三日月一文字
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三日月一文字(みかづきいちもんじ)
太刀
備前一文字
来歴
- 長禄4年(1460年)5月、畠山氏の分国紀伊で根来寺と畠山軍が合戦を起こし、畠山軍は大敗する。
- 畠山義就は報復として京都から紀伊へ援軍を派遣するが、9月16日には幕府から政長に家督を譲るよう命じられ、20日に河内へ逃亡、劣勢の為政長に家督を奪われた上、綸旨による討伐対象に定められ朝敵に貶められる。
- 同年12月に嶽山城(大阪府富田林市)に籠城し、途中長禄・寛正の飢饉が発生したこともあって2年以上も戦うが、寛正4年(1463年)4月15日に嶽山城は陥落し、畠山義就は高野山から紀伊を経て吉野へ逃れる。
- この時、包囲していた細川成之が、攻め落とした褒賞として将軍義政から「三日月一文字」を拝領する。
細川成之は阿波細川家当主。室町幕府相伴衆、阿波・三河・讃岐守護。
- のち成之は将軍家に献上する。
文明10年(1478年)に9月16日に娘の死を悲しみ出家、嫡男の細川政之に家督を譲り、翌年1月15日には諸国漫遊の旅に出発している。この際に献上したものと思われる。
- 文明19年(1487年)4月、将軍義尚は黄疸にかかるが幸い全快したので、5月4日に平癒の奇岩を行った宗源神道の創始者である吉田兼倶に「三日月一文字」の太刀と紀新太夫行平の腰刀を与えた。
- 以後吉田家に伝来する。
- その後は不明。
なお本刀とは別に、細川幽斎からも吉田家に一文字が贈られている。幽斎の娘伊也は天正11年(1583年)に吉田兼見の子吉田兼治に嫁いでいる。娘が身籠ったことを知ると、幽斎は11月4日に一文字の刀を贈った。
畠山氏のその後
- 吉野に逼塞していた畠山義就は、その後寛正4年11月に日野重子(将軍義政生母)の薨去に伴う大赦により、斯波義敏とともに赦免される。
- 畠山政長を擁立して畠山氏を抑えこむことに成功した細川勝元の勢力拡大を警戒した山名宗全や斯波義廉の支持を得て、畠山義就は寛正6年(1465年)8月に挙兵、文正元年(1466年)8月25日に大和から河内に向かい諸城を落とし、12月には上洛して畠山政長に畠山邸の明け渡しを要求させ、管領を辞任させる。
- 翌文正2年(1467年)1月18日には上御霊神社において衝突し、山名宗全や斯波義廉の家臣朝倉孝景の協力を得て畠山政長を破る(御霊合戦)。
- 御霊合戦により山名方が有利となったことにより、翌年には細川方が巻き返しを図り、応仁の乱が勃発する。
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