明智兼光
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明智兼光(あけちかねみつ)
脇指
銘 本明備州長船兼光/天正□年八月吉日日向守上之
長一尺六寸六分
犬山城白帝文庫所蔵
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由来
来歴
明智光秀
- 元は明智光秀の所持という。
- 天正5年(1577年)に磨上げ、切付銘を入れている。
天正五年八月吉日日向守上之
光秀は、天正3年(1575年)7月に惟任(これとう)を賜姓され、従五位下・日向守に叙任される。以後惟任日向守を名乗りとする。天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加し、その後丹波攻略を命じられている。天正4年(1576年)4月、石山本願寺との天王寺の戦い、天正5年(1577年)には雑賀攻め、信貴山城の戦いに参加し、同年10月には丹波攻めを再開している。
周囲の動きとしては、8月1日に紀州雑賀党が挙兵、8月8日に信長が柴田・羽柴らに北陸出兵を命ず、8月17日に松永久秀・久通親子が摂津天王寺の砦を出て信貴山城に篭もり叛旗を翻している。
光秀による銘入れは、この時期に行われたことになる。
家康
- 家康の所持。
天正12年(1584年)までには入手していたことになるが、入手の時期や経緯はわからない。
成瀬正成
- 成瀬隼人正正成は成瀬正一の子で、幼少より家康に仕え、小姓組となり近侍した。
いとけなきより東照宮につかへたてまつり、御小姓組となりて近侍
- 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにて初陣を果たす。勇敢に敵陣に飛び込み兜首ひとつを挙げる。この功積により家康より500石と脇差(本刀明智兼光)を賜る。家康は、成瀬の他にこの刀を持つべき者なしと激賞したという。
天正十二年四月九日長久手の役に供奉し、味方利を失ふのとき、正成馬をすゝめて首級を得、歸り來りて御旗下に侍す。このとき敵兵御旗本をうかゞひ大軍をもつて競ひ來る。先手の将士等これを支へて相戰ふ。正成また馬を馳てすゝまむとせしを東照宮これを制したまふ。しかれどもつゐに敵軍に馳入、鎗をもつて挑みたゝかひ、鎗の心を切折らるゝに於て刀をぬいてしばらくたゝかひ、終にかの敵をきりて首を得たり。この役に正成軍功多かりしかば賞せられて備前兼光の御脇指をたまふ。
家康公小吉(正成)は若年なれとも此度の見切又自身の高名一廉出かしたりとて大に御賞美あり、備前兼光の脇指を賜ふ、異名明智兼光とて中心に天正五年八月吉日日向守上之と裏銘あり、又成瀬ならでは此刀帯ふ可き者なしとて賜りしとも云へり、
- 成瀬家では、「明智兼光」の名で相伝した。
明智兼光脇指
長一尺六寸六分
直刄小脚亂表裏樋
磨上銘表本明備州長船兼光 裏天正五年八月吉日日向守上之
目釘孔一
- 現存し、平成16年(2004年)に成瀬家が設立した犬山城白帝文庫の所蔵。
- 公益財団法人 犬山城白帝文庫|所蔵資料
- 脇指 銘 本明備州長船兼光天正□年八月吉日日向守上之犬山城白帝文庫蔵 | 信長・秀吉・家康 -それぞれの天下取り- | 平成28年 | 特別展・企画展 | 展示 | 名古屋・徳川美術館
関連項目
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