新身来国光
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新身来国光(あらみらいくにみつ)
短刀
銘 来国光
名物 新身来国光
一尺七寸(長32.2cm 内反 元幅3.2cm 茎長12.4cm)
重要文化財
個人所蔵
- 平造、三つ棟、内反、身幅広く、寸延びの造込み。帽子僅かに乱込み、先小丸やや長く返る。
- 彫物表裏刀樋に添樋を掻流す。
- なかご生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔2個。
- なかご、目釘孔下中央に「来国光」の三字銘がある。
由来
- 享保名物帳に「恰好丈夫故に名付」と書かれる。
- 身幅が広く重ねも厚いために名づけたという。
来歴
- 会津藩主保科正之が三千貫で買い求めた。
慶長16年(1611年)2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる。母は諸説あり。生母は武田信玄の次女である見性院に預けられ、養育された。元和3年(1617年)見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される。寛永8年(1631年)、正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり、正四位下左近衛中将兼肥後守に叙任。3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がり、寛永13年(1636年)には出羽山形藩20万石、寛永20年(1643年)には陸奥会津藩23万石へと引き立てている(正之は養育してくれた保科家への恩義を忘れることなく終生保科姓で通した。松平姓と葵の紋が使用され親藩に列したのは3代正容の時)。のち幕末まで会津藩は存続した。寛文9年(1669年)に隠居、寛文12年(1672年)三田の藩邸で死去。
- 将軍家に入ってから200枚の代付け。
- その後昭和まで徳川宗家に伝来した。
- 昭和34年(1959年)6月27日に重要文化財指定。
- 昭和55年(1980年)の「国宝・重要文化財総合目録」では、渡辺国雄氏蔵(石原健次旧蔵)。※名義は渡辺喜雄氏
渡辺喜雄氏は株式会社カインドウェアの代表取締役会長で、国際刀装具会副会長、日本刀文化振興協会専務理事。※肩書は2022年3月確認
- 現在は個人所蔵。
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