坂上宝剣
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坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ / さかのうえのほうけん)
皇室伝来の御剣
金象嵌 上上上 不得他家是以為誓勤思/坂家宝剣守君是以為名
- 銘文から「坂家宝剣」とも。
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来歴
- 刀身には、鎬地に「上上上 不得他家是以為誓勤思」、裏に「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌がはいっていた。
皇室伝来
- 弘仁14年(823年)4月16日に第52代嵯峨天皇が崩御すると、坂上宝剣は異母弟である第53代の淳和天皇に譲られた。
- それから7代後の第60代醍醐天皇が北野に行幸の際、乗輿の守刀として携行された。ところが到着してみると鞘の石突きがなくなっていた。
- 天皇が由緒のある剣であったのにと嘆きながら高殿の上から下をご覧になると、犬が石突きを咥えているのが見え、無事元通りになったという。
延喜野行幸之時。被入要月輿之御劔ノ石付落失云々。希有㕝也。古物ヲトテ大ニ令驚給テ。タカキ岡上ニテ御覽ジケレバ。御犬ノ件ノ石付ヲクハヘタマ井リタリケレバ。殊ニ興ジテ令悦給ケリ。
(古事談 坂上寶劍事)
- 醍醐天皇の同母弟にあたる敦実親王もこれを佩用し、雷鳴が轟くとひとりでに鞘走るという霊威を示したため親王は片時も手放さなかったという。
件劔。敦實親王傳給テ。身モハナタズ令持給タリケリ。雷嗚之時ハ自脱云々。
藤原北家
- 第73代の堀河天皇の頃には、この坂上宝剣には雷鳴の時ひとりでに鞘奔るという伝説が伝わっており、時の関白藤原師実(~1101年)は、恐れをなし「抜いてはならぬ」と厳命したという。この伝承が確かならばいつの頃からか藤原北家に伝承したことになる。
- 関白藤原忠実(師実の孫、~1121年)のとき、白河法皇のお召により献上。この忠実が若いころ不審がってある者に抜かせてみたところ、峰に金象嵌で「坂上宝剣」と銘が入っていたという。
京極大殿傳取テ持給タリケルヲ。白川院ノ聞召テ召ケレバ。被進之後ニハ自脱事ハナカリケリ。大殿ハ令恐給テ一度モヌカセ給ハザリケルヲ。知足院殿ワカク御坐之時。不堪不審。以或者ヌカセテ御覽ジケレバ。頗ル鋒ノ方ニヨリテ。金ニテハ、坂上宝剣ト云フ銘アリケリ。
「京極大殿」:師実、「知足院殿」:忠実。いずれが献上したのかについては異説あり。
再び皇室伝来
- 嵯峨天皇より16代後の後嵯峨上皇(第88代)は、文永9年(1272年)2月17日臨終に際して皇太后に亀山天皇の子孫が次ぐように遺命し、この坂上宝剣を渡したという。
- この頃には坂上宝剣は帝位の象徴とみなされていたため、亀山天皇は帝位を第二皇子の世仁親王(後宇多天皇、母は皇后・洞院佶子)に、また坂上宝剣は第十四皇子の恒明親王(母は女院・西園寺瑛子)に授けた。
- 恒明親王ののち、5代ほど続いたがあとは行方不明となった。
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