一庵正宗


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 一庵正宗(いちあんまさむね)

短刀
無銘伝正宗名物一庵正宗)
8寸1分(24.5cm)
重要文化財
徳川美術館所蔵

  • 相州正宗作と伝える無銘短刀中の優品。
  • 享保名物帳に所載の「一庵正宗」が本短刀であり、一庵法印所持によりこの名がある。

    一庵正宗 無銘長八寸二分 代三千貫 御物
    大和大納言御内、横浜一庵方士所持故申伝候、井伊掃部頭上ル為遺物

  • 本阿弥光温押形

    秀吉公ゟ京極修理殿拝領天和一庵法印ゟ上ル

Table of Contents

 由来

  • 横浜一庵(桑山一庵法印良慶)所持にちなむ。
    武将・横浜一庵法印については後述。

 来歴

 秀吉→京極高知

  • 一庵の死後に秀吉から京極高知に下賜。

    秀吉公ゟ京極修理殿

 徳川家

  • その後京極家から徳川家に献上された。

 家光→井伊直孝

  • 元和9年(1623年)6月には将軍家光が上洛の途上、彦根城に立ち寄った際に井伊直孝に与えている。
  • 寛文元年(1661年)の記録では、黒塗の鞘、柄は白鮫に打圧出銀、目貫は乗意作の赤銅色絵鶏図、小柄は体乗作同図で、国元彦根城本丸土蔵に納められていたという。

 井伊直興→将軍家

  • 井伊直孝の孫である井伊直興が、元禄14年(1701年)3月15日に隠居した際に将軍綱吉に献上している。

    十五日月次拜賀例のごとし。井伊兵助直通襲封を謝して。雲次の太刀。(略)掃部頭直該は致仕の得物とて。一庵正宗の小脇差。茶壺(伊賀肩衝)を獻じ。

    「井伊兵助直通」は5代直通、「掃部頭直該」は4代直興(後の直該)のこと。

    井伊直興(覚翁・直該)
    井伊直興は元禄14年(1701年)に直通に家督を譲って隠居するが、その直通が宝永7年(1710年)7月に22歳で早世し、さらに三男の直恒に跡を継がせたが彼も同年10月に間もなく早世してしまう。このため直興は剃髪して覚翁と号していたのを還俗して直該と改め、次の男子である金蔵(直惟)が成長するまで再び家督を継いで藩主となった。そのため、4代藩主直興(なおおき)および7代藩主直該(なおもり)と名乗りが複数ある。正徳4年(1714年)2月15日に5男の直惟が元服すると2月23日に大老を辞任、直惟に家督を譲って隠居した。
    上記「一庵正宗」を献上しているのは、一度目の直通に譲った際のものである

    【彦根藩井伊家】
    井伊直政─┬直勝【上野安中藩】
         └直孝───┬直滋
               ├直縄──直興───┬直通
               └直澄──中野宣明 ├直恒
                         ├直矩【越後与板藩】
                         ├直惟─┬直禔
                         └直定 └直幸─┬直尚
                                 ├直富
                                 └直中─┬直清
                                     ├直亮
                                     └直弼──直憲
    
    【彦根藩主】
    直孝─直澄─直興─直通─直恒─直該※─直惟─直定─直禔─
    ─直定─直幸─直中─直亮─直弼─直憲
    ※4代直興と7代直該、9代および第11代の直定は再勤
    ※なお彦根藩主の代数は異説がある
    

 尾張吉通(4代)

  • その後5代将軍綱吉の遺物として、宝永6年(1709年)2月30日尾張家4代吉通が拝領。

    尾張中納言吉道
    御脇差 一庵正宗、宗無肩衝

  • 代付けははじめ百三十枚だったが、慶安4年(1651年)には百五十枚、元禄14年(1701年)3月に二百枚へと上がっている。
  • 本阿弥家による折紙がついている。

    一庵正宗
    正真 長さ八寸二分無銘也
    代金子二百枚
      元禄十四年 弥生三日


 横浜一庵法印

安土桃山時代の大名
一庵(一晏)法印良慶
大蔵卿法印
桑山一庵

  • 姓は横浜、あるいは桑山という。
  • 豊臣秀長と豊臣秀保に仕え、羽田長門守、小川下野守とともに秀長の三家老として内政を担当し、大和国内で5万石を領した。
  • 天正13年(1585年)に鍬初めが行われた和歌山城の普請奉行を藤堂高虎・羽田正親とともに勤めた。

    天正十三年、豐臣太閤根來寺を滅し、太田城を降し、國中を統一して、羽柴美濃守秀長に賜ふ、此地の體勢城地に宜きを觀察して、親く自繩張を命じ、三月二十一日、鍬初あり、藤堂和泉守、羽田長門守、一庵法印を普請奉行として、本丸、二ノ丸、其年の内工功竣る
    (紀伊續風土記)

  • 天正19年(1591年)に秀長が没すると、秀次末弟にあたる秀保(羽柴秀俊、大和中納言)を養嗣子とし、一庵と藤堂高虎が補佐した。

    与力、大名、小名以下、聊不可替、侍従殿守立テ、萬事各一晏法印次第ニ可被相随
    豊臣秀吉安堵状)

  • 文禄3年(1594年)に秀保が早世したため大和大納言家は断絶してしまい、一庵は秀吉の直参として仕えるが、慶長元年(1596年)閏7月の慶長伏見地震で圧死してしまった。

 系譜

  • 正室は藤堂高虎の6女(養女、長越前守連久の娘)。
横浜茂勝
  • 民部少輔。別名に正行。桑山一庵の子、あるいは弟という。秀長及び秀保に仕え、秀吉の直参となり大和国内に1万7千石を領した。関ヶ原では西軍に属し、大坂天王寺口を守備、大和高取城の戦い、大津城の戦いにも参加した為に改易となり、その後の消息は不明。
  • 子の横浜正幸(内記)は山城国笠置で生まれ、藤堂高虎が伊予から伊勢へ入国した際に小堀政一の肝煎りで500石で藤堂家に仕えた。
藤堂高虎の外孫の半井成近の室。
小堀正次の側室となり正春を産んでいる。
小堀正次は、高名な茶人で作庭家の小堀遠州(小堀政一)の父。遠州の母は磯野員昌の娘。

 本丸法印曲輪

  • 大和郡山城本丸に属する「常盤曲輪」は、一庵がここに屋敷を与えられたので「本丸法印曲輪」といわれていた。しかし江戸時代に柳沢氏が藩主になった時に改称された。梅林門も一庵丸門と称したが改名された。

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