七つ星正宗


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 七つ星正宗(ななつぼしまさむね)

脇差
銘 正宗
七星正宗(火焔正宗
刃長一尺六寸五分

  • 相州正宗作の脇差
  • 作州津山藩松平家伝来。

    一 七ツ星正宗
    御脇指長壹尺六寸五分龜文刄之内七星ノ文有リ
    但菖蒲造指表目貫穴ノ下正宗ト二字莖尻ヨリ八分上リ又目貫穴有リ
    共ニ生ト見ユ住所時代トモ石田正宗ニ同ジカルベシ

  • 菖蒲造り。「正宗」の二字銘。
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 由来

  • 乱れ刃に七星のあるところから名付けられた。

    亀文刃之内七星之文有り、

  • 一名「火焔正宗」とも。

    且又此正宗御脇指の異称、以前より火焔正宗或は七つ星正宗と両様に被唱候様、主計書面に相見へ申候。愚按に火焔の称は穏ならざる様に被存候。因て又一つの名、七つ星正宗と御極め御名付け御座候様被成度旨、大目付・平井半平を以相伺候処、心付之通被仰付候旨被仰出候に付、則七つ星正宗と御鞘書相認申候事。

 来歴

  • 津山藩文書に長々と来歴が書かれている。

      御由緒
     此正宗御脇指の事は佐久間主計盛房(註 津山藩城代家老千五拾石)直筆、寛延四年辛未年閏六月の記に、左の通、此正宗は元来尾州成瀬隼人正一説に紀州安藤帯刀とも云なり所持にて、隼人正より尾州様へ指上、夫より 権現様へ被指上御秘蔵被遊候処、其後 秀康様へ被下候由申伝なりと記す。
     同書に火焔正宗先年、有徳院御代当下山十郎右ヱ門殿の代所持有之之段達上聞、御内々にて 上覧可被遊之旨にて、御側衆小笠原石見守殿へ被指出候て、暫御留被置成。扨御内々にて公儀へ可被指出哉と、石見守殿より被申聞、且十郎右ヱ門殿所持之由御尋有之処、十郎右ヱ門殿申上候は、此正宗之儀元来 権現様御所持被遊候処、三河守秀康卿へ被遣之。彼家之子孫伝来にて候処、其後右家臣へ給り候由、右家臣十郎右ヱ門殿由緒有之に付、十郎右ヱ門殿へ預け候由、石見守殿迄被申達、其外訳有之。依之従公儀御返し被遊候旨、十郎右ヱ門殿物語有之候事と印有之候。

    ただし後半は、吉宗上覧後に召し上げされそうになったが由緒を述べてそれを逃れたという話。

 成瀬隼人正

  • もとは尾張家老成瀬隼人正所持。※一説に紀州藩の安藤帯刀ともいう。
    秀康の没年から考慮すると、犬山藩初代藩主で尾張藩付家老の成瀬正成であると思われる。正成は寛永2年(1625年)1月17日没。

 尾張藩主→将軍家

  • 成瀬家から尾張藩主に献上し、尾張徳川家から徳川家康に献上される。

 結城秀康

  • のち結城秀康に与えた。
    結城秀康は慶長12年(1607年)閏4月8日に薨去なので、以上の来歴はそれ以前のこととなる。

 津山松平家→下山十郎右衛門

  • その後、秀康嫡孫の津山松平家に伝来。
  • いつのころか、家臣の下山十郎右衛門に与えたという。
  • 将軍吉宗の時、所望され上覧に供している。この時、将軍家に献上しないかという内談があったが、藩主より拝領した事情を下山家から説明したところ、献上せずに済んだという。

 津山松平家

  • のち藩主に献上。
  • 以後は津山松平家に伝来。

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