三好江
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- 刀と短刀の2つ同名のものがある。
- 打刀:二尺二寸八分
- 短刀:八寸三分
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三好郷(みよしごう)
刀
磨上二尺二寸八分
三好江
- 郷義弘極め
- 庵棟、中心大磨上無銘、目釘孔2個
由来
- 三好長慶所持にちなむという。
来歴
三好長慶
- もとは三好長慶の所持という。
- 二尺六寸五分あったものを磨上ている。
紀州太田の松本氏
- その後、紀州太田城の松本氏に伝わっていた。
- 天正13年(1585年)、秀吉が紀州太田城を水攻めした時に、紀州牟婁郡岡田郷太田の豪族、松本助持も籠城しており、城が落城すると、海路阿波へ渡った。
松本助持は、紀州太田城の松本宗佐の子で、兄は松本刑部。のち豊臣秀長に1千石で召し抱えられ、松本雅楽之助と名乗った。秀長の死後は致仕、摂州天満に移り住んでいる。黒田長政と交友があり、その左介として文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役で朝鮮に随行。慶長3年(1598年)の帰国の後、一旦生駒親正に五百石で仕えたが、再び摂津天満に戻った。寛永14年(1637年)6月7日死去、没年72歳。
子の森壽庵は母方の森姓を名乗り、息子の森尚謙と共に江戸で半井驢庵に医術を学んだ。孫の森尚謙(森厳塾)は大坂で福住道祐に医術を、京都で松永昌易に儒学を学び、貞享元年(1684年)、徳川光圀の招きを受けて藩士となり、後の「大日本史」の根幹を成した。子孫は水府森家(すいふもりけ)と称し、水戸藩で儒学者の家系となった。
秀吉
- のち松本助持は、家重代の「三好郷」を秀吉に献上して部下の助命を乞うたため、許され秀吉の弟、羽柴秀長に仕えることとなった。
家康
- 天正14年(1586年)10月、家康がはじめて大阪城に入り秀吉に拝謁した際、相州正宗の脇指とともにこの三好郷を贈っている。
廿六日
三川 國徳川家康大坂へ為一禮参着、此中種々扱アリテ令入眼候、右之廿七日關白殿ヘ被参飯アリ、進物金百枚縮百端御引出物ハ鷹、三好郷ト云刀、則重政宗 ノ脇サシ、葉茶壺白雲
三好郷(短刀)
短刀
無銘長八寸三分
三好江
由来
- 三好長慶佩用にちなむという。
来歴
- 伝来は不詳で、いつのまにか徳川将軍家所蔵となっている。
本阿弥光徳刀絵図に同寸の短刀が載る。平造り、表裏に棒樋、中心無銘、目釘孔2個。ただし三好江は中心を切っているとも言われるため、これが三好江かどうかは不明。
- この短刀の三好江はいつ焼けたのかは不明だが、享保名物帳では両方共に焼失の部に記載されている。
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