対馬正宗


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 対馬正宗(つしままさむね)


1尺5分

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    対馬正宗 長一尺五分 代金五百枚 御物
    表裏刀樋鎺の上にて留め、宗対馬守殿家老柳川豊前所持本多上野介木屋取次にて五百貫にて御求め。

  • 平造り、表裏に刀樋。鋩子小丸で程よく返る。
  • 代付けは金五百枚。

 由来

  • 宗義調の次男・宗義智(宗氏20代当主。対馬府中藩初代藩主)家老、柳川豊前(柳川調信、対馬守)所持にちなむ。

 来歴

  • 柳川調信は初め商人といい、宗氏17代当主・宗義調に仕えた。交渉能力を買われて重臣となり、九州征伐や文禄・慶長の役での朝鮮との折衝にあたった。以降、柳川氏は対朝鮮外交の実務を担い、江戸幕府からも重視された。
    柳川調信は対馬守、従五位下・下野守。兄とともに対馬に渡り、宗義調に見いだされ外交官として重用された。対馬藩家老でありながら常に京都に在住し、直参のような待遇を受けた。「太閤之入御意、其比、景勝内直江山城、對馬内柳川、堀久太郎内堀監物、此三人またものなから、太閤に出仕申候(江城年録)」。対朝鮮外交でも活躍し、朝鮮国王宣祖に引見して、従三品・嘉善大夫の朝鮮爵位も授与されている。慶長10年(1605年)9月29日死去。

    孫の柳川調興は、江戸で育ち、家康や秀忠の小姓に任ぜられるが、後に「柳川一件」に関与し、調興は敗訴し流罪を命じられ弘前藩預かりとなった。
  • 本刀「対馬正宗」は、のち本多上野介(本多正純)が木屋を通じて五百貫にて買い求めたという。
  • この頃に本阿弥光温が押形を採っている。刃長一尺六分。目釘孔3個。
  • 元和8年(1622年)8月に本多正純が失脚すると、所領は闕所となり諸道具と共に将軍家に上る。
  • 寛永15年(1638年)卯月に埋忠家で光温から預かり、押形を採っているが、この時は刃長一尺一寸で目釘孔1個となっている。
  • 享保名物帳では一尺五分。
  • のち明暦の大火で焼けている。

    今度御城内ニテ焼失ノ御腰物并御脇差之覺
    一、對馬正宗


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