東漢直駒


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 東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)

飛鳥時代の人物

  • 蘇我馬子が使った忍者という。
  • 東漢(やまとのあや)氏で姓(カバネ)は直(あたえ/あたい)。
  • 父は東漢直磐井(いわい)とされる。
  • 崇峻天皇5年(592年)11月、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を殺害する。しかしその月に、馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)との密通が露見し、馬子によって処刑された。

 東漢氏

  • 東漢(やまとのあや)氏は倭漢氏ともいう。
  • 応神天皇20年(289年)に多数の渡来人がきており、その渡来系氏族の筆頭格が東漢氏であったという。

    廿年秋九月、倭漢直祖阿知使主、其子都加使主、並率己之党類十七県而來帰焉

    • 倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。この倭漢直(やまとのあやのあたえ)東漢(やまとのあや)氏であるとされている。
  • 蘇我氏も元は渡来系氏族であり、その中で政界に進出した氏族の代表格であったとされる。
  • 東漢(やまとのあや)氏はこの後も蘇我氏と密接な関係にあり、大化元(645)年に起こった乙巳の変(大化の改新)の際にも、東漢(やまとのあや)氏が蘇我蝦夷邸に馳せ参じている。
    蘇我蝦夷は蘇我馬子の子。蝦夷の子が蘇我入鹿(乙巳の変で、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された)。


 崇峻天皇弑逆事件

  • 欽明天皇の第12皇子、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、崇峻天皇)は、用明天皇2年(587年)に大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。
    古事記では長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)

 崇仏廃仏論争の決着

  • 穴穂部皇子を担ぎ出そうとした物部氏であったが、穴穂部皇子は蘇我馬子により殺害され、さらに蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落する。
  • 物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの、造寺事業を積極的に行った。

 蘇我氏との対立

  • しかし即位後も政治の実権を蘇我馬子が握っており次第に二人の間は険悪なものとなっていく。
  • 崇峻天皇5年(592年)10月4日に猪を献上する者があり、天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言する。
  • そのことを聞きつけた馬子が、「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢直駒に暗殺をさせた。

    馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、「今日、東国の調を進る。」という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。

 その後

  • 臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。また死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。
  • この崇峻天皇の後に即位したのが推古天皇であり、推古天皇は甥の上宮之厩戸豊聡耳命(聖徳太子、用明天皇の皇子)を皇太子として万機を摂行(摂政)させた。
    推古天皇は第29代欽明天皇の皇女(額田部皇女)。母は大臣の蘇我稲目の女の堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄。第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。
  • 聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法を制定するとともに、推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣した(遣隋使)。
  • そして、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まり、ついに大化元(645)年に起こった乙巳の変(大化の改新)で蘇我氏一族が滅亡し、皇室への権力集中が進んだ。

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