富田切
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富田切(とみたぎり)
脇差
刃長一尺三寸三分
- 備前大宮盛継の作
備前大宮派は、山城国猪熊大宮から移住した国盛に始まるとする。
- 差表に二筋樋、裏に樋のなかの剣、梵字の浮き彫りが入る。
由来
- 不明だが富田という者を斬ったためとされる。
来歴
- 元は赤松氏の所蔵
- 赤松則村(赤松円心)は、元弘3年(1333年)後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受け反幕府勢力として挙兵する。
- 則村が播磨苔縄城を出て播磨赤穂郡梨原に陣を張った時、この脇差を佐用神社(佐用都比売神社か)に預けている。のち神社ではこの脇差を「小庫利迦羅」という戦勝記念祭に用いている。
- その後は同社の所蔵となっていたが、則村の子、赤松則祐はこれを申し受け、嫡男赤松義則の出陣祝いとしてこれを与えている。
赤松則祐は建徳2年/応安4年(1371年)に病死しているのでそれ以前となる。
- のち安永8年(1779年)に本阿弥に鑑定に出されており、本阿弥貞明・忠英・清俊(本阿弥光敬)の3名連署で七千五百貫の添え状を出している。
この時の所持者が不明だが、恐らく赤松氏の庶流七条氏の後裔で石野氏を称した赤松氏置の家系(「石野正宗」の項参照)、または同じ赤松庶流の有馬氏に相続されていたのではないかと思われる。
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