国司茄子
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国司茄子(こくしなす)
唐物茄子茶入
銘 国司茄子
大名物
藤田美術館所蔵
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由来
- 伊勢の国司北畠氏所蔵にちなむという。
- 大正名器鑑でも次のように記す。
津田宗及茶湯日記天正元年五月十八日朝、わかさや宗可の茶會に「床になすび此壺伊勢の國司の也」とあり、網干氏著万寶全書に「國司茄子伊勢」っとあり、卽ち伊勢の國司北畠氏の所持せし茄子茶入なるを以て、國司茄子と云ふなり。或る茶書に國師茄子とあるは誤なり。
来歴
- 元は伊勢国司北畠氏の所蔵という。
若狭屋宗可
- その後、堺の豪商若狭屋宗可が所持していた。
- 宗及他会記
天正元年五月十八日朝 わかさや
宗可會
及一人
一、風爐 平釜 手桶 金の水こぼし
一、床に なすび 方盆に 白地金襴之袋 臺天目
此壺伊勢國司の也、宗可遠行の七日以前銘之會也。
松花堂昭乗
- 滝本坊こと松花堂昭乗が入手する。
國司茄子 八幡瀧本坊(古名物記)
國司茄子 唐物 小壷 八幡山瀧本坊(玩貨名物記)
國司茄子 唐物なり 松花堂第一の什物也(名物目利聞書)
松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)
俗名は中沼式部。天正10年(1582年)に堺に生まれ、兄の中沼左京の伝手で近衛信尹に仕える(中沼左京は近衛信尹の次弟・一乗院門跡尊勢に仕えていた)。慶長3年(1598年)に石清水八幡宮に入り出家、瀧本坊実乗に師事して密教を学ぶ。寛永4年(1627年)実乗の死後(3月23日没)、瀧本坊住職となる。
能筆で知られ、独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。また茶湯を能くし、公家や小堀遠州、江月和尚らと頻繁に茶会を催している。寛永8年〜10年(1631年 - 1633年)の茶会記録「松花堂茶会記」を残した。昭乗が蒐集し八幡瀧本坊に伝えた茶器は「八幡名物」と称される。寛永14年(1637年)瀧本坊の焼失を期に瀧本坊を弟子の乗淳(昭乗の兄・中沼左京の子)に譲り、自らは猩々と号して風雅の生活を送り、住坊泉坊の一隅に方丈を建てて松花堂と称した。寛永16年(1639年)寂す。
松花堂弁当は昭乗にちなんで名づけられている(ただし吉兆の「松花堂弁当」とは直接の関係はない)。
- 松花堂茶会記に度々載る。
寛永九申年九月二十四日初會
江月和尚 小遠江殿 竹筑後殿
村不及 同左平太 道閑
一、茶入 國司 袋白極 盆七賢
一、花入 らかん 花白河
一、茶碗 ひらの
- 瀧本坊道具として載る。
すき道具
一、國司茄子 茶入ノ分
酒井忠禄
- 維新後に大阪の道具商伊藤勝兵衛(通称道勝)の手に渡り、さらに明治4年(1871年)頃に金二千両で酒井忠禄が買い取った。
酒井忠禄は若狭小浜藩12代及び14代藩主。初名忠義。文久2年(1862年)に諱を忠禄に改めた。
- 明治43年(1910年)の「酒井伯爵家什宝目録酣古帳」に所載。
國司茄子茶入
高一寸九分八厘、胴二寸二分八厘、口九分一厘、底九分五厘
藤田平太郎
- 大正12年(1923年)、東京美術倶楽部で行われた若狭藩主酒井家の売立に出品され、藤田平太郎が野村徳七と競り合うが決着が付かず、くじ引きの結果藤田平太郎が二十万円で落札した。
大名物國司茄子茶入 金貳拾萬圓 戸田、春海、今貞
大阪の藤田平太郎男は大名物國司茄子茶入を二十萬圓、同角木花入れを九萬八千圓で買入れられたが、此國司茄子は實に茶入のレコード破りであつた
- 現在も藤田美術館にて所蔵。
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