京の大仏


 京の大仏

かつて京都に存在した大仏

  1. 方広寺大仏:初代は豊臣秀吉による建立
  2. 雲居寺大仏:瞻西上人による造立
  3. 東福寺大仏:九条道家による建立。巨大な仏手(左手)のみが残る
  • 一般的に方広寺大仏が京の大仏として扱われ、東福寺大仏に至ってはWikipediaでは大仏として扱われていない。しかし当時は「新大仏」と呼ばれた。
  • すべて現存しない。
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 方広寺大仏概要

  • 方広寺の初代大仏は豊臣秀吉の発願により建立されたもので、のち慶長4年(1599年)に秀頼が二代目を再建、さらに慶長13年(1608年)に三代目を再建。ここまでが豊臣氏による発願によるもの。
  • のち寛文4年(1664年)に四代目が再建されるも寛政10年(1798年)に炎上。享和元年(1801年)に十分の一のミニチュアが再建。のち天保13年(1842年)に尾張の有志により五代目が再建されるも昭和48年(1973年)に焼失。以降は再建されていない。

 方広寺歴代大仏

  • ※代数については諸説あるが、ここでは鋳造(あるいは木造)に入ったものを数えるとする。

 初代大仏

大仏は木造乾漆造に金箔を貼ったもの
大仏:
 蓮台から頭頂部までは六丈四寸(約18.1m)
 額の頭髪生え際までは五丈七寸(約15.2m)
後光:
 十六体の仏像を有しており幅十二間半(約24.4m)
 高さは剣先までが十六間ニ尺(約31.8m)
 基壇から後光剣先まで37.4m
台座:一辺15mの八角形
 下の花(框台)は九尺七寸(約2.9m)
 上の台(蓮台)は九尺(約2.7m)
 
大仏殿:
 高さ:十六丈(約48m、愚子見記)、二十丈(約60m、山城名勝志)
 観相窓:切り上げ破風

  • もともと秀吉が天正14年(1586年)に発願した時、東福寺近辺に建立する予定だった。
    奈良の大仏について
    奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)は、治承4年(1180年)に平重衡による南都焼討の際に延焼して大仏殿を失っている。その後永禄10年(1567年)の松永久秀と三好三人衆の戦いの際に盧舎那仏像も被災している。大仏殿は仮堂で復興したが、慶長15年(1610年)の大風で倒壊した。大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままで、雨ざらしの状態で数十年が経過した。貞享元年(1684年)、僧・公慶が江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得て、ようやく再興が始まった。元禄4年(1691年)盧舎那仏像が完成し、翌元禄5年(1692年)に開眼供養された。また大仏殿については宝永6年(1709年)に落慶された。
     現在の東大寺盧舎那仏像は、右腋から腹、脚部にかけての部分が当初のもの。また蓮肉、蓮弁は台座後方に当初のものが残るとされる。像体部の大半は室町時代末期の補修、頭部は江戸時代のもので、鎌倉時代の補修部分は背中の一部に残るのみだという。
  • 諸大名により用材などの運上を命じるも、まもなく中断される。
    ※なお同じ頃天正14年(1586年)2月、秀吉は「聚楽第」の着工も行っている。翌天正15年(1587年)2月完成、同年9月に入城。天正16年(1588年)4月に一度目の行幸、天正20年(1592年)1月に二度目の行幸。

    大坂城については天正13年(1585年)4月に本丸完成、天正14年(1586年)2月に二の丸建築開始(天正16年完成)。
    また天正14年(1586年)4月10日には島津征伐の準備を命じており、7月10日は討伐が決定し7月25日には黒田官兵衛らが京都を出発している。翌天正15年(1587年)正月には宇喜多秀家、2月には豊臣秀長らも九州に向け出陣。3月1日には秀吉自身が出陣している。大坂に帰ってきたのは7月である。
  • 天正16年(1588年)には造営地を東山の蓮華王院北側(現、豊国神社裏手)に変更し、建立が再開された。6月10日には大仏建立のため、仏師が奈良から召し出されている。前田玄以を作事奉行とし、高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。
  • 「太閤記」によれば、奈良仏師宗貞法印、宗印法眼であったという。大仏の高さは十六丈。
    寺域は、東西百三十間、南北百三十七間。大仏殿の地盤は東西三十七間南北五十五間、高さ一間半。礎石式は天正16年(1588年)5月15日。大仏殿は十一間七面の二重仏殿で、上層の屋根は四注、下層は正面中央を一段高くして唐破風とした。この大仏殿は西面して建っており、四方に廻廊をめぐらし西の正面に仁王門、南に南門、北に北門を建てた。大仏殿の棟木は木曽・飛騨・四国・九州の隅々まで探しようやく富士山麓で発見し海路大坂まで運ばせたもので、この棟木一本に五万の人夫と千両の黄金を要したという。また各大名が巨石を競って運び、蒲生氏郷が三井園城寺の上から引き出した石は竪・横・厚さが二間余りの巨石であり、また細川藤孝が三日月山から引いた石は竪二間に横・厚さともに一間あったという。この大仏殿は慶長7年(1602年)の失火で焼失。
  • 文禄2年(1593年)には大仏殿が上棟する。
    • ※大仏殿初代。天正度方広寺大仏殿。創建大仏殿。
  • 文禄4年(1595年)9月24日秀吉、亡祖父母の供養を大仏殿(妙法院)経堂にて執行。
  • 文禄5年(1596年)閏7月5日、翌8月18日に大仏開眼供養の予定と定める。
  • 文禄5年(1596年)閏7月12日に慶長伏見地震が発生し、大仏は大破した。大破した大仏は畳表で修復(覆い隠した?)されたとされる。

    本尊大破、左御手崩落了、御胸崩、其外所々響在之

    慶長改元は、文禄5年(1596年)10月27日。

  • 「太閤記」によれば、高さ十六丈であったとされる。
  • 慶長2年(1597年)5月23日、秀吉は大仏の作り替えを命じる。台座および光背は残っていたため、台座上に宝塔を建立する。

 善光寺如来

  • 同年7月7日、これに善光寺如来を迎えることを決定する。同年7月18日には善光寺如来が安置され、秀吉は大仏殿宝塔を見物している。

    善光寺如来大仏殿ヘ遷座之儀ニ付、来十八日大津迠御成候而、則大仏殿ヘ被成御送届様ニと被仰出候、御供衆之儀、式以下御用意有て、各御心得衆被成御同道、御成尤存候、此旨可被申入候、恐々謹言
                徳善院
                 玄以
      七月七日
     三寶院殿御雑掌

    来十八日善光而如来、大仏殿へ遷座也、去年大地震ニ付、大仏尺迦破裂、仍今度彼尺迦コホタレテ、如来ヲ被安置之、一興ゝゝ、大座ノ蓮花・後光ヲハ其マヽ置之テ、大座ノ上ニ寶塔ヲ建立也、俄■以夜續日、興山上人(※木食応其)奉行之、

  • 甲斐善光寺、駿河堺、遠江、浜松、吉田、岡崎、熱田清須、四日市ないし桑名、亀山、近江土山、石部、草津、大津、方広寺大仏殿と輸送された。
  • 大仏供養は度々延期されるが、8月22日に決定した直後の8月17日に善光寺へ送り返すことが決定されるも、翌18日に秀吉は没した。

    善光寺如来、大仏ヨリ本國ヘ今暁頓歸座

    せんかう寺の女らい、大かうよりもとのことくしなのへ、けふかへし参せられし候由也

  • 8月22日に方広寺大仏総供養が行われる。※寺名は「大方広仏華厳経」によるとされるが、当時は「方広寺」とは呼ばれてなかったとされる。あるいは東大寺の「方広会(ほごえ)」に因むともされる。

    〔慶長3年8月22日条〕
    大仏堂供養有之
    (言経卿記)

    堂宇成るや、大方廣佛華嚴經に依りて方廣寺と號し、照高院道澄法親王之が別當職たり。(略)豊臣氏滅亡とともに徳川氏大佛殿所領を挙げて妙法院に附し、照高院門主の管領を止め、妙法院の所屬とす。

  • 秀吉の没後、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に廟所が建立された。当初秀吉の死が伏せられていたため「大仏殿の鎮守社」「新八幡宮」「八幡大菩薩堂」などと称されていたという。
  • その後、秀吉が神として葬られることが徐々に知られる。

    大かう、御すきよにつきて、ゆいごんに、あみだのたけに、大志やにいはゝれたま□とのことにて、とくぜんゐん、てんそうしゆして、ひろう申
    (御湯殿上日記)

    現在「ほうこく神社」と呼ばれているが、本来は「とよくに神社」である。ここでいう創建時の豊国社(豊国神社)とは、現在の豊国廟のこと(三十三間堂の東にある京都女子大のさらに東側の山麓)。明治30年(1897年)の秀吉没後三百年忌を記念して五輪塔や拝殿が整備され、「豊国廟」と呼ばれることとなった。

 二代目大仏

  • 秀頼発願によるもの。
    • 崩れた初代大仏を取り除き、新たに金銅仏として鋳造。
    • 大仏殿は無事だったため創建大仏殿(天正度大仏殿)のまま。ただし大仏殿を巡る築地を廻廊に建て替え、また蓮華王院(三十三間堂)までも寺院地に包括し、太閤塀を構築した。※太閤塀は、1580年前後製作と視られている歴博乙本に描かれている。

      〔慶長4年5月12日条〕
      今度大仏ノ築地ヲ丗三間ノ西方ニ被築、大仏与一所ニ成
      (義演准后日記)

  • 慶長3年(1598年)9月頃にはすでに動きがある。9月15日には木食応其より依頼された義演が、大仏鎮守の儀式を要請され執り行っている。※これは後に「豊国社」となる東山新八幡社(仮)の造立である。11月には遷宮され、12月には家康を含む諸大名が参詣している。

    〔慶長3年9月2日条〕
    京奉行衆大仏本尊造立之儀ニ被遣云々
     
    〔慶長3年9月7日条〕
    大仏東山ニ八棟作ノ社頭建、如北野社云々、徳善院朔日罷越ナワハリ云々
    (義演准后日記)

  • 慶長4年(1599年)3月の御湯殿上日記

    ゆいこんに、あみたのたけに大しやにいわられたきとのことにて、とくせんゐん、てんそうしゆしてひろう申

  • 慶長4年(1599年)4月16日に朝廷より豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられた。遷宮の儀が行われ、社は「豊国社」(豊国神社)と命名された。
  • 4月16日大仏鎮守仮殿遷宮。4月17日宣命使正親町中納言季秀による宣命。

    午刻、於新社假伝前ニテ、宣命使正親町中納言、續□白声ニテ常ノモノ云ノモノ云ノ如也、

    天皇我詔旨良萬止故博陸大相国豐臣朝臣倍止勅命聞食宣振兵威於異域之外施恩澤於卒土之間行善敦而徳顕身既没而名存勢利崇其靈 氏城乃東南大宮柱廣敷立吉日良辰擇定豐國乃大明神上給治賜此状介久介久聞食靈検新天皇朝廷寶位無堂常磐竪磐夜守日守護幸給比氏天下昇平海内静謐護恤倍度美毛申賜者久止
    (壬生家官符留)

    吉田神主二位兼見、豊國大明神ト号シ承ル、日本の総名豊葦原中津国ト云ヘル故也、太閤秀吉公ハ和朝ノ主ト為ルニ依リ、豊国大明神ト号ス奉ツル
    (豊國大明神御𫞴禮記)

  • 4月18日正遷宮、4月19日豊国社に神位正一位授けられる。

    小叙位之記ヲ大内記持参、上卿西洞執筆、三木・中山・日野奉行傳奏、勸大・久大、神前へ被参次第可尋之、大外・少外記貝照□□内ヨリ正一位豐國社年号月日、執筆書ハ小折紙ニハ日月無之、

  • 慶長4年(1599年)5月25日、台座上の宝塔を撤去し、(慶長伏見地震により大破した)大仏の再建が開始される。
  • 同年10月18日大仏の鋳造が開始される。

    〔慶長4年10月19日条〕
    大仏朔日ヨリ銅ヲ鋳カクル
    (義演准后日記)

  • 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の戦い。
  • 慶長6年(1601年)木食応其は、大仏用の鉄で西軍の鉄砲や砲弾を制作していたと咎められ、追放されたという。

    伝え聞く、大仏遍照院以下、興山上人(※木食応其)奉行ことごとく去ると云々

  • 慶長7年(1602年)6月、家康は(木幡山)伏見城の再建工事に取り掛かる。慶長8年(1603年)2月12日の将軍宣下をこの再建なった伏見城で受けている。元和9年(1623年)の家光まではこの伏見城で宣下を受けている。
  • 慶長7年(1602年)8月~慶長8年(1603年)6月まで二条城大天守作事、慶長10年(1605年)~慶長11年(1606年)まで小天守作事を行っている。
  • 慶長7年(1602年)12月4日、本尊鋳懸の失火により大仏はおろか大仏殿まで焼失した。この時、初代の創建大仏殿も焼失している。
  • 諸記録

    〔12月7日〕
    平安城大仏殿炎上、本尊鋳カケニ付、本尊内火出、本堂付焼了
    (舜旧記)

    仏ノ左ノ膝ニ足シロノ穴アリ。其穴を鋳懸時。金湯餘ヲ入懐中。身内全身成火焼上リ。仏ノ背ニ二尺ノ風穴アリ。自其火出テヽ。光ニ付テ。御光ノ仏皆焼却シテ落堂裏
    (鹿苑日録)

 三代目大仏

  • 秀頼発願によるもの。全焼してしまったため大仏殿は二代目。
    • ※ただし家康は慶長7年(1602年)に将軍宣下を受けており、慶長10年(1605年)には秀忠も将軍宣下(二代将軍)を受けている。
  • 慶長13年(1608年)暮、秀頼が大仏の費用、用材の準備を開始。
  • 慶長15年(1610年)6月12日地鎮、釿始。8月22日に最初の柱が建てられ、翌慶長16年(1611年)4月27日には長さ六~十四丈という巨大な柱九十二本が立て終わった。11月十日上棟。翌慶長17年(1612年)正月には瓦も葺かれた。
  • 慶長17年(1612年)8月には名古屋城天守完成。12月には後水尾天皇のための内裏造営。




  • ※この時まで、方広寺(大仏殿)と豊国社は一体のものとして扱われていた。ここから神格剥奪及び豊国社の徹底破壊が始まる。ここでも「元和~明治までの豊国神社について」として折込で取りまとめ、本文では方広寺大仏(及び大仏殿)を取り扱うものとする。
  • 慶長19年(1614年)7月26日、家康により棟札および梵鐘の銘文に疑義が付けられ、開眼供養は延期される。※いわゆる「国家安康 君臣豊楽」の方広寺鐘銘事件。この後、家康は照高院門主の別当職を解き、代わりに妙法院門主をあてその付属寺院とした。
    この大仏開眼供養のほか、大仏供養の会も8月3日に行われようとしており、その出席者のリストを見た家康が激怒したとの指摘もあるヒストリア : journal of Osaka Historical Association (196);2005・9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。もっといえば豊臣秀頼の関白就任について諦めず、豊国社の国家鎮護の神格化に向けて動きを止めない朝廷に対して怒ったということである。事実方広寺大仏についてはほぼ手を入れておらず、怒りの矛先は豊国社に対してのみ向いておりその破却は念入りで執拗でもある。また「禁中並公家諸法度」も夏の陣終了後すぐに発布されている。
     大仏供養の参仕予定者には、仁和寺覚深法親王、妙法院常胤法親王、三宝院義演、照高院興意法親王、曼殊院良恕法親王などのほか、関白鷹司信尚、三条西公広、中御門資胤、日野資勝、広橋総光、今出川季持、万里小路孝房、山科言継、滋野井冬隆、烏丸光賢、竹屋光長などが出席予定だったとされ(本光国師日記)、一方で宮内庁書陵部文書によれば、寺号の検討とともに公家の家来含めて総勢700名以上の動員が予定されていたとする。さらに朝廷が方広寺大仏殿(この時点では明確な名称はないが)と豊国社を一体として捉えていることが明確となり、それが家康を激怒させ、一度は5月に許可していた(そもそも家康が8月1日に上洛予定であるため供養会を8月3日としていた)はずの鐘銘及び上棟日についていわゆる”難癖”をつけ始めることに繋がる。この激怒は崇伝からの7月29日書状で片桐且元が知るところとなる。
    • 慶長19年(1614年)11月大坂冬の陣。
      ※この時、大工頭であった中井大和守正清は、家康に「鉄の楯」の製作を命じられ大仏前で製造している(「大仏前に於て、鉄の楯六尺四方作るの由、風聞」)。鉄楯は、広さ四尺、高さ六尺、厚さ五~八寸の厚板に厚さ一寸の鉄板を大錨百八十でうちつけ、大かけがね七鎖と車輪をつけて引くものであったという。「家康、近江永原に至る、大坂の人来りて、城内の情状を白す、家康、竹中重利を安芸備後に遣し、福島正則の子忠勝を促し、兵を率いて、大坂に会せしめ、又備後の鍛冶を召し、鉄盾を作らしむ、」。鉄盾一〇〇〇帖は、分限に応じて各大名に配布された。
       家康に重用された正清は、江戸城本丸、名古屋城天守、伏見城、二条城、禁裏造営、茶臼山御陣小屋造営、久能山東照社(のちの東照宮。以下同じ)、日光東照社、紅葉山東照社などに関わっている。
    • 慶長20年(1615年)5月大坂夏の陣
  • ※以下、元和~明治までの豊国神社について※

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    • 慶長20年(1615年)に豊臣家が滅ぶと、後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、神社自体も廃絶された。豊国社は社頭一円の破却が命じられたが、方広寺一円は残された。
      照高院と妙法院
       天台宗南叡山の「妙法院」は、現在京都国立博物館の東側に位置する寺院(通常非公開)。この地には、それまで秀吉の庇護を受けた天台僧道澄が開いた照高院があったという。方広寺を建立した当時は方広寺境内に取り込まれており、秀吉亡祖父母の菩提を弔う第1回八宗千僧供養は、元禄4年(1691年)9月24日この照高院の経堂で行ったという。
       しかしこの照高院の住持で方広寺大仏殿住持を務めていた興意法親王(誠仁親王の第5王子)は、家康への呪詛が疑われて元和元年(1615年)に聖護院へ追われており、その後に妙法院の常胤法親王(伏見宮邦輔親王の第4王子)が方広寺大仏殿住持として照高院に入った。当時妙法院門主であった常胤法親王は、積極的に幕府に協力し豊国社に保管されていた秀吉の遺品や神宮寺(豊国社別当神龍院梵舜の役宅)を横領したという。豊公遺宝図略 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ国書データベース
       豊国社別当の梵舜は、次のように記す。「十日天晴。早朝に伝長老ヘ萩原ト同道、此ノ由仰セ渡シ候也、次イデ予板倉予州ヨリ使来リ、早々参ルベキノ由ノ間、急参、此ノ旨仰セ渡シ也、神官共コトゴトク惣知行召上ゲラレ候由ノ義也(略)次イデ政所様ヘモ此ノ旨申シ上ル也、夜ニ入リテ雨大降リ。」北政所の哀訴が功を成したのか、秀吉の墓を大仏殿廻廊裏手に移すという家康の命はいったん置かれ、ただし一切修繕をせず捨て置かれるという措置へと変わったという。秀吉の神号も廃され、「国泰院俊山雲龍大居士」という仏式の戒名が贈られることになった。こうして(阿弥陀ヶ峰山麓に築かれていた旧)豊国社(現、豊国廟)は徹底的に破却された。さらに家康の死後、金地院崇伝の謀略により、秀吉を弔うために残されていた神宮寺が妙法院へと譲渡させられ、長束正家の坊は智積院へと下げ渡された。こうして元和5年(1619年)に豊国社は消されてしまう。あまりにだだっ広いなにもない空間が生まれたため、地元では「太閤坦(たいこうだいら)」と呼んだという。

      妙法院による嫌がらせはこれだけで済まず、新日吉社を豊国社の旧参道を塞ぐ形で拡張し、完全に豊国社への参道を塞いでしまった。明治期に豊国神社(現在の豊国廟)を再興する際に問題となり、新日吉社の位置をずらすための交渉が行われた。豊国会に集められた寄付総額十八万六千九百七円のうち、移転費一万四千二百円に加えて保存費の名目で五千円が支払われることとなり、それにより新日吉社は現在地であるやや南方に移転し、境内地二千二百余坪を寄付することになった。今でも豊国廟参道は新日吉社の前だけ不自然に曲がっていることがわかる。

      豊国社の徹底的な破却を命じた徳川幕府であったが、朝鮮通信使を元和以降の毎回、方広寺で饗応した上で耳塚を通らせており、かつその姿を民衆に見せることでかつて日本が屈服させたという対朝鮮観を醸成したという指摘もある<論説>神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観。通信使の姿は豊国祭礼図屏風(徳川黎明会本)にも描かれている。※上記「豊国祭礼図屏風(徳川黎明会本)」左隻(2コマ目)第4扇上の大仏殿左に描かれる6名の使節風の人物。
    • ただし江戸幕府も豊国社を毀ったことについては後ろめたい心象があったようで、何度か検討され、将軍家光自らいい出したこともあったという。

      御当家御治世に至り、日を追って衰頽し、今は旧地の跡もなく、郊野(荒野)と成りて豊国の名をだに知る人も稀なり、ああ一瞬の間に、かくまで栄枯地を換えること、誰か嘆息せざらんや、或る雑録に曰く、大猷公の御代、老臣の面々に仰せけるは、豊国社当時廃たれる事、これ道理に不当なり、秀吉に於いて、敵と称する類ひにあらず、当家興立のことも、彼の恩義によりてなり、しかるに彼の霊社を棄んは奈何、すべからく修理を加へ、祭祀の礼をもつてすべしと宣ふ、
      時に酒井雅楽頭忠世いわく、上意の趣、謹ミテ承畢、但シ倩相(忠世)考え申す処、およそ神霊は人の敬い集まりて神威これより生ず、これを廃する時は威なし、威なき時は祟りをなさず、今たとえ上意の如くして、これを祭られるとも、正しく社稷の嗣秀頼公は御敵にして、亡命ありし上は、奚ぞ神霊、祭を受給わんや、憖に今御取繕あらば、これすなわり御武威の虚と成りて、邪気これに乗じて禍をなさん、唯そのままに差し置かるべしと有りければ、公もこれを信じ給ひ、その後御沙汰なかりしと云々、
      (翁草)

      要するにこの時は酒井忠世(厩橋2代、老中・大老)に諌められ、そのまま沙汰なしになった。

    • 4代家綱の時、萩原兼従とその門弟・吉川惟足により運動が続けられ、将軍家綱に言上した結果、それが一旦は容れられ、再興の沙汰が出た。

      (寛文5年(1665年)12月12日)萩原兼従左衛門員従。吉田侍従兼敬に所領御朱印。神社法令を授けられ。豊国大明神の社再造仰出さる。左衛門左員(※員従?)奉𧙈すべしと命ぜられ。そのうへ銀百枚。時服五づゝ下され帰洛の暇給ふ。
      (徳川実紀)

    • しかしこの再興の話は、諸手続きに入ったところで妙法院の横槍で潰されてしまう。

      保科肥後守正之朝臣、此の廟社(豊国社)の衰壊を嘆きて、これを祭らざる時は、万々世の後、他姓(徳川家以外)の国政を執る時、当神廟(東照宮)も豊国の例に倣うべし。ただちに修理を加へ、例祭の式あるべしと頻りに諌められるによりて、禁裏へも御沙汰ありて、吉田家江府へ参向、台命を奉りて帰京せられ、ときの所司代板倉内膳正(重矩。勝重の孫)、彼の霊社見分ありしに、妙法院御門跡御方より、板倉伊賀守(勝重)の証書を差し出され、此霊社を廃する所以を申されけれども、右証文内膳正の意に応ぜず。其の上、事決着の上にて差し出されし段、取りおくれたる事なるとて、坊官を叱りありて取り用ひられず、もっぱら再興の催しありしが、堂上にても三条西家など、時の議奏伝奏の職にやありけむ、右再興のことは不可なりと難かしがられ、その後如何なるわけにや、中途にて御再興の御沙汰止みしと云々、
      (翁草)

      豊国再興の沙汰、豊国の義、中頃御老中方仰せられし上、再興然るべしと之あり、昔よりちひさく仕候へと仰せ出され、吉田萩原両家江戸へ下向の事相済み状況なされ候、これにより板倉内膳どの、中井主水を召し連れられ、豊国へ参られ、方切差し図など相済み申し候処、妙伝寺(※妙法寺)の坊官ふらりと書付出す、これを見れば、板倉伊賀守下知状なり、即ち権現様の時、豊国大明神をもり候へ仏にし、大仏の南に墓を築き、石塔を立て、これを印にして祭るべき由仰出られし所なり、此の時内膳殿殊の外坊官を御しかり成され、何とて此書とく出さぬぞ、証拠出しおくれなり、用いるべからずなど仰られ候へども、とかくさはりありて事ゆかぬになり申し候、
      (新蘆面命)

    • 慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇が大阪に行幸したとき、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。

      御沙汰書
      有功ヲ顕シ、有罪ヲ罰ス、経国之大綱、況ヤ国家ニ大勲労有之候者、表シテ顕スコト無之節ハ、何ヲ以テ天下ヲ勧励可被遊哉、豊臣太閤、側微ニ起リ、一臂ヲ攘テ、天下之難ヲ定メ、上古列聖之御偉業ヲ継術シ奉リ、皇威ヲ海外ニ宣ベ、数百年之後、猶彼ヲシテ寒心セシム、其国家ニ大勲労アル、今古ニ超越スル者ト可申、抑武臣国家ニ功アル、皆廟食、其労ニ酬ユ、当時朝廷既ニ神号ヲ追諡セラレ候処、不幸ニシテ天其家ニ祚セズ、一朝傾覆シ、源家康継デ出、子孫相受ケ、其宗祠之広壮、前古無比、豊太閤之大勲ヲ以テ、却テ晦没ニ委シ、其鬼殆ド餒ントスルニ及候段、深歎思召候折柄、今般朝憲復古、万機一新之際、如此之廃典挙ザル可ラズ、加之宇内各国、相雄飛スル之時ニ当リ、豊太閤其人之如キ、叡智雄略之人ヲ被為得度被思召、依之新ニ祠宇ヲ造為シ、其大勲偉烈ヲ表顕シ、万世不朽ニ被為垂度被仰出候、列侯及士庶、豊太閤之恩義ヲ蒙リ候モノ不少、宜シク共ニ合力シ、旧徳ニ可報旨御沙汰候事

      ただしこの沙汰書には別紙が付いており、そこには「大阪城外近傍」にて相応の地に再興するよう書かれていたが、それが誤りとわかり、翌月には豊国廟を再興せよと修正されている(秀頼期の大坂城内にも豊国廟が分祀されていた)。この年の8月18日には早くも神祇官より大賞典が阿弥陀ヶ峰に参拝し、妙法院鎮守社である新日吉神社の御饌殿を仮の社殿として行っており、しばらくこの間借りが続いた。同年10月、家康により妙法院へと下げ渡されていた京都東山の豊国廟一帯の土地が政府に取り上げられている。

    • 明治6年(1873年)8月14日、(復興)豊国神社は別格官幣社に列格した。
      この年の7月に教部省の史学官の調査により、かつての豊国社が阿弥陀ヶ峰に創建されていたことがようやく判明し、京都府に対して阿弥陀ヶ峰墓前を別格官幣社に列し、官祭を行うべく通達が出されている。

      しかし問題は当初の御沙汰書に「大阪城外近傍」と書かれていたことから、この決定に大阪府が反対を表明し、京都の宮司となっていた岩崎長世までが沙汰書通りの大阪に造営されたしとしたため、いったん大阪へと移ってしまう。候補地として選ばれたのが中之島の熊本藩邸内の空き地であった。ここで動き出したのが京都市民で、京都市の総区長であった長尾小兵衛が総代となって大阪府下への遷座取り消しと阿弥陀ヶ峰への廟祠再興を、京都府を通じて教部省へと願い出た。その後も紛糾し続けたが、明治8年(1875年)4月7日になってようやく別格官幣社である豊国神社の大阪への遷座を取りやめ、京都府東山に本社殿を造営し、大阪府にも摂社を創建するべしとの結論が出た。
       この大阪の摂社についてはその後何度か遷座を繰り返しており(当時大阪城が陸軍管轄であったことなども影響)、戦後の昭和36年(1961年)1月に大阪城内の現在地に落ち着いた。
       なお京都や名古屋の豊国神社は「とよくに」と訓読みするが、大阪の豊国神社は「ほうこく」と音読みする。名古屋にも豊国通や豊国中学校など「豊国」の地名がいくつか残っているが、そちらは「とよくに」と発音する。
    • 明治8年(1875年)に東山の地に社殿が建立された。
    • 明治13年(1880年)5月には方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、9月15日に正遷宮祭が行われた。神霊迎えの行列が豊国神社を出発し、行列を新日吉社に残して神官たちが阿弥陀ヶ峰に登り、墓前に神饌を供えた後、明かりを消して御魂移しの神事が行われた。神官たちが下山してきた時、「山中諸人群集シテ路傍ニ平服シ萬歳ヲ唱フ」と異常な賑わいであったと記す。「妙法前側ヨリ小門ヲ出テ馬町ヲ西ヘ、大和大路ヲ北ヘ、五条ヲ西ヘ、伏見街道ヲ南ヘ、正面ヨリ一ノ鳥居ヲ入、御拝殿ニテ御羽輦ヲ止メ、御神霊ヲ御唐櫃ニ移シ、主典之ヲ舁キ、禰宜榊ノ枝ヲ覆ヒ、宮司御先導ニテ神殿ヘ着御、于時宮司禰宜付添昇殿、開扉、此時松明提灯ヲ悉ク消シ、御正体ハ御唐櫃ノ侭安置シ奉ル」。「提灯・松明道路ヲ照シ、拝見人群集、家々祝灯ヲ掲ゲ、最盛大ノ躰也」。
      砂持ちの行事は明治9年(1876年)の10月1日~10日の10日間。大勢の市民が阿弥陀ヶ峰の廟墓まで練り歩いたという。この時の様子は「砂持図屏風」として残る。東雄渓画、明治10年(1877年)下京筍町より寄贈。
    • 昭和23年(1948年)に神社本庁の別表神社に加列された。もともと創建された地である阿弥陀ヶ峰山麓は現在「豊国廟」と呼ばれている。
  • ※以上、元和~明治までの豊国神社について※
  • 寛文元年(1661年)8月27日、方広寺諸堂舎、諸仏像の修復が開始。
  • 寛文2年(1662年)5月24日、寛文近江・若狭地震により大仏大破。

    従武家大仏殿修理之間、毀鋳像改為木像

    寛文の年にあたりて仏の肩やぶれ裂たりければ、是を修補すべき事はかなふまじき旨鋳師仏工みな申すによつて古仏は取のけ木像に作らせらる

 四代目大仏

  • 寛文4年(1664年)再興。正月より開始され、3月29日には御衣木加持。
  • 寛文7年(1667年)11月20日に大仏殿の修復完了し、12月2日に大仏開眼供養。
    • ドイツ人博物学者エンゲルベルト・ケンペルが目撃しスケッチしたのはこの大仏である。※元禄3年(1690年)~元禄5年(1692年)まで来日。
  • ※この頃、公慶による奈良の大仏再建事業。貞享元年(1684年)勧進許可。元禄4年(1691年)大仏完成、翌元禄5年(1692年)開眼供養。宝永6年(1709年)に大仏殿落慶。
  • つまり宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)のおよそ90年間は、京の方広寺と奈良の東大寺に大仏と大仏殿が双立していた。本居宣長は「在京日記」に双方の印象を書き記している。※宝暦3年(1753年)、宝暦7年(1757年)

    (宝暦3年3月)廿日、秋岡貞藏、高村好節と東福寺へまふづ。昼過るほど出て、五條の橋をわたり、大佛にまいる。此佛のおほきなるとは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおどろくばかり也。ましてゐなかよりのぼりて、はじめておがむは、おどろき侍るもとはり也。南の方の門を出て、鐘樓のほとり、芝生の床几にしばしやすみ、丗三間堂のまへを過て、池にのぞみて見れば、社若はまだ咲侍らず。つぼめる所もなし。

    (宝暦7年10月)三日、けふなん都をたちて、初瀬へまうで開帳し奉りてかへる也。(略)
    さる茶屋にかごおろしぬ。このむかひに大きなる寺の門あり。これや興福寺東大寺などいふ寺にやと、見やられてめとまる。(略)いと大きなる寺にて、そこはかとかぎりもなし。僧坊多く見えたり。右の方にやゝ近く大佛殿見えたり。こゝは大佛殿のうしろの方也。東よりまはりて、大佛殿にまふづ。京のよりはやゝ殿もせばく、佛もすこしちいさく見え給ふ。されど、脇士などもおはしまし、近來再興ありし堂なれば、すべていづこも/\、京のよりはきれいに見えたり。堂も京のよりはちいさければ、高く見えてかつこうよし。堂のさま廻廊なども、京のと同じさまにたてられたり。さて所のさまは、京の大佛よりもはるかに景地よき所也。日もやゝかたぶく程なれば、心しづかにもえ見侍らず。只大方に見めぐりぬ。さて二月堂のわたりもよき景地也。

  • 寛政10年(1798年)7月1日に落雷炎上。大田南畝が詳細に記している。

    同年七月朔日、京都大仏雷火にて焼失

    大仏殿出火
     午七月二日夜九時出火
    洛東妙法院の境内方広寺称大仏殿
      釈尊御丈ケ六丈三尺
        堂東西三拾七間 南北四拾五間高拾五丈余
     
    寛文二年本尊の銅像を改木造と成、右再建以来寛政十年午迄壱百八拾九年に成る。然に七月朔日夜四ツ時此より大雨、大雷にて大仏殿本堂北東の隅へ雷落候処、其後少し小雨に成、九ツ時より堂守并番人北東の隅の上丸ぼん程の火一ツ軒に有之、雷の落候穴是又丸盆程に屋根打ぬき見え有之候由。右の段早々大仏の宮え訴寄せ太鼓をうち候得ば、大仏近辺のもの駈付候事にて、何れも寄集候得共水の手少く、其上至て高く候ゆえ、竜吐水持運仕懸け候得共中々行届兼、東本願寺御堂えの手当にて拵置候竜吐水に候得ば中々水勢上に届兼、床机等五六脚かさね其上にて仕かけ、漸右火打消し候処、又々右続に右の通軒に火アリし、是又打消、其外見廻り火附無之に付引太鼓打候間、皆々人数一端引取候由。然処右の軒よりつたはり候哉、上棟に火廻り有之候哉、棟木燃出、夫より又々騒立寄せ太鼓打候。又々以前の人数竜吐水仕かけ候処、棟ゆへ一向届かね、中には若もの四五人外より屋根へは登りかね、内より登り候て瓦打めくり候由。如右いたし候内裏板え火廻り、飛下り身くだけ、以前出候所え火廻り右のもの共怪我人も有之候由。無是非先づ体内仏三つ具足斗出し候由。二王も早速綱かけ見物同様に引候得共綱切れ、其内火懸り候良し。(略)同所明六ツ時前より大仏殿堂内より燃出し、屋根廻り一面に火に成、右の雷火堂の内へ/\と燃入、内殿悉焼失。夫より外廻りえ燃出、本堂の内は前文の通り水鉄砲、竜吐水、水道具様の火防用候得共、大伽藍の儀中々行届兼、棟迄一面に火と成、夫より廻廊、南門、楼門、金剛力士迄悉焼失、翌二日午の刻火鎮り候ヨリ。但風は無之ゆへ釣鐘堂、三十三間堂、養源院、其外町家共別状無之、誠に大仏殿のみにて古今無双の大伽藍を一時に焼失、可惜。
    (街談録 大田南畝

    ただし当時南畝は江戸にいたため伝聞である。

 ミニチュア再建

  • 享和元年(1801年)4月、十分の一像が再建され、仮堂に安置された。
    • 現在の方広寺本尊の盧舎那仏坐像とされる。開眼供養は文化元年(1804年)だともされる。

 五代目大仏

  • 天保13年(1842年)、尾張の商人たち有志により大仏の上半身像が作られ、仮堂に安置される。ただし上半身などと書かれてはいるが、なぜか寸法には足のサイズまで書かれている。※尾張を中心に伊勢、美濃、越前の人々ともいう。

    後チ四十五年、天保十四年十二代將軍家慶ノ治世、尾張ノ人某等主唱シ申子テ木像ノ大佛建立ニ著手ス。此大佛亦坐像ニシテ九丈六尺ノ計畫ナレハ、佛像ハ秀頼ノ者ヨリモ長大ナルコト三丈ナリシガ、佛像ノ首部ノミ成リ工事中絕シテ全身完成スルニ及ハス、以テ今日ニ至レリト云フ
     
    續泰平年表
    天保十四年癸卯二月、是月より京都大佛御再建有之
    座像九丈六尺
     面部二丈八尺 鼻長六尺五寸横五尺 口横一丈竪三尺餘
     耳長一丈ニ寸 手平指先迄一丈八尺 足平二丈八尺
     螺髪數五百二十 後光高二十四間
    大佛妙法院村田泰良師明治廿七年九月書牘
    天保年度大佛再建之施主御尋之事拝承右ハ尾張ノ人トアルノミニテ施主御相譯リ不申、有志習合寄附候モノト被存候
    同 同年十一月書牘
    天保十四年再建之分ハ御首ノミニテ全身落成ニテハ無之
    半身以上之分ハ于今存在仕居候
    此頃大佛尊ト稱スルハ半身耳ニ有之候

 参考

  • 大林組 誌上構想「大林組プロジェクト」:方広寺大仏殿の復元 ※但し復元を試みるのは秀吉の初代大仏殿(創建大仏殿)である




 雲居寺大仏

  • かつて京都の京都市東山区八坂に雲居寺(うんごじ)という寺があり、そこに身の丈八丈で塗金された阿弥陀如来像(大仏)を安置していたという。
    • ※八丈は仏像が立った場合の丈であり、坐像であればその半分四丈とする。
    • もとは八坂東院という寺院であり、それが雲居寺の前身寺院であったという。
    • 「日本紀略」康保元年(964年)11月21日には大法師浄蔵が東山雲居寺で卒したと記す。また貞元2年(977年)11月14日には太政大臣藤原兼通を東山雲居寺に葬ったとする。さらに長保4年(1002年)6月には冷泉院皇子の弾正宮敦道親王を葬送したとする。
    • 「雲孤寺」「雲古寺」とも。
  • 雲居寺の大仏は、平安時代末の瞻西上人が造立した。
    瞻西(せんせい、せんさい)は平安後期の僧侶。「瞻」は、仰ぎ見るなどの意。良忍上人に師事した。勅撰集に十首入集している歌人でもある。天治元年(1124年)東山の雲居寺内に勝応弥陀院を建て、金色阿弥陀仏像を安置し、極楽往生を説いた。大治2年(1127年)死去。比叡山で修行していた頃の稚児との男色について「秋夜長物語」に描かれている。同作は稚児物語の代表作とされる。26.秋夜長物語 - 歴史と物語:国立公文書館秋夜長物語 / 1
  • 天治元年 (1124年)7月19日に阿弥陀如来の大仏が落慶し、堂には藤原忠通の揮毫による扁額が掲げられたという。また「應仁記」では「雲居寺奈良半佛大伽藍」とする。
  • 『中右記』によれば、藤原宗忠(道長次男の頼宗に始まる中御門流。頼宗曾孫)が同年7月23日に雲居寺に参詣し、大仏を拝したという。また落慶した堂(大仏殿)は「勝応弥陀院(證應彌陀院)」と称したが、建仁2年(1202年)には、「勝応弥陀院」で浄土宗の開祖法然が百日参籠したという。
  • 瞻西上人は大治2年(1127年)6月23日雲居寺で入滅。
  • 当時、京洛に「南都之半佛雲居雲居之半佛東福」ということわざがあったという。万里集九は「梅花無盡藏」に鎌倉長谷の銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏、国宝)を見たときの印象を次のように記す。

    梅花無盡藏云銅大佛洛之諺云南都之半佛雲居雲居之半佛東福

  • 永享8年(1436年)11月29日東山方面に大火が起こり、八坂塔などとともに、雲居寺の大仏や極楽堂も焼亡したという。「東寺私用集」によれば、焼けた大仏は四丈であったという。

    阿彌陀佛、座佛、居長四丈

  • のち永享12年(1440年)に将軍足利義教の肝煎りで、僧・周文によって座高四丈の大仏が再興されるも、応仁の乱で焼失した。

    永享十一年六月六日
    雲居寺阿彌陀佛事始、於相國寺有之、公方様ヨリ御沙汰也、此日於雲居古寺者、大佛師事初但東方與高辻大宮佛師依諍左右、先延引九日可有之左高辻、右東方

    南都者共作、アシキニヨリテ、又禅僧周文、今ノヲ作之雲居寺有之南都其後大方殿修理アリテ百ド大路奉居之、北京ノハ御首斗也

    雲居寺阿彌陀佛座像、南都北京佛師、雖令作、皆惡キニヨリテ、禅宗ノ周文僧作之

    なおこの再興に関しては、始め永享11年(1439年)6月に高辻大宮仏師と東寺(東方?)仏師が命じられたものの、8月に至って奈良の仏師がその見積もりは高すぎるとして免職され、9月から再び作られて翌永享12年(1440年)4月に完成するものの不合格とされ、3回目に作り直したのが周文と奈良の新仏師であるという。なお2回目の大仏については、祇園社南の百度大路(現在の下河原通り)に安置したという。
  • 雲居寺は、慶長10年(1605年)に至って高台寺建立のために寺町今出川の十念寺(山号華宮山)に合併された。


 東福寺大仏

  • 東福寺は京都市東山区の東南端にある。
  • 嘉禎2年(1236年)摂政・九条道家が、九条家の菩提寺として、この地に身の丈五丈(約15メートル)の釈迦如来像を安置する大寺院を建立することを発願し、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。
  • 建長元年(1249年)に完成した身の丈五丈の釈迦如来像を安置する仏殿の建設工事は、延応元年(1239年)から始め、完成したのは建長7年(1255年)6月であった。九条道家は建長4年(1252年)薨去し、造営は子の実経に引き継がれた。

    建長七年乙卯六月二日、藤丞相實經慶東福寺、本朝昔旣有舍那、彌陀、彌勒三大像、而今復安釋迦大像。是故俗指東福寺謂新大佛。
    (東福紀年錄)

    佛殿は三間四面、裳層、瓦葺にして高さ十二間五尺あり。本尊釋迦如來坐像高さ五丈、脇侍觀音、彌勒像各高さ二丈五尺、四天王像各高さ一丈二尺(五寸)、及び北廟に等身十八天像等を安置す。本尊は座上より髪際に至り高さ二丈五尺、後光竪四丈八尺、横三丈六尺、大座横三丈六尺、後光化佛五百體あり。東大寺大佛に模して造立せしものにして、新大佛と稱せらる。

  • 当時は「新大仏寺」とも呼ばれて栄えた。享徳3年(1454年)には三重塔が建立された。室町時代には足利義持によって修理が行われている。
  • 明治14年(1881年)12月16日午後8時半に失火のため出火。それが大火となり、仏殿、身の丈五丈の本尊・釈迦如来像、法堂、方丈、庫裏などの主要な建物が焼失してしまった。

    十二月方丈より失火し 東庫裡、西茶堂、法堂、佛殿等焼亡し、仍て選佛場を假佛殿とし、萬壽寺の本尊を移安す。

  • なお東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル、左手)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるとされる。あるいは、明治以前は焼けていない(つまり創建時の本尊の遺物)ともされる。

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