柯亭


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 柯亭(かてい)

龍笛
号 柯亭

  • 龍笛のひとつ
Table of Contents

 概要

  • 「柯亭」は、横笛(龍笛)の名称のひとつ。
  • むかし後漢の蔡邕(さいよう)が、柯亭館に宿泊した際に(たるき)の竹で名笛を作ったという故事から、転じて笛のことを指すようになった。「柯亭」の名はこの故事にちなむ。
    蔡邕(さいよう)は、中国後漢末期の政治家・儒者・書家。字は伯喈(はくかい)。兗州陳留郡圉県(河南省)の人。博学で文章に優れ、数術や天文に詳しいばかりか、音律に精通して琴の名手でも知られた。霊帝〔在位:168-189〕の時に郎中となり、洛陽太学門外に46枚、総字20万字に及ぶ石碑(熹平石経)を建てている。宦官の専横を批判したことから中傷を受け、揚州へと逃れた。ここで10余年を過ごす。霊帝が崩御して董卓が実権を握ると招聘され、尚書から左中郎将に任じられた。王匡討伐で軍の指揮を執って功績を挙げるが、のち董卓が王允によって誅殺されると、連座して投獄され獄死した。享年61。

    「今傳リテ我朝ニアリ」というのはさすがに無理があり、優れた龍笛に柯亭の名をつけたものと思われるが、その由来や命名者は不明。

 来歴

来歴はほぼ不明です。以下において譲渡がある程度明らかな場合には「→」を付けて記載します。それ以外は「その時代にその人物が所持した」事のみを示しており、前後の所持者との関連はほぼ不明です。

 頼忠→公任→教通

  • 関白・藤原忠実によると、元は三条関白こと藤原頼忠の所持で、四条大納言こと子の藤原公任へ、さらに婿である藤原教通(大二条殿)へと伝わったという。

    同仰云ク、柯亭ハ三條關白ノ笛也。四條大納言公任コレヲ傳フ。大ニ條殿教通ハ彼納言ノムコナリ、仍是ヲ傳ヘ給ト云ヘリ。
    此柯亭ハ昔唐土ニ蔡邕ト字伯喈イフ人アリ、柯亭舘ニ宿ス。柯亭ノタルキ竹ニテアリケルニ邕コレヲ見テユヽシキ笛竹ナリトテ笛ヲツクル、其音世ニスクレタリ、今傳リテ我朝ニアリ。

    藤原教通は藤原道長の五男で、母は左大臣・源雅信の娘・源倫子。藤原頼通の同母弟。兄・頼通と同様に嫡子として扱われ、頼通のあとに関白となっている。頼通が子・師実に関白職を譲るよう迫ったのに対して、教通も子・信長への譲位を図ったことから兄弟の不和が決定的となる。
     教通が死ぬと関白職・藤氏長者は師実のものとなり、信長は事実上名誉職である太政大臣へと追いやられた。さらに師実に一座の宣旨が下ると信長は長い隠遁生活を送った後に死去し、教通流は衰微した。
     その一方で、師実も自身と子・師通が相次いで死んだことから若年の忠実が跡を継がざるを得なくなったことや、養女・賢子を中宮に入れていた堀河天皇が崩御したこともあり天皇家外戚の地位を失う。この後、摂関職は北家御堂流により世襲化(摂関家)されると同時に形骸化した。

  • 藤原忠実は、「柯亭」を「葉二」、「青竹」に次いで日本第三の横笛(龍笛)であるとしている。忠実によれば、第一は葉二、第二は青竹、第三は柯亭、第四は大水龍、第五は小水龍であるとしている。

    禪定殿下ノ仰云、本朝ノ横笛ハ葉二ヲモテ第一トス。此笛他竹ニ不似、其色赤キ事銅カケタル鞦ニコトナラズトイヘリ。第二ハ青竹、第三ハ柯亭、第四ハ大水龍、第五ハ小水龍ナリ。

 後宇多天皇

  • 後宇多天皇が愛用されたことが、「増鏡」に載る。※弘安6年(1283年)?

    今日は、内・春宮・両院、御膳参る。陪膳花山院の大納言〔長雅〕、役送四条の宰相・三条の宰相の中将、本院の陪膳大炊御門大納言信嗣、新院のは春宮の大夫など勤めらる。其の後、御遊び始まる。内の上御笛、柯亭と言ふ物とかや。御箱に入れたるを、忠世持ちて参れるを、関白取りて御前に奉らる。

 後二条天皇?

  • 正安3年(1301年)11月22日、後二条天皇が行った大嘗祭にて、使用されている。

    廿ニ日、丁巳、晴、今日主基節會也、(略)
    清暑堂御神楽(略)
    柯亭

 後醍醐天皇?

  • 元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が北山殿に行幸して行われた花御覧において、「柯亭」が使われている。

    代々公私荒序所作事
    元弘元年三月六日、北山殿舞御覧、自四日行幸荒序、
     舞土御門中將源顕家、八方破二反、轉三度、詠詞、 勅禄十二單、二條[道平]關白殿被下之、依爲御師葛榮参給之、左肩係退二拝畢、取次[狛]眞仲・[狛]近榮・[狛]衆葛
     (後醍醐院)御所作、御師[大神]景光、器何[柯]亭 笙源中納言具行、御師[豊原]兼秋 大鼓菊亭前右大臣家兼季、于時樂所御奉行 正鼓[藤原]孝重朝臣 一コ[狛]季眞

    当時北山第は西園寺家の持ち物。当主は西園寺実衡の子・西園寺公宗。公宗は父・実衡より関東申次を継いだが、建武の新政後は逼塞する。のち建武2年(1335年)に北条時行らと謀って後醍醐天皇の暗殺と後伏見院擁立を図るが露見し、義父・日野資名らと共に捕らえられ8月2日に処刑された。家督は弟・西園寺公重(竹林院内大臣)が継いだ。しかし公重は南朝に仕えたため、結果的には兄・公宗の子・実俊の家系が室町幕府の「武家執奏」に任じられ存続した。

 崇光天皇

  • いかなる理由で北朝に伝わったのかは不明だが、崇光天皇が所持したのち、子の伏見宮栄仁親王へと伝わった。

    自崇光院御相傳

 伏見宮栄仁親王→後小松上皇

  • 応永23年(1416年)、伏見宮栄仁親王(初代伏見宮)が後小松上皇に名笛「柯亭」を献上している。父である崇光天皇より相伝したという。これにより栄仁親王は、室町院領及び播磨国の国衙領を安堵されている。

    伏見宮栄仁親王、後小松上皇に名笛柯亭を献じて、御料所の安堵を奏請せらる、是日、上皇、院宣を賜ひて、室町院御遺領を安堵せしめらる、

    御笛號柯亭、天下名物至極重寶也、自崇光院御相傳、年來雖有御祕藏、仙洞へ被進之、(略)四弦道事始終斷絶無念之間、祕曲事兩御方新御所(貞成王)可被授置之由、御書ニ被載之、

    伏見殿(栄仁親王)は、御老病なへなへと□しますほとに、始終御安堵の事を仙洞(後小松上皇)へ申さるゝとて、柯亭といふ名物の御笛をまいらせらる、この笛は天下の寶物にて、清暑堂の神宴、其外公宴嚴重の時ならては、おほろけにいたされぬ名物なり、御相傳ありて御祕藏なれとも、まいらせおかる、かひかひしく叡感ありて、室町院領相傳にまかせて永代管領あるへきよし、院宣を進らる、

    「清暑堂」は平安京大内裏豊楽院内の殿舎。大嘗祭の後、この堂で神楽などが行なわれた。

 後小松上皇

  • 応永32年(1425年)2月11日、仙洞での御遊の際に使用されている。

    十一日、壬子、天晴、今夜院御遊也、(略)
    内大臣笛、柯亭、公物也、下絬

    当時は称光天皇の治世で後小松天皇の院政期。称光天皇は後小松天皇の第一皇子。母は日野西資子(日野資教の養女)。応永19年(1412年)8月に父帝より譲位され6歳で即位。叔母の日野業子は義満の正室。

  • 永享2年(1430年)11月、後花園天皇の大嘗祭の際に、清暑堂御神楽が行われている。この時、中山定親が名器「柯亭」を使いたいと申し出るが、後小松上皇は定親の精進を認めたものの許可はしなかった。定親は諦めきれず再度懇請しており、神楽の際には「蛬」を、御遊の際には「柯亭」を奏したという。

        笛
    中山宰相中將器柯亭、大通院[栄仁親王]御時被進仙洞了、此器天下名器無双重寶也、

    「蛬」もまた伏見宮栄仁親王秘蔵の楽器。死後に綾小路信俊へと与えられたが、のち永享2年(1430年)11月には後小松上皇の所持となっている。

  • 永享5年(1433年)正月3日の後花園天皇の元服式の際にも使われている。

    次王卿着御座
      予出上戸、於年中行事障子邉、召笛筥所役人  授笛、是非柯亭、以他笛盛之、於柯亭者、依爲重寶不放身、深納懐、於座取替可吹之故也、参進着座、其儀如除目時、右衛門督隆盛前参議也、帯飾劔、付魚袋、此事不審、不列拝賀者、若猶可用蒔繪無文欤、若又帯飾劔、付魚袋者、可列拝欤、彼卿聽本座也、自上戸邉進加也、


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