江草子狐


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 江草子狐(えぐさこぎつね)

甲斐武田氏相伝
三条小鍛冶宗近作の太刀
長三尺
小狐丸

Table of Contents

 来歴

  • 甲斐武田氏第13代武田信満(信玄より7代前)の長男武田信重は、「楯無の鎧」、三男の信康(江草兵庫介)が「小狐丸」を相伝したという。
    なお13代武田信満は、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱において前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の縁者であったために氏憲側につくが敗れ、本国甲斐に敗走し木賊山で自害する。この木賊山とは天目山の旧名であり、後に第20代当主武田勝頼が自害することになる。

 江草氏

  • 江草とは山梨県北巨摩郡須玉町江草であり、鎌倉初期からここに武田一族が住して江草氏を称した。そこにあった宗近の太刀が武田本家に入り、それを信康(江草兵庫介)が相伝したものという。

 今井氏

  • 信康は応永(1394年)の末に早世したため、刀は弟の今井信景の家に相伝することとなったという。

 武田宗家→八幡神社

  • その後、延宝ごろの記録によれば、甲斐甲府中村の八幡社(古八幡神社。宮前町の八幡社とは別)に武田信玄奉納の小狐丸という太刀が一振りあったという。

    承久中石和五郎信光、石和に勧請し、永正十六年武田信虎躑躅ヶ崎へ移す、文禄中に浅野長政今の所へ遷す、この神社に太刀一振りあり、長さ三尺、小狐丸と云ふ。社傳に曰、武田信玄川中島合戦の時、戦勝を祈りてこの太刀を奉納す。

    石和五郎信光とは、甲斐武田氏の5代当主武田信光のこと。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称した。
     つまり、八幡神社は、甲斐武田氏5代の武田信光が承久年間に勧請し、永正16年(1519年)に18代武田信虎が躑躅ヶ崎に移し、19代信玄が小狐丸を奉納したということである。

  • この伝が確かならば、小狐丸は甲斐武田氏13代の武田信満の頃には宗家にあり、三男の信康(江草兵庫介)に相伝した。のち今井家に伝わった江草子狐は、その後再び甲斐武田宗家に戻り、甲斐武田氏第19代信玄の時代に中村の八幡社に奉納されたということになる。
武田信光──信政──信時──時綱──信宗──信武──信成──信春─┐
                                 │
┌────────────────────────────────┘
│
└武田信満─┬信重───信守──信昌──┬信縄──信虎──晴信信玄
      │             └油川信恵
      │
      ├武田信長(右馬介)【上総武田氏】
      │
      ├信康(江草兵庫介)
      │
      └今井左馬助信景─兵庫助信経─┬信慶─浦兵庫信是─信元
                     └信乂

  • そこで今井氏の歴史を追うと、左馬助信景の後、今井氏は獅子吼城(浦城)を拠点とし上杉禅秀の乱で武田宗家の力が弱まると国人層として力を持ち、永正5年(1508年)油川信恵の乱後には武田宗家への反発姿勢を強める。
  • 武田信虎は永正16年(1519年)8月に躑躅ヶ崎館の建設に着手し、城下町を整備して国人層に対する甲府集住政策を推し進めた。
  • 浦兵庫と称された今井信是は、この政策に反発して永正17年(1520年)に反乱を起こすが敗退する。降伏の条件として息子今井信元に家督を譲っている。
  • その今井信元も享禄4年(1531年)に飯富虎昌や栗原兵庫、大井信業らと結んで信虎に対して反乱を起こすが、河原辺の戦いで敗れると信虎に逆らうものはいなくなり、ここに武田信虎は甲斐統一を果たす。
  • 恐らくこのときに「江草子狐」についても献上あるいは分捕られたものと見え、武田宗家に伝わった後、信玄により甲斐甲府中村の八幡社に奉納されたものだと思われる。
    永正寺月曳という者を介して入手したとも言う。
  • ただしこちらは長三尺もの大太刀であり、摂関家伝来の小狐丸とはまったくの別物ということになる。

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