如輪木理に似たる斑紋あるは即ち星鐵の特質にして就中此の斑紋の稍大にして鮮明に且無疵に出來上りたる者は即ち献上の一刀是なり
    流星刀記事-地学雑誌 1902年14巻1号

    「流星刀」が何本製作されたかについては混乱があり、書物により異同がある。榎本自身の記事には4口と書かれている。また曾孫の榎本隆充氏の論文によれば「この時大刀二振と小刀三振が作られた。」と5口が作られたとしている。
     どうやら、はじめ長刀二振、短刀二振が製作され、後に「星鉄残片1と中国玉鋼2の割合で混合した」ものから短刀一振を製作したのだという。
    榎本武揚の流星刀製作と「流星刀記事」/シベリア横断旅行と「シベリア日記」

 由来

  • 「流星刀」の名は、星鉄(隕鉄)を鍛錬して造ったことにより榎本武揚自身が名付けたもの。

    流星刀トハ星鉄ヲ鍛錬シテ造リシ刀ナルヲ以テ此名ヲ命ゼリ
    (流星刀記事)

    明治二十三年四月越中國中新川郡白萩村を流るゝ上市川上流の砂礫中に發見せられたる隕鐵にして墜下の年月詳ならず、明治二十八年三月故子爵榎本武揚氏の有に歸し、子爵歿後同家より東京帝室博物館に寄贈せられたり。始め榎本子爵の有に歸せし時は目方六貫六十匁ありしが、子爵は其の一部を切斷して長短各二振(ママ)の流星刀を製作せしかば重量約一貫六十匁を減じたり。
    (美濃隕石 : 附・日本隕石略説)

    当時は、隕石が彗星由来の落下物と信じられていたことからの命名。

 流星刀の一覧

  • 流星刀は個別の刀の号ではなく、複数ある刀を総称して「流星刀」と呼ばれている。
  1. 長刀1口:嘉仁親王(大正天皇)に献上
  2. 長刀1口:東京農業大学に寄贈。刃長68.6cm、反り1.5cm。同図書館所蔵
  3. 短刀1口:富山市天文台に寄贈(富山市科学博物館保管)。刃長30cm、重さ123g
  4. 短刀1口:龍宮神社(北海道小樽市)。刃長約19cm。「東京住岡吉國宗」の鞘書あり。
  5. 短刀1口:後に「星鉄残片1と中国玉鋼2」の割合で混合したものから製作した短刀。いつごろ製作されたのか不明。
  • 3、4、5については、情報が不足しておりいずれが後から製作された1口かは特定不能。
  • あくまで伝記小説だが、作家の竹村篤氏が、「小説東京農大」の「揺籃編」で榎本を登場させ、流星刀について語る場面が描写されている。経緯が簡潔にまとめられており、他ではない逸話(地質調査所関連)も混じっているため引用する。※小説は、東京農大初代学長・横井時敬が主人公。

    「今度、流星刀を打たせようと思う」
    「えッ、なんの刀ですって……」
    耳馴れない言葉に、伊庭は聞き返した。
    「流れ星の刀、つまり、隕石で刀をつくるのさ」
    「そんなことが出来るのですか」
    「どうやら出来そうだということがはっきりした。これを見てごらん」
    榎本は、ポケットからメモを取り出して、伊庭に渡した。
    (略)
    「刀鍛冶は決まっているのですか」
    刀には一見識を持っている伊庭が、体を乗り出した。
    「それは、まだだよ」
    「岡吉国宗がいいかもしれません。変人ですが腕はたしかです」
    岡吉国宗は、当時名人といわれた残り少ない刀鍛冶であった。
    (略)
    明治七年、ロシヤの特命全権公使として、ペテルブルグに滞在中、ツァルスコエ・セロー離宮で隕石から作られた刀剣を見せられて、その美しさに感嘆した。榎本の言葉を借りれば「あの流れ星から、このように冷徹美麗で汚れのない刀剣が生まれるとは、まさに驚天動地」であった。
    このとき榎本は、感嘆のあまり胸がふるえる思いだったという。
    この流星刀は、ロシヤ皇帝が、ナポレオン一世をモスクワで破った功績に対して、ドイツから献上されたものである。
    (略)
    たまたま明治二十八年、榎本は、農商務省地質調査所の近藤会次郎工学士から、耳よりの話を聞きこんだ。富山県の白(ママ)村で発見された、小林一生所有の隕石が、横浜で売りに出されているというのである。しかもこの隕石は、近藤工学士が一度分析をしたことがあり、大量の鉄分を含んだ星鉄に間違いないという。
    榎本は直ちに数千円の大金を投じて、六貫七十匁の星鉄を購入した。そのうちから一貫目を切り取り、精撰したうえで、改めて鉱山局地質課の高山甚太郎に依頼して分析してもらったのが、前に見せたメモである。
    余談になるが、農商務大臣を辞した榎本は、岡吉国宗に居対して、この星鉄から長刀と短刀各二振を打ちあげ、もっとも仕上げのよかった長刀一振りを皇太子(大正天皇)の成年の御祝儀として献上した。さらに榎本は、流星刀製作と並行して「流星刀記事」という長文の論文を書いている。その一部に、
    「長刀及短刀各二振ノ内、甲ノ一振ハ星鉄ヲ十六回折返し鍛錬シタルモノヲ用ヒ、乙ノ一振ハ二十四回折返し鍛錬シタルモノヲ用ヒテ造レリ、四刀二振共ニ刀身ノ表面ニ恰モ槻ノ如輪木理ニ似タル斑紋アルハ即チ星鉄ノ特質ニシテ、就中此斑紋ノ程、大ニシテ鮮明ニ且ツ無瑕ニ出来上リタルモノハ即チ献上ノ一刀ナリ」とある。

    横井時敬は東京帝国大学教授、のち東京脳表大学初代学長。種籾の塩水選(塩水選種法)の考案者。近代農学の祖と呼ばれている。「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」、「農学栄えて農業亡ぶ」、「物質主義に溺れることなく心身共に健全で、いかなる逆境にも挫けない気骨と主体性の持ち主たれ」などの言葉が有名。

    伊庭とは伊庭想太郎のこと。元唐津藩士。心形刀流第8代・伊庭秀業の四男として江戸に生まれた。徳川育英会幹事、東京農学校校長、四谷区議、日本貯蓄銀行頭取、相談役などを歴任。心形刀流剣術第10代であり、のち前逓信大臣で政治家の星亨を暗殺した。無期徒刑で小菅監獄に入獄し、明治40年(1907年)に獄死。

 大正天皇献上刀

刀 銘 國宗/明治三十一年三月 日
表ニ「以星鐵造之」ト金象嵌アリ
鞘書 流星刀一口 明治三十一年十二月海軍中将正二位勲一等子爵榎本武揚 花押

  • 5口のうち長刀1口は、明治31年(1898年)12月に当時の皇太子(大正天皇)に献上された。

    予は本塊の手に入りし以來珍重措かさりしか本年二月に至て本塊の一部を以て刀身を造らしめ以て之を我か 皇太子殿下に奉献せんと企てたるを以て全量中より殆んと一貫目余を截り取り(殘塊の重量は五貫目)

    以テ我カ皇太子殿下御丁年ノ御祝儀トシテ献上シ奉ラント発年セシハ偶然ノ事ニアラス

  • 昭和13年(1938年)に村山弁次(翠溪)氏が宮内省に問い合わせており、以下の回答を得ている。

      宮内大臣官房
      總務課 第百九十二號
    昭和十三年4月二日
        宮内大臣官房總務課長子爵 本多猶一郎
      村山辯次殿
    三月三日附御尋合ノ件
     明治三十一年十二月東宮殿下へ子爵榎本武揚献上ノモノニ該當スル様存候右回答候也 以上
     
    武蔵國國宗御刀
     銘 表 國宗
       裏 明治三十一年三月 日
       表ニ「以星鐵造之」ト金象嵌アリ
     長 二尺一寸五分
     元巾八分五厘 先五分七厘 反四分
     鎬造  直刄
     白鞘
     鞘書 流星刀一口 明治三十一年十二月海軍中将正二位勲一等子爵榎本武揚 花押
    明治三十一年十二月
    東宮殿下へ子爵榎本武揚献上

    村山弁次氏は、兵庫縣尼崎尋常高等小學校、尼崎市商業学校やその他の高校などで校長をしていた人物。東亜天文学会出版の雑誌「天界」にたびたび寄稿している。
     垂水尋常高等小学校校長時代の経歴が載っているが、これが果たして本人なのか同姓同名の人物なのかは判断できなかった。「君は、姫路藩士なり。明治三十二年同地師範学校を卒業し、同地高等小学校訓導に任ぜられ、三十九年現在垂水尋常高等小学校訓導兼校長に栄転し来り。同時に同校併置の歳報学校長をも兼任して今日に至れり。年歯漸く三十七才、而かも受くる處の俸給額は實に郡下第一等なり、俸給の高下必ずしも其人の真価を現す者にあらざるも、而かも君の真価は今日の優遇も尚其不足を感ずる者なり。君が最近全日二部教授の研究に勉め殆んど其範を全国に示さむ程の成績は、今回遂に其筋の認むる處と為り賞せられたるが如き誠に遇然にあらざるなり、更に人格亦範を村民に示せり」。相当優秀な人物だったようだ。かたわらで「天文」への投稿も頻繁に行っている。
  • 榎本武揚は、この流星刀製作の経緯を明治31年(1898年)12月に「流星刀記事」としてまとめており、その抜粋が「地学雑誌」明治35年(1902年)1月号に掲載された。
  • 残りの3口(後述の龍宮神社寄贈短刀を入れると4口か)は榎本武揚の子孫に伝わったが、うち短刀1口は戦時中に行方不明になったという。

 東京農業大学


銘 表「東京住岡吉國宗作明治三十一年四月八日」、裏金象嵌「以星鉄造之」
鞘書 流星刀 東京住岡吉國宗 長二尺二寸六分五厘也 螢狩 なつむしのかけみたるめりささなみやしかのからさきかせやふくらむ
刃長68.6cm、反り1.5cm
東京農業大学 図書館大学史資料室所蔵

なお「螢狩」の文字と和歌については、他の流星刀(例えば富山市科博所蔵品)の鞘にも書かれていることが確認できるため、本刀固有の号ではないと思われる。恐らくは榎本作の和歌とその和歌の題名であろうと東京農大では説明している。

  • 長刀1口は、榎本が設立に関わった東京農業大学に対して、2011年に子孫から寄贈されたという。

    本学所蔵の「流星刀」(長刀)は、二〇一一年末、榎本武揚の次男、春之助氏の令孫に当たられる籠宮順子・良彦様ご姉弟より、二人のご尊母である籠宮道子様の意志ということで本学に寄贈のお申し出があり、翌二〇一二年三月に、他の日本刀とともに引き渡しを受けたものである。お二人に心よりお礼を申し上げたい。
    (東京農業大学図書館 大学史資料室通信 第5号)

  • 同学によれば、寄贈された流星刀は、長さ68.6cm、反り1.5cm、銘は表「東京住岡吉國宗作明治三十一年四月八日」、裏「以星鉄造之」。
    同時に寄贈された他の日本刀は、それぞれ、長刀 銘「備前国住長船祐定作/大永七年八月吉日」、短刀 銘「備州長船兼光/永享元年二月日」、短刀 銘「吉光」の3口という。

 富山市科学博物館

短刀
金象嵌「星鉄」 銘「国宗」/明治三十一年三月日
鞘書 流星刀 岡吉國宗 鍛錬星鐵造久 長七寸五厘也
□□□のかげ乱るめりさヾなみやしかのからさき風やふくらむ ほたるがり
※白鞘の鐺にも「螢狩」と漢字で記されている。
刃長21.3cm、反りなし。総長30.0cm

  • 短刀1口は白萩隕鉄飛来地である富山市科学文化センター附属富山市天文台(現、富山市科学博物館附属富山市天文台)に寄贈された。なお和歌の先頭3文字不明分については、東京農大所蔵刀にも同じ和歌が書かれているため、おそらくは「なつ虫」の三文字ではないかと思われる。

 龍宮神社

短刀
鞘書 流星刀 東京住岡吉國宗 長六寸五分無銘也
刃長 19.7cm

  • 北海道小樽市の龍宮神社にも短刀1口が伝わっている。
    どうもこれが上掲榎本隆充氏の論文に登場する2口のうちの1口であろうと思われる。同論文は2002年12月20日に行われた講演の主要部分をまとめたものとされる。
  • 2017年6月20日、武揚の曾孫にあたる榎本隆充氏が、武揚が建立した同社に奉納したもの。

    武揚のひ孫で、東京農大客員教授の榎本隆充さん(82)=東京都在住=が、榎本家に伝わる隕石(いんせき)を使って鍛えた刀剣「流星刀」を同神社に寄贈し、奉納された。刃長約19センチでさやに「東京住岡吉國宗」と墨で書いた文字が読める。

  • もっとも刃文が美しいとされる。






 白萩隕鉄1号

  • この白萩隕鉄1号について採集された経緯は混乱しておりよくわかっていない。榎本自身は次のように記している。

    明治二十三年四月 富山県士族小林一生ナル者 鉱山試掘中同氏使役ノ鉱夫中村定次郎ナル者 白萩村ヲ貫流スル上市川上流ノ砂礫中ニ於イテ本塊ヲ拾ヒ得タレトモ 其何物タルヲ解セス

  • ただしこのあと主に天文学会の界隈でその発見過程について注目されている。

    小林一生氏が発見したことになっているが、この小林氏は当時富山県の代言人(弁護士)で、この山奥へ銀銅鉱の発掘に来ていた。当部落の道林八郎右衛門氏の家に事務所を置き、ここで寝起きしていた。道林氏は部落の中では知識人で、村人からは尊敬を受けていた人だったという。ところである日のこと(この日は不明)、道林松之助という人(八郎右衛門氏の親せきにあたる人だろうか?)が葛芋掘りに上流の山中に行き、その帰り途で、川の中で色の変わった重い石を拾った。…彼はこれを道林八郎右衛門宅に持って行き、これが小林氏の手に渡ったものであろう。一説によれば、以前から八郎右衛門氏の所蔵していたものともいわれているし、またほかの説によれば、小林氏が鉱山試掘中、同氏のもとで働いていた中村定次郎氏が上市川の上流の砂礫中に発見したともいわれている
    (地質ニュース (536)の「地質調査所所蔵の隕石(補遺)」より孫引き)

  • ※ほぼ同内容の文章を昭和16年(1941年)3月の村山弁次(翠溪)氏が雑誌「天界」に載せている。
  • ※なおよく似た名前の白萩隕鉄2号については、上市川上流の早乙女岳近くで発見されたため、別名「早乙女隕鉄」と呼ばれている。

 ロシア皇帝の隕鉄サーベル

  • 榎本武揚が流星刀製作のヒントを得たというロシアの隕鉄サーベル(イギリスにて製作)。

Sowerby's sword and scabbard presented to the Emperor Alexander I, 1814. The State Hermitage Museum, St Petersburg.
刃の長さ67cm、直線での長さ61.5cm
クロスガード3.3cm、グリップ10.8cm
エルミタージュ美術館所蔵

  • Art works ※エルミタージュ美術館公式サイト、ロシア語
  • 榎本武揚は、ロシア大使(駐露特命全権公使)としてサンクトペテルブルクに赴任していた際に、ロシア皇帝の秘宝の中に隕石で作られたサーベルを見て感動し、日本でも隕石刀を作りたいという夢を持った。サーベルは、現在エルミタージュ美術館に収蔵されている。
  • この隕鉄は3つ以上に切断された上で売りに出され、うち1つがイギリスの博物学者であるジェームズ・サワビー(James Sowerby)のコレクションとなった。
  • 1814年6月ジェームズ・サワビーは、イギリスを訪れていたロシア皇帝アレクサンドル1世に対して、この隕鉄を用いてサーベルを製造し贈ろうとする。
    急速に台頭したフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)は、1812年に行ったロシア遠征に失敗する。逆に対仏大同盟が復活すると、巻き返したアレクサンドル1世はパリへと入城し、ナポレオンはエルバ島へと追放される。サワビーがサーベルを贈ろうとしたのはこの時である。
  • しかしすれ違いがあり、結局サーベルが皇帝のもとに届いたのは1819年頃であったという。その後ロシア王宮の宝庫に入れられていたが、のちエルミタージュ美術館へと収蔵された。
    サワビーは1822年10月25日死去、アレクサンドル1世は1825年12月1日死去。
  • 駐露特命全権公使に任命された榎本武揚は、1874年から1878年までロシアに滞在しており、ツァールスコエ・セローの離宮(エカテリーナ宮殿)にて、このサーベルと思しき物を見ている。

    予カ往年全権公使ノ職ヲ以テ露帝聖彼淂堡府(サンクトペテルブルク)ニ在リシ時、「ツァルコエ・セロー」ノ離宮ニ於テ露帝亜歴山淂第一世(アレクサンドル1世)ノ珍蔵セラレシ星鉄刀ヲ親シク見テ一種ノ感ヲ起シタルニ基ケリ。当時予ニ付添ヒシ宮内官吏ノ語ル所ニ拠ハ、該剣ハ亜歴山淂第一世カ「ナポレオン」第一世ヲ大ニ「モスコウ」ニ於テ破リシ功ニ対シ、独逸国ヨリ献セシナリト。
    (流星刀記事)

    この離宮は、元々17世紀にイングリア(Swedish Ingria)のスウェーデン貴族のものだったが、後にロシア人から"Sarskoye Selo"と発音され、後に"Tsarskoye Selo"(皇帝の町)へと変化したという。ロシア語では「Ца́рское Село́」と表記する。エカテリーナ宮殿は、このツァールスコエ・セローの離宮内に1717年から建設開始され、1756年に完成した。このエカテリーナ宮殿は夏の間に利用されたことから「夏の宮殿」と呼ばれる。
     いっぽう冬の間に利用された冬宮殿ことエルミタージュは20kmほど北に離れたネヴァ川のほとりにあり、エカチェリーナ2世により集められたコレクションが収蔵されていたが、ロシア革命後に美術館として利用されることになった。夏冬の宮殿いずれも、世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」に含まれている。

    なお離任して帰国する際、榎本はロシアの実情を調査するために船と馬車を乗り継ぎ約2ヶ月をかけてシベリアを横断し、その詳細な過程を「シベリヤ日記」に残している。シベリヤ日記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

  • このサーベルの存在はその後わからなくなっていたが、2011年に再度存在が確認された。
  • 刃には、隕石で作られた旨と贈られた由来が刻印されている。さらにその上には、ロシア皇帝の王冠、"MERCY"の文字を囲む月桂樹、ロマノフ家の紋章である双頭の鷲が彫り込まれている。

    This Iron, having fallen from the heavens was, upon his visit to England, presented to His Majesty ALEXANDER, EMPEROR of all the RUSSIAS, who has successfully joined in Battle, to spread the Blessings of PEACE throughout EUROPE.
     
    By James Sowerby F.L.S. G.S. Honorary Member of the Physical Society of Göttingen &c,
     
    June 1814.

    二段目の「F.L.S.」はロンドン・リンネ協会(Linnean Society of London)フェローに許されたポスト・ノミナル・レターズ。「G.S.」はロンドン地質学会(Geological Society of London)を表す。以降はゲッティンゲン物理学会の名誉会員を表す。二段目を日本語で書き直すと、「ジェームズ・サワビーより。 ロンドン・リンネ協会フェロー及びロンドン地質学会員、ならびにゲッティンゲン物理学会名誉会員」となる。
     榎本に説明したロシアの宮内官吏は、前二者の意味がわからなかったのか、最後の「ゲッティンゲン」のみでドイツよりの寄贈(独逸国ヨリ献セシナリ)と判断したようである。

  • さらにもう片面には、喜望峰隕鉄(Cape of Good Hope)から製造したことを刻印している。

    PURE METEORIC IRON found near the Cape of Good Hope

    上記エルミタージュ美術館公式サイトで見れるのはこの面のみ。ただし「This Iron」から始まる面については、画像が下記NCBIのサイトの他、いくつかのサイトで掲載されている。

 関連項目

  • 斬鉄剣」 ※他の隕鉄刀について

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