三位国次
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三位国次(さんみくにつぐ)
短刀
銘 来国次/三位
九寸一分(27.6cm)
- 差表腰樋のなかに素剣浮き彫り、裏も腰樋の中に宝珠と火炎。
- なお「名物扣」や「光山押形」には、”表裏に梵字、下に蓮花”とあり別物の可能性がある。
- 目釘孔2個、下はひょうたん型。生ぶ中心、表に「来国次」、裏に「三位」。
由来
- 銘にちなむ。「
三位 」とは作刀依頼者(発注者)の位階だといわれる。
なお、位階を示す場合の三位は「さんい」ではなく「さんみ」と発音する。これは「三」が古くは「さむ」と発音されていたためで、連声(れんじょう)と呼ばれる現象により「さむ + ゐ → さむみ(さんみ)」と変化したため。
天皇「てん + わう → てんなう(てんのう)」、陰陽「おむ + やう → おむみゃう(おんみょう)」などと同じ。
来歴
- 元は家康の差料という。
- 将軍家御物で、「小之一之箱」に納められていた。
- 寛永9年(1632年)に五十枚の折紙。
- いつのころか因州池田家に伝わり、分家に伝来していた。ある時、三万石の代わりとして譲られたという。
- 明治20年(1887年)に福地桜痴が購入し、のち萩昌吉の手に渡る。恐らく「河合正宗」と同時期の明治22年(1889年)歌舞伎座創立の際と思われる。
萩昌吉は明治天皇の侍従。刀剣蒐集で有名で、福地桜痴の刀剣はすべて萩昌吉が引き取ったという。のち那須野の開墾事業に係わったが、その際に刀剣をほとんど手放した。
- さらに米田虎雄男爵に移った。
米田虎雄は明治~大正期の宮内官僚。熊本藩家老・長岡是容(監物)の二男として生まれ、慶応2年(1866年)に兄是豪を継いで熊本藩家老に就任。戊辰戦争においては藩兵を率いて東北各地に転戦した。熊本藩大参事から宮内省に転じ侍従番長に就任、宮中顧問官を兼任した。
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