桑山志津
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桑山志津(くわやましづ)
刀
名物 桑山志津
長二尺三寸五分
- 享保名物帳所載
桑山志津 長二尺三寸五分 代千五百貫 酒井河内守殿
桑山伊賀守所持、慶安三年極
- 詳註刀剣名物帳
桑山伊賀守は桑山修理、のち法印と称せし者の二男、名は元晴、紀州にて一万六千石を領す、子の代に及び嗣なくして家絶へ更に千石を賜つて其子孫旗下に列す。
酒井河内守は上州厩橋酒井雅楽頭忠清の子、忠挙のち雅楽頭に任じ寛延二年より姫路へ移る。
由来
- 桑山伊賀守元晴所持にちなむ。
- 「桑山当麻」にも名を残す。
来歴
- 断絶した後か、同家を出て雅楽頭系酒井家宗家5代の酒井忠挙が入手する。
- 寛延2年(1749年)に姫路へ転封されたのは、雅楽頭系酒井家宗家9代で上野前橋藩第9代藩主の酒井忠恭の時。
- なおこの姫路移転については元々酒井家の悲願であったが問題が多々発生している。
- まず厩橋の地は、家康直々の朱印状にて「永代この城を守護すべし」と厳命された地であり、藩財政が苦しいからといって移ることは許されないと、藩家老の川合定恒が反対していた。そのために以後の転封工作は川合を抜きにして進められることとなり、移封後の寛延4年(1751年)に川合は、本多、犬塚の両名を殺害し、代々の藩主への謝罪状をしたためて自害している。
- さらに藩財政を立て直すと期待された姫路藩では、移転前の寛延元年(1748年)に大干ばつが起きていたが、前藩主松平明矩は年貢徴収の手を緩めることはなかった。住民の不満が高まる中松平明矩は急死してしまい、幼年を理由に松平家が他国へ転封するという噂が流れると、借金踏み倒しを恐れた領民による一気が発生してしまう。翌寛延2年(1749年)年初に前橋の忠恭と姫路の松平喜八郎(朝矩)の領地替の命令が出された。一揆は翌月には収束するが、この混乱が尾を引き転封は5月22日までずれ込んだ。その後7月には姫路藩を台風が襲い400人以上の死者を出し、さらに翌8月にも台風が直撃し領民3000人余が死亡するという大被害を蒙り、酒井家の財政は悪化の一途を辿った。
- ともあれ、姫路藩酒井家は酒井雅楽頭嫡流として数代に渡り老中や大老を輩出し続け明治を迎えた。
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