大津越


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 大津越(おおつごえ)


鬼次郎太夫作

  • 作者の鬼次郎太夫(昆次郎太夫)についてはよくわかっていない。

 由来

  • 大津越とは、人の臂上部を斬る際に背骨もろとも切断したためという。その困難さを大津越に喩えている。

    大津越とは、人を引居ゑて切るに、左右の臂の上を、中骨懸けず切るをいふ也。

 概要

  • 白河上皇に院近臣として仕えた藤原師綱は、保延元年(1135年)に陸奥守となり現地へ赴任する。
    藤原師綱(ふじわら の もろつな)
    藤原師綱は、平安時代末期の貴族・歌人。藤原北家小一条流、刑部少輔・藤原尹時の長男。白河上皇に院近臣として仕え、また歌人としても知られた。宮内卿、大膳大夫、鎮守府将軍を歴任し、名声を高めた。承安2年(1172年)没。
    藤原北家小一条流は、師尹流とも呼ばれ、摂政関白太政大臣・藤原忠平の五男藤原師尹に始まる。のち庶流から飛騨国国司の姉小路家が出て繁栄し、戦国時代まで続いた。
  • 当時陸奥は、奥州藤原氏2代当主である藤原基衡が押領支配していたため、康治元年(1142年)、藤原師綱は宣旨を受けて信夫郡(福島県信夫郡)の公田検注(土地調査)を実施しようとする。
  • 藤原基衡はこれに対して、信夫佐藤氏の一族であり家人でもある地頭大庄司・季春(佐藤季治)に命じてこれを妨害したため、合戦になった。

    宗形宮内卿入道師綱、陸奥守にて下向の時、基衡横領一國、如無國威、仍奏事由下宣旨、擬検注國中公田之處、忍郡(信夫郡)者基衡藏めて、先々不入國使、而今度任宣旨検注之間、基衡件郡地頭大庄司季春に合心て禦之。
    (古事談 以下同じ)

    大庄司季春(季治)は、奥州藤原氏に仕えていた佐藤氏の一族で、信夫郡司となって信夫庄司と呼ばれた(信夫佐藤氏)。この季治の父、あるいは季治が「尊卑分脈」に登場する佐藤師治同人とされる。この佐藤師治の子が佐藤基治で、福島県飯坂温泉の舘の山にあった大鳥城を築いたのは、基治(一説に庄司季治)だという。この信夫佐藤氏から源義経に従った佐藤継信・忠信の兄弟が出たという。

  • 藤原師綱が宣旨に背く者として基衡を糾弾すると、季治は師綱の元に出頭し審議の結果処刑されることとなる。

    季春已召取、早賜御使於其前可刎頚云々。依之國司遣検非違使。所目代云、季春已に將出たり。

  • この季春を処刑する場面で登場するのが本刀「大津越」である。
  • 季春が、「切り損じなさるな、刀はいずれのものぞ」と問うと、斬り手である気仙弥太郎が鬼(昆)次郎太夫作の”大津越”であると答えたため、季春は「それなら安心だ」といって斬られたという。

    四十餘計男、肥満美麗なるが、積遠雁水干小袴に、紅衣を着けたり。打物取りたる者二十人計圍繞之。切手はけせんの彌太郎といふ者なり。出立擬切頸之間、犬庄司云、切損じ給ふな。刀はいづれぞと問ひければ、切手云、昆次郎太夫が大津越といひければ、さては心安しといひて被切けり。

    「十訓抄」にもこの話が取り上げられているが、斬首のシーンや刀などは登場しない。

  • つまり、この時点ですでに高名だったことになるが、他には登場せず作者もろとも詳細はわからない。

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