小倶利伽羅景光
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小倶利伽羅景光(こくりからかげみつ)
刀
備前兼光作
由来
- 刀身に小さな倶利伽羅竜が彫られているため。
来歴
- 甲斐武田氏の重代の刀。
- 天文17年(1548年)2月、信玄は上田原の戦いで村上義清に大敗を喫し、板垣信方や甘利虎泰ら多くの有力武将を失う。
- この機に乗じて、信濃守護小笠原長時が4月中旬に村上義清や安曇郡の仁科盛能と連合して諏訪に攻め入り、諏訪下社を占領する。
- これに対して信玄は調略を行い、小笠原勢は塩尻峠まで後退、信玄は7月19日に敵陣を急襲、不意を疲れた小笠原勢は総崩れとなる(塩尻峠の戦い)
- 2年後の天文19年(1550年)7月、信玄は小笠原領に侵攻し中信は武田の支配下に落ちるが、その後村上氏の砥石城を攻めたところで「砥石崩れ」と伝えられる信玄の生涯で最大ともいわれる大敗を喫した。
村上軍2500人に対し、武田軍7000人。村上軍の犠牲が皆無に等しいのに対し、武田軍は武田二十四将に数えられる横田高松をはじめおよそ1200人もの将兵を失った。
- のち、天文20年(1551年)4月に信濃先方衆真田幸隆(真田幸村の祖父)の策略で砥石城が落城すると、次第に武田は優勢となり、天文22年(1553年)4月には村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎の元へ走る。
- これで信玄は北信を除き信濃をほぼ平定するが、同時に越後の上杉家と直接対峙することとなり、以後数度の川中島の戦いが繰り広げられる。
関連項目
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