泛塵


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 泛塵(はんじん)

脇差
宇多国次作
金象嵌銘 泛塵 眞田左衛門帯之/宇多國次作國廣上之
真田幸村所用

  • 室町時代越中富山の刀工、宇多国次の作。中古刀中上作。
    越中宇多派は、大和宇多から移り住んだ宇多古入道国光(国允)を祖とする。国光の子に国房、国宗がおり、宇多国次は国房の子と伝わる。
  • 一尺六七寸という。
  • 中心に金象嵌で「泛塵 真田左衛門帯之」とあり、さらに堀川国広が磨上たことが金象嵌で入る。
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 由来

  • 「泛塵」は浮塵(ふじん)におなじで、人の命は空中に浮かぶ塵のようにはかないものと達観した心境の表現とされる。
    浮塵子でウンカ(半翅目ウンカ科の昆虫)の漢名、ユスリカの別名とされる。
  • あるいは「泛塵」とは利剣を意味する言葉だともいう。

 来歴

 真田幸村

  • 真田幸村が使ったという脇差。
  • 幸村は国広に銘を入れさせている。
  • 大阪夏の陣での真田幸村の死後、紀州高野山から売りに出されたという。

 伊藤蘭嵎

  • のち紀州藩に仕えた儒学者・伊藤蘭嵎(才蔵長堅)が所持していた。なお伊藤蘭嵎は元禄7年(1694年)生まれのため、この間に誰かが所有していた可能性が高いが、不明。

    蘭嵎の佩刀は眞田幸村の帯たる刀の由、大直刄一尺六七寸計、表に泛塵眞田左衛門帯之、裏に宇多国次作國廣上之を金象嵌にて彫入る。

     翁は性また武を嗜み、毎に刀劍を愛し、蛇鞘刀の名劍及び相州綱家作の近江槍を所持し、槍は今猶之を家に秘藏してゐる。亦嘗て眞田幸村の佩刀、泛塵と銘する名刀を所藏した。藩主之を聞いて、侍臣をして之を求めしめられた時に、蘭嵎は臣敢へて獻ぜざるにはあらざれども、一旦敵の佩刀たりしものなれば、恐らくは君家を汚さんと、申上げた。翁の歿後は野呂介石、此の刀を得て鍾愛したが、今は何人の手にあるかを知らない。
    梅菴神野百歳翁は、その顛末を知つてゐるといふと語つた。神野梅菴、通稱九兵衛 百歳翁と稱し自ら百歳を期した、明示丗年頃九十六歳にて沒した。後に梅菴が此の話を聞いて、次の如き書を周峰に寄せた。
    (南紀先賢列伝)

    この部分は儒学者・伊藤蘭嵎についての評伝部分で、最後に愛刀家であったことが語られる。藩主に求められるが断る話はいろいろな書物で登場する。後段で神野梅菴が語った「周峰」とは、伊藤蘭嵎の五世の孫だという。続く以下の部分が神野梅菴が送った書。

    「梅菴神野百歳翁」とは神野嘉功(じんの よしのり)のこと。寛政10年(1798年)生まれ、明治28年(1895年)没。通称九兵衛。代々紀州藩士の家系で、天保13年(1842年)に家督を継いだ。300石。初名義微、字子仙、号梅庵。維新後に嘉功へと改めた。篆刻、武術に長じ、「見聞録」などを著した。
     「南紀徳川史」名臣傳の「之(し)之部」に神野八郎兵衛忠恭という300石取の人物が出ている。それによれば忠恭の父は伊勢采女の出で、大須賀康高に仕え、さらに松平忠吉(家康の子で尾張清洲藩主)に仕えたという。のち家康に召し出され、さらに徳川頼宣に付けられ、元和5年(1619年)紀伊入国に従って紀伊藩士となったという。この八郎兵衛忠恭の子が半太夫あらため八郎兵衛重安で、さらに八郎兵衛重安の子が九兵衛義微(つまり神野嘉功)となる。明治22年(1889年)に徳川義禮が和歌山を訪れた際には、当時92歳の神野嘉功が水泳を御覧に供したという。98歳で没。

 野呂介石

  • その後は紀州藩士の野呂介石(九一郎)が入手したという。野呂介石は伊藤蘭嵎に師事したこともあるという。※便宜のため段落を前中後の3つに分けた。

     語云、有文事者、必有武備。信哉。抑先生所藏蛇鞘刀之事績者、南紀風雅集ニ明矣。僕壯年ノ比、實父ノ親友ニ猪谷三郞兵衛トイヘル人來リ訪フアリ。其茶話中ニ、先年伊藤蘭嵎先生ノ佩刀ニ眞田幸村ガ帶シタル刀ヲ一見ナセシニ、中心ニ六敷文字ヲ鐫付ケアリ。其文字誰モ解スル事能ハズ。偶安藤家之儒官ニ宮所徳甫アリ。此文字ヲ泛塵(チリハラヒ)ト讀ミ、即チ水中ヘ刀ヲ建テ、刄ヲ水上ニ向ケ、又、水上ヨリ塵ヲ流シ、塵即チ、刄ニ觸ルレバ、忽チ両斷シテ流ルト、現ニ其利鈍ヲ試ミタル事ヲ記スト云フ。僕因テ其刀ノ作人且其文字ヲ尋ルニ、年久シケレバ確認セズト。此事常ニ心頭ニ懸リ、同志ノ士ニ探尋スト雖モ、敢テ知ル者ナカリケリ。

    或夜、內村又十郞來リ訪フ。其閑話ノ中ニ、彼ノ蘭嵎先生刀、眞田左衛門佩刀ノ舊諸ヲ詳悉セリ。其ノ話ニ曰ク、先生紀國ニ召抱ト成ル時、御連枝山城守殿ヘ儒書ヲ御授ケ申セシニ、或時仰セラレシハ、其方ノ佩刀ハ眞田左衛門ガ帶シタル刀ノ由聞及ベリ。イカデ其佩刀此方ヘ讓リ吳候樣仰ニ候處、蘭嵎落淚シ、鄙賤之身ノ佩刀御所望トハ冥加至極ニ存シ候得共、忠臣智勇之人ナドノ佩刀ニ候ハヾ、固ヨリ差上奉リ可申候。併シ眞田幸村ハ一旦御敵對仕タル者ノ儀ニ付、私トテモ所持仕候儀、恐怖罷在候次第、御所望成戴キ、實汗顏ニ不堪ト申上ケレバ、尤ノ由被仰テ相止ミタリ。

    蘭嵎先生歿後、長男甚左衛門トイヘルハ博學多才ナレドモ、人ト爲リ放蕩ニシテ、產ヲ破リ候付、右幸村刀、并文珠重國短刀、其外珍器文房具等、賣却或ハ質物ト成シ金子融通ノ節、介石野呂九一郎は好事ノ人ニテ、其幸村ノ刀ヲ買求セリ。今尚、野呂家ニ珍藏スト承リ、僕喜悦無限、翌日、徑チニ介石翁ヲ尋訪シケルニ、翁病床ニ臥シ、輔會成シ難キ旨謝絕セリ。因テ嗣子介于周輔ニ乞ウテ曰ク、僕今日來訪セシハ、書畫ノ要求ニ非ズ、彼ノ眞田幸村佩刀御所持ノ由承リ及ベリ。イカデ一覽ヲ給ラント申ケレバ、周輔欣躍シテ、翁ニ其旨ヲ告ゲラレ、暫クアリテ、周輔一刀ヲ携帯シ來レリ。
     
      其中莖ニ  泛塵○眞田左衛門帶之
                     宇多國次作國廣上之
     
    右刀刄長サ壹尺六七寸、中反リ、常體、菖蒲作リ、刄文太蔓理莖、表ニ宇多國次作國廣上之ト差裏目貫穴ノ上ニ泛塵、穴ノ下ニ眞田左衛門帶之ト、草書ニテ飛動スルガ如シ。表裏共ニ金象眼甚ダ美ナリ。國次作國廣上之トアルハ、堀川國廣ナラン。「チリハライ」トハ泛塵ノ二字ナラン乎。
    (南紀先賢列伝)

    野呂介石(九一郎)は紀州藩に仕えた文人画家。
  • 前段は伊藤蘭嵎が所持していた刀について誰も読めなかったが、安藤家の儒学者・宮所徳甫がチリハラヒと読んだのだという。その後藩主に求められるも断った話が続く。後段はかなり長いが、本刀が野呂介石に伝わっていた時に(內村又十郞から話を聞いて)神野梅菴なる人物が野呂介石宅にその経緯を聞きに行った話が綴られている。それによれば既に野呂介石は病で床に伏しており、子である野呂介于周輔に本刀のことを尋ねた所、実物を見せてくれたのだという。
  • 上記引用文の概要
  • 引用文1:
  1. 伊藤蘭嵎翁は、(儒学のほかに)武を嗜み、蛇鞘刀の名劍、相州綱家作の近江槍、さらには真田幸村所持の泛塵を所持した。
  2. ある時、藩主より侍臣を介してこの泛塵を求められたが、敵方の所持した刀であり憚られると申し上げ、この話はなくなった。
  3. 伊藤蘭嵎翁の後、本刀は野呂介石所持となっていたが、その後はどうなっているかわからない。
  4. しかし神野嘉功がその顛末を知っており、それを伊藤周峰へと書き送ったという。※それが引用文2になる
  • 引用文2:前中後段
  1. 【前】:神野梅庵(嘉功)は壮年の頃、父の親友である猪谷三郞兵衛から”伊藤蘭嵎所持の本刀を見た”という話を聞いた。(猪谷らが見た際に)誰も銘文を理解できなかったが宮所雄水が「チリハラヒ」と読んだという。※この時神野嘉功ははその漢字(泛塵)を知らなかった
  2. 【中】:それ以来ずっと気になっていた所、ある時に内村又十郞が夜に訪れてきて雑談をする中で、本刀が現在は野呂九一郎所持であることを知った。またこのときの話では、引用文1で「藩主」となっていた本刀を求めた人物が、「御連枝山城守殿」へと変わっている。いずれにしろ一度敵に渡りし刀故ということで献上は断っている。
  3. 【後】:伊藤蘭嵎の死後、長男甚左衛門は幸村の刀や文珠重國の短刀を始めとして珍器文房具を売り払ってしまい、そのうち幸村の刀(泛塵)については介石野呂九一郎が入手していた。内村又十郞の言うには今も野呂家にあるのだという。神野嘉功が喜び勇んで野呂家を訪れた所、野呂介石は病に伏していた。そこで養子の野呂介于に本刀を見せて欲しいと頼んだ所快諾してくれ、実物を見た。そこで初めて「チリハラヒ」が泛塵の二字であることを知った。
  • 野呂介石は文政11年(1828年)に没しており、その頃までは野呂家にあったことがわかる。しかしその後は不明。

 伊藤蘭嵎(いとうらんぐう)

  • 伊藤蘭嵎は江戸時代の儒学者。
  • 元禄7年(1694年)生まれ、安永7年(1778年)没。
  • 京都堀川学派の祖である伊藤仁斎(じんさい)68歳の時に設けた五男で、諱は長堅。名は才蔵。※伊藤仁斎は初めの妻との間に1男2女、さらに後妻との間に4男1女を設けた。
        尾形道伯
          ├─尾形宗伯─┬尾形宗謙─┬尾形光琳
         ┌法秀     │     └尾形乾山             ┌伊藤東峯──伊藤重光──伊藤琢彌
         ┴本阿弥光悦  │                       ├伊藤臨阜(弘剛)
                 └尾形元安──嘉那               ├伊藤東岸
                         │               ├伊藤東阜
                鶴屋七右衛門   ├────伊藤東涯──伊藤東所─┴伊藤東里
      里村紹巴──里村玄仲   ├────伊藤仁斎
             ├────那倍     ├───┬伊藤梅宇【徳山藩儒→福山藩儒】
     ┌吉田宗恂──妙源           │   ├伊藤介亭【摂津高槻藩儒】
     └角倉了以              瀬崎氏  ├伊藤竹里【久留米藩儒】
                             └伊藤蘭嵎──伊藤亦蘭━━伊藤海嶠━━伊藤弘剛━━伊藤専藏(周峯)
                              【紀州藩儒】
    
    
    
    【堀川学派(古義学派)】
    伊藤仁斎──伊藤東涯──伊藤東所──伊藤東里──伊藤東峯──伊藤重光
    
    
    伊藤仁斎の祖父・鶴屋七郎右衛門は商人であったという。父は次男で、別家して鶴屋七右衛門を称した。父・七右衛門は伊藤長勝、号了室。
  • 兄に源蔵長胤(東涯。号 慥々齋)、重蔵長英(はじめ長敦。号 梅宇)、正蔵長衡(号 介亭)、平蔵長準(号 竹里)がいる。兄弟を「伊藤の五蔵」と呼び、また長男と五男(末弟)が特に優れたため「伊藤の首尾蔵」とも呼ばれる。父・仁斎を早くになくし、長兄・東涯に養育された。

       堀川の五藏
    伊藤仁斎に五子あり、長は原藏(長胤、東涯)、次は重藏(長英、梅宇)、次は正藏(長衡、介亭)、次は平藏(長準、竹里)、季は才蔵(長堅、蘭嵎)。皆家學を以て鳴る、故に時人呼んで之を堀川の五藏と稱す。東涯、蘭嵎の傑出せるを以て藤家の首尾藏と唱えらる。

  • 伊藤蘭嵎は享保16年(1731年)から紀伊藩に儒者として仕え、禄三十人扶持を支給される。
    はじめ徳川宗直(伊予西条藩2代藩主、のち和歌山藩6代藩主。)は、蘭嵎の兄・東涯を招聘しようとしたが応じなかったために蘭嵎を招いたという。しかし元文元年(1736年)には兄・東涯が亡くなったため、蘭嵎は甥である伊藤東涯の嗣子・東所を養育し古義堂の経営をするべく京へ戻った。さらに10年後、東所が長じたため蘭嵎は再び和歌山へと戻った。
  • 伊藤蘭嵎は墨蘭の画を能くしたといい、また刀剣にも造詣があった。

 系譜

伊藤蘭嵎──亦蘭──海嶠──弘剛──専藏(周峯)
伊東亦蘭
伊藤蘭嵎の子。
  • 名は甚左衛門、諱を有濟、字を南容と称した。これが上の引用文で「長男甚左衛門トイヘルハ博學多才ナレドモ、人ト爲リ放蕩ニシテ」本刀を手放すことになる人物である。
  • 父の跡を継いだが、寛政3年(1791年)8月10日に没。享年39。
  • 子は夭折し、残ったのは女子のみだったという。
伊東海嶠
伊東亦蘭の養子。
  • 元は淡路三原の菅野善右衛門延常の六男という。海藏弘朝。
  • 長じて京都に遊学し、伊藤東所(伊藤仁斎の長男・伊藤東涯の子)に師事した。
  • のち伊東亦蘭が嗣子なく没したため、東所の推薦により30歳で伊藤氏を継いだという。この時、亦蘭の娘を娶っており、1女が生まれたという。嗣子なかったため、東所の四男・弘剛を養子とした。
  • 文政元年(1818年)4月27日没。享年56。
  • 「南紀風雅集(なんきふうがしゅう)」を著した。日本古典籍総合目録データベース/館蔵和古書目録データベース:書誌詳細画面
伊藤弘剛
  • 伊藤東所(伊藤仁斎の長男・伊藤東涯の子)の四男に生まれ、のち伊東海嶠の養子となった。字は大藏、臨旱と号す。嘉永4年(1851年)7月没。享年56。
  • この弘剛にも嗣子なく、岡本伴右衛門のニ男・専藏を養子とした。
伊藤専藏
  • 岡本伴右衛門のニ男で、伊藤弘剛の養子となった。名を弘耿、周峯と号す。明治36年(1903年)4月没。享年65。
  • ※この伊藤専藏こと伊藤周峯が、上の引用文で登場する「周峰」だと思われる。

 野呂介石(のろ かいせき)

  • 野呂介石は江戸時代後期の文人画家。紀州藩に仕え、祇園南海、桑山玉洲とともに紀州三大南画家と呼ばれている。
  • 紀州和歌山城下の湊紺屋町、町医の野呂九右衛門方紹(高紹)の三男として、延享4年(1747年)に生まれる。通称弥助、後に九一郎(きゅういちろう)、喜左衛門(きざえもん)。
  • 10歳の頃より藩儒の伊藤長堅(蘭嵎)に儒学を学んだ。墨竹などの画を好み、中国の画法を独学しようとしたが進まず、14歳にて京都に出て黄檗僧の鶴亭(海眼淨光)について長崎派の画法を修める。
  • さらに21歳の時に池大雅について南画の技法を修得した。京都と和歌山を行き来しながらおよそ10年もの間、毎日山水画十景を画くことを日課とした。28歳の時に師の池大雅を失い、このころ清の来舶商・画家の伊孚九に私淑し影響を受けている。大坂の木村兼葭堂や、紀州の先輩の桑山玉洲とも親しく交流し画業の研鑽に励み、名を成すようになる。
  • 34歳の時に嫁は宮所氏の光と再婚している。この光の父・宮所時懋は紀伊田辺藩の儒学者であり、上記引用文で「偶安藤家之儒官ニ宮所徳甫アリ。」として登場する儒学者である。光との間には一子・五藏が生まれるも9歳で夭折した。この後、甥の隆忠(野呂介于)を養子にしている。
    宮所雄水(みやとこ ゆうすい)。名は時懋、字徳甫、号雄水。冨二郎あるいは冨十郎と称したという。文化7年(1810年)4月没。和歌山県立博物館には、野呂介石が宮所雄水80歳の長寿を祝って贈った「芝仙延年図(しせんえんねんず)」が所蔵されている。
  • 46歳の時藩命により紀州に戻り、勘定奉行支配小普請として医業を以て藩に仕え、のちに銅山方なって領内各地を踏査している。江戸には2度赴いた記録があり、晩年には江戸詩壇の大窪詩仏、菊池五山との交わりがあった。その他に頼山陽、頼杏坪、篠崎小竹、田能村竹田、本居大平などの交友が伝えられる。
  • 兄と慕うひとつ上の桑山玉洲とともに南画会の双璧と評されている。また長町竹石、僧愛石とともに「三石」とも称されている。
  • 文政11年(1828年)3月14日に没。享年82。
  • 号は多く用いており、介石のほか、斑石(はんせき)、十友窩(じゅうゆうか)、澄湖(ちょうこ)、混斎(こんさい)、台嶽樵者(だいがくしょうしゃ)、第五隆(だいごりゅう)、晩年になって矮梅居(わいばいきょ)、四碧斎(しへきさい)、四碧道人(しへきどうじん)、悠然野逸(ゆうぜんやいつ)と号している。

 系譜

野呂介于
のろ かいう。
  • 和歌山城下の町医者である野呂隆基(以耕)のニ男として安永6年(1777年)に生まれ、のち15歳の頃に叔父にあたる野呂介石の養子となった。※野呂隆基は野呂介石の次兄。
  • 名は隆忠、字は周輔。養父の跡を継いで文人画家となっている。
  • これが上記引用文で「因テ嗣子介于周輔ニ乞ウテ曰ク、(略)周輔欣躍シテ、翁ニ其旨ヲ告ゲラレ、暫クアリテ、周輔一刀ヲ携帯シ來レリ。」と記される人物である。
  • 安政2年(1855年)没、享年79。跡は野呂松盧(名は饒蔵)が継いだという。




 別の泛塵

  • 下原鍛冶の因幡守広重作の刀に表「因幡守猪広重千鍛万□■作之」、裏「両胴截断 如籌泛塵塗」、棟に「延宝元年二月吉日」と銘があるものがある。
    □は、偏が火の下に土、旁が索の糸が木。■は、尚の口が小。
  • 吉野朝造氏旧蔵

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