太閤兼光
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太閤兼光(たいこうかねみつ)
刀
兼光作
来歴
- 小田原征伐の際、秀吉は奥州諸大名にも参陣を命じていた。
- この時、出羽角館の城主であった戸沢盛安は、商人に変装し侍6人と足軽3人を連れ小田原に参陣し、3月10日に秀吉と謁見を果たした。
- この時、途中の羽前酒田では金が不足し、豪商加賀屋与助に七両を借りている。
- その後も道を急ぎ遠州金谷まで来ると、秀吉はすでに大井川をわたって島田にいた。急いで引き返すも大井川が大雨で増水し、渡るに渡れない。家臣がためらう所を盛安は「関白殿下に忠義を立て遠国から駆けつけて、一夜たりとも遅参してはならぬと思った次第。増水などに負けぬ。」といい、提灯を掲げながら根性で渡りきり、濡れた格好のまま「羽州角館の住人戸沢治部大輔参陣仕る」と申し出て秀吉に謁見したという。
- 秀吉はその行動を大いに褒め、その場にあった兼光を与えたという。
戸沢氏
- しかし盛安は小田原城落城の前に病死する。嫡男政盛は4歳だったため、弟の光盛に家督を譲ることを秀吉に託したという。
- 結果的に戸沢氏は北浦郡4万4千石の所領を安堵された。
- 跡を継いだ戸沢光盛は、文禄の役が始まるとそれに参加して肥前名護屋城に向かうが、その途上で発病し3月15日に播磨国姫路において死去した
- 家督は兄の子政盛が継いだ。
- 大阪冬の陣では小田原城、大坂夏の陣では江戸城に詰め、元和8年(1622年)、出羽山形藩最上家が改易されると、最上家の旧領である最上郡と村山郡に2万石を加増されて新庄に移封され新庄藩6万石の藩主となり、そのまま幕末まで続いた。
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