朋誠堂喜三二


 朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)

江戸中期から後期の武士
久保田藩の江戸留守居
狂名 手柄岡持
洒落本号 道陀楼麻阿
俳号 雨後庵月成、朝東亭

  • 戯作者「朋誠堂喜三二」は、実は久保田藩(秋田藩、佐竹藩とも)の定府藩士の平沢常富(ひらさわつねとみ)
  • 江戸留守居役筆頭百二十石取り。
  • 通称は平角(平格とも)、字は知足、号は愛洲。 隠居号は平荷。
  • 以下は喜三二で通す。
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 生涯

  • 喜三二は、江戸の寄合衆家士・西村久義(平六)、母・黒川兵右衛門武貞の娘の三男として誕生。初名は昭茂。
    • ※父および母の父は、ともに寄合衆・佐藤三四郎豊信(神田表猿楽町住、3200石)の家士。
  • 14歳で母のいとこで久保田藩江戸藩邸詰の平沢常房の養子になり、名を常富とする。6代藩主・佐竹義真を始めとして、7代義明、8代義敦、9代義和の四代に仕えた。
    • なお、養子先は愛洲陰流剣術の祖、愛洲移香斎の子で、永禄7年(1564年)に佐竹義重に仕えて那珂郡平沢村に領地を与えられ「平沢」姓に改めた平沢小七郎宗通(元香斎)を祖としているとされる。
       平沢小七郎宗通─常通─常善─常尚─常房─常富(朋誠堂喜三二)─常芳─左膳
      
      秋田県北秋田市の阿仁鉱山は、江戸時代に開発が活発に行われ、元禄15年(1702年)には藩有となり正徳6年(1716年)には銅山日本一となっている。田沼意次が目をつけて幕府への上知令を出すが、久保田藩の反発が非常に大きく断念する。その後安永2年(1773年)には平賀源内が技術指導のために来山するというつながりもある。
  • 寛延頃、喜三二は6代藩主・佐竹義真の小姓役となる。
  • 宝暦3年(1753年)5月18日に佐竹義真は入部するが、8月20日久保田城で卒去、22歳。9月3日7代藩主に佐竹義明がついた(分家・壱岐守家の出身)。
  • 宝暦4年(1754年)、喜三二は20歳で藩主・佐竹義明の近習役となる。
  • いっぽうで喜三二は若い頃から「宝暦の色男」と自称して吉原通いを続けた(吉原も一種の社交サロンであった)。宝暦7年(1757年)頃。
  • 宝暦8年(1758年)3月18日、帰国していた7代藩主・佐竹義明が久保田城で卒去、36歳。5月21日義明長男の佐竹義敦が11歳で8代藩主となった。
  • 喜三二は宝暦11年(1761年)頃に結婚をしている。「お清」か。
  • 明和3年(1766年)10月15日養父没。
  • 明和4年(1767年)藩主・佐竹義敦の帰国に伴い、5月から翌年3月まで秋田滞在。
  • 明和5年(1768年)、喜三二は刀番に就く。
  • 明和6年(1769年)5月21日藩主に従って秋田帰国。翌年3月23日久保田城発、4月9日江戸着。※秋田行は明和4年、明和6年、安永7年の生涯三度のみ。
  • 安永元年(1772年)藩主弟・左近(佐竹義方)の付頭役。
  • 安永3年(1774年)頃、門人が数百人ほど居たという。

    平沢氏ハ狂哥ニ限ラズ草双紙ナドノ戯作名人ニテ手跡モ至ツテ能書ナリ。江戸町人、御旗本数百人ノ門人アリト聞ケリ。御旗本ノ若衆、平角様(喜三二)今日モ右京殿ノ御供カト云フタル話モアリ。平沢氏廿二三歳ノ時、源通院(佐竹義敦)様モ廿七歳ノ時ナリ。

  • 安永4年(1775年)に恋川春町作・画による「金々先生栄花夢」が出され、黄表紙の時代に入る。同年7月には新吉原細見「五葉松」の序を書く。
  • 勤めの余技に手がけた黄表紙のジャンルで多くのヒット作を生んだ。安永6年(1777年)に「親敵討腹鼓」などで江戸文壇に登場すると、恋川春町と並んで風刺文芸の草創期を築いた。
  • 安永6年(1777年)8月には吉原俄絵本「名月余情」を出す。
  • 安永7年(1778年)正月には新吉原細見「人来鳥」の序を書く。
  • 田沼時代は武士・町人の間に「天明狂歌」といわれる狂歌ブームが沸き起こり、数多くの連(サークル)が作られた。喜三二も「手柄岡持」や「楽貧王」という狂名で狂歌の連に参加していた。大屋裏住(おおやのうらずみ)を中心とする「本町側」を中心に活動していた。※大田南畝#江戸天明狂歌を参照
  • 安永7年(1778年)11月、刀番から留守居助役へ代わる(留守居本役の次席)。
  • 安永8年(1779年)10月吉原細見「秋の夕栄」序を書く。
  • 安永9年(1780年)正月、吉原細見「五街の松」序を書く。7月吉原細見「勝良影」の序を書く。
  • 天明の頃の喜三二は藩の江戸留守居役筆頭で、120石取りであった。当時の江戸留守居役は、江戸藩邸を取り仕切り、幕府や他藩との交渉を行う、一種の外交官に相当した。
  • 天明元年(1781年)7月、吉原細見「身通の始」の序を書く。
  • 天明2年(1782年)新吉原細見「人松島」の序を書く。この天明2年(1782年)より「手柄岡持」の狂名を使い始めたか。7月新吉原細見「饒の貢」の序を書く。
  • 天明3年(1783年)正月新吉原細見「五葉松」の序を書く。下谷三味線堀に三階建ての高殿完成記念として、喜三二を介して四方赤良、東作、節松らを招き宴を張る。7月新吉原細見に序を書く(※3年正月板と同文)。
  • 天明4年(1784年)正月新吉原細見に序を書く(※3年正月板と同文)。この年に留守居役筆頭に就く。
  • 天明5年(1785年)6月1日8代藩主佐竹義敦が江戸藩邸で薨去、38歳。7月新吉原細見に「亀山人朋誠」の名で序を書く。7月26日9代藩主に佐竹義和(義敦長男)が就任する。
  • 天明6年(1786年)正月、新吉原細見に序を書く。7月新吉原細見に序を書く。この年20石加増で禄120石となる。正月に江戸大火。将軍家治薨去と田沼意次失脚、土山宗次郎免職して富士見宝蔵番頭へ。
  • 天明7年(1787年)7月新吉原細見に序を書く(正月板は四方山人題)。10月に田沼所領没収、11月吉原大火で仮宅営業、12月土山宗次郎死罪、東作は急渡叱。
  • しかし、松平定信の文武奨励策(寛政の改革)を風刺した黄表紙『文武二道万石通』を執筆し天明8年(1788年)に上梓したことから、久保田藩9代藩主・佐竹義和より叱りを受けたらしく、黄表紙からは手を引き、以降はもっぱら「手柄岡持」名での狂歌作りに没頭した。

    今年喜三二自ら筆を青本の作に絶ち、号を門人芍薬亭長根に与ふ。
    (増補青本年表)

  • 天明8年(1788年)正月、新吉原細見序(手柄岡持狂詩狂文艸稿)。7月新吉原細見序(手柄岡持狂詩狂文艸稿)、12月18日9代藩主・佐竹義和が従四位下・侍従右京大夫叙任。
  • 寛政元年(1789年)正月、新吉原細見序(新吉原細見序文抜書)※細見序はこれで終わる
  • 寛政4年(1792年)幕府より神田川浚渫及び神田川後口火除地土手築造を命じられ、家老岡本・勘定奉行大森と共に、喜三二も参加している。総工費の半額1万1600両が久保田藩の負担。9月15日完工。次男・為八が藩の留守居助役(臨時)。
  • 寛政6年(1794年)2月6日、女御入内奉賀のため京都への派遣命令。25日夜出立、3月8日京着。禁裏に太刀一腰、馬代20両、女御へ白銀10枚。大坂に立ち寄り、4月6日京発、伊勢にも寄り、25日江戸着。5月に「寛政六年京都へ御使ニ登りし日記」(「五十五日記(いそいびき)」、あるいは「伊楚以飛記、又の名磯鼾」)を書く。正月江戸大火、4月2日吉原全焼。女の髪結い禁止。
  • 寛政9年(1797年)5月6日蔦屋重三郎没、48歳。
  • 享和元年(1801年)2月、隅田川浚渫工事手伝い。家老大越・喜三二・息子為八も参加。公費の分担額3万3千両。翌年9月完工。
  • 文化2年(1805年)久保田藩を辞す。20石加増、通称平角を平荷に改める。
  • 文化10年(1813年)5月20日、79歳で没。
    • 辞世は三首載る

      つひの身の瀬となりぬれは飛鳥川 あすより淵とかはるへきかハ
      死たうて死ぬにハあらねどおとしには 御不足なしと人やいふらん
      狂哥よむうちハ手からの岡もちよ よまぬたんてハ日柄のほたもち

    • 子・為八や孫・左膳(初め重蔵)も江戸留守居を勤め、用人にも就任した。
    • 姉の子(甥)も黄表紙作家の宇三太。

 戯作本などの作者として

  • 「手柄岡持(てがらのおかもち)」や「浅黄裏成(あさぎのうらなり)」の狂名で知られる狂歌師でもある。
  • ほか青本では亀山人、笑い話本(洒落本)では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)、俳号は雨後庵月成、朝東亭など多くの筆名や号を使い分ける。
  • 若い頃から吉原通を続け、蔦屋重三郎ともつながりがあり黄表紙で著名になる。寛政の改革を批判した黄表紙『文武二道万石通』を出したことで藩主・佐竹侯より叱りを受けたのか、黄表紙本から身を引き狂歌作りに没頭した。
  • 作品(安永期)
  1. 親敵討腹鼓(おやのかたきうつやはらつゞミ):恋川春町画、鱗形屋孫兵衛板、安永6年(1777年)
  2. 女嫌変豆男(をんなぎらひへんなまめをとこ):恋川春町画、鱗形屋孫兵衛板、安永6年(1777年)
  3. 珍献立曽我(めづらしいこんだてそが):恋川春町画、鱗形屋孫兵衛板、安永6年(1777年)
  4. 南陀羅法師柿種(なんだらぼうしのかきのたね):恋川春町画、鱗形屋孫兵衛板、安永6年(1777年)
  5. 鼻峰高慢男(はなのみねかうまんおとこ):恋川春町画、鱗形屋孫兵衛板、安永6年(1777年)、寛政6年(1794年)蔦屋重三郎再板
  6. 桃太郎後日噺(ももたろうごにちばなし):恋川春町画、鱗形屋孫兵衛板、安永6年(1777年)
  7. 蛭子大黒壮年過(ゑびすだいこくわかげのあやまり):恋川春町画、鱗形屋孫兵衛板、安永7年(1778年)
  8. 粟津原新吉原旭縁起那須野佛(あわづがはらしんよしわら あさひゑんぎなすののおもかげ):恋川春町画カ、鶴屋喜右衛門板、安永8年(1779年)
  9. 案内手本通通人蔵(あなてほんつうじんくら):恋川春町画、鱗形屋孫兵衛板、安永8年(1779年)
  10. 気散次夢物語(きさんじなゆめものがたり):恋川春町画カ、板元不明、安永8年(1779年)
  11. 鐘入七人化粧(かねいりしちにんけせう):北尾重政画カ、蔦喜実は蔦重板、安永9年(1780年)
  12. 廓花扇観世水(くるわのはなあふぎのくわんぜみづ):北尾政演画、板元不明、安永9年(1780年)
  13. 龍宮四国噂(たつのみやこすこくうワさ):恋川春町画カ、蔦喜実は蔦重板、安永9年(1780年)
  14. 息子妙薬一流万金談(むすこのめいやく いちりうまんきんたん):北尾政演画、蔦屋重三郎板、安永10年(1781年)
  15. 円通誓大通光運開扇子花(えんつうのちかひ だいつうのひかり うんはひらくあふぎのはな):北尾政演画、蔦屋重三郎板、安永10年(1781年)
  16. 鐘入七人化粧漉返柳黒髪(かねいりしちにんげしゃう すきかへすやなぎのくろかみ):北尾重政画カ、蔦屋重三郎板、安永10年(1781年)
  17. 栄華程五十年蕎麦五十銭見徳一炊夢(ゑいぐハのほどごじうねん そばのあたへハごじっせん みるがとくいっすいのゆめ):北尾重政画カ、蔦屋重三郎板、安永10年(1781年)
  • 作品(天明期)
  1. 春狂言御仕着恒例形間違曽我(はるけうげん おしきせ いつものかたまちがひそが):北尾重政画カ、蔦屋重三郎板、安永9年(1780年)の改題再販?天明2年(1782年)
  2. 夫は小倉山是は鎌倉山景清百人一首(それはおぐらやま これはかまくらやま かげきよひゃくにんしゅ):北尾重政画カ、蔦屋重三郎板、天明2年(1782年)
  • (途中)

 逸話など

 号について

  • 狂歌作者らしく大半の号は何かをもじったものである。
朋誠堂喜三二
「干せど気散じ」を洒落たもので、「干す」は空腹、「気散じ」は気晴らしを意味するが、吉原扇屋の遊里言葉では洒落たもんだねを意味し、「武士は食わねど高楊枝」に通じる
手柄岡持
「てがらのおかもち」。「それがし、釣りがすき成れば、手柄の岡持と名を付きましゃう」

此の手柄岡持と云ふ名からして既に釣天狗の名で、此の人自身も釣好で、此の人の釣場は今日でも中川に在る。
(春城随筆)

「釣天狗」とは自身の釣り上手を自慢する人。
浅黄裏成
「あさぎの うらなり」。浅黄裏とは浅葱色の木綿布を裏地に用いた着物のこと。浅黄裏は丈夫で実用性が高かったため江戸でも流行ったが、その流行が廃れた後も田舎侍や困窮していた下級武士が裏地に浅葱木綿を使い続けた。表地だけ豪華に見えるが実際は粗末な服という意味での隠語であり、吉原では田舎侍の意。
道陀楼麻阿
「どうだろう まあ」

 本阿弥長根の師

  • 刀剣研磨を家業とする加賀本阿弥家の本阿弥長根は、一時期狂歌にハマっており、この手柄岡持こと平沢常富に弟子入している。
  • のち師匠の狂号である「浅黄裏成(あさぎの うらなり)」を譲られ名乗る。さらに「喜三二」の号を受けて「三橋喜三二」「二世喜三二」「後の喜三二」とも呼ばれる。
  • 本阿弥長根は、狂歌作者「芍薬亭長根」として天明3年(1783年)の狂歌集「万載狂歌集」(編は四方赤良と朱楽菅江)に載る。詳細は「本阿弥長根」の項を参照

 関連項目


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