名刀幻想辞典

高瀬羽皐

高瀬羽皐(たかせ うこう)

ジャーナリスト、社会事業家
高瀬真卿、羽皐隠史
1853年~1924年

  • 刀剣研究家として知られる。
  • 詳註刀剣名物帳」の著者。
  • 雅号に、鉄窓、往生庵、春雨、羽皐、菊亭静。

生涯

  • 嘉永6年(1853年)水戸藩士高瀬儀平次の長男として生まれる。

    先祖は代々茨城郡圷村(あくつむら)で廻船問屋を営んでいたが、父の儀平次の時に水戸へ出て下市町六丁目に米穀問屋を開き、傍ら水戸藩の御用商人も勤めた。母は鷹子。7人兄妹の3番目で、兄と姉が早世したため長男同様になった。
  • 幼名は政吉、のち真之介、のち真卿(しんきょう)を名乗る。

     四・五歳頃から歴史の話を聞くのが大好きで、家人に読んでもらった「英雄百人一首」などは忽ちに暗謡した。数え年七歳になると、古井戸甚之進という師匠の寺子屋に通わされたが、この時代の彼は一向冴えず、友達から小馬鹿にされるようなこともあって、独りで草双紙や戦記の類を好んで読んでいた。それでも三年間で「大学」や「孝経」を終えて、十歳からは川崎嶽雄の塾に通い、十三歳になった慶応三年には庄司春村という人の塾に変わった。後年彼が刀剣の歴史で一家をなす素地は、この庄司塾でつくられたようである。
     十三歳を迎えた明治元年、水戸藩にも動乱があって、彼は宇都宮へ丁稚奉公に出された。が、それも一年間で水戸に帰り、再び小井戸塾に通い、どうやら塾頭(生徒代表)の地位にも推されて、彼の向学心はそのころから急速に高まって行った。前の庄司春村や、新しい師の戸村義暢といった人びとに学んで、国学、詩歌にも精しくなった。そして、明治五年三月創刊された「日新真事誌」という雑誌を読むにいたって、決然として心に期するものが生じた。明治六年夏、十八歳の彼は家出して東京に走った。彼の流転と波瀾の時代がここから始まった。
    (福祉社会の開拓者たち)

    「福祉社会の開拓者たち」は著者:山野光雄、社会保険広報社1978年出版。以下同じ。
  • 実弟に小山松吉。

    小山松吉は検事総長、司法大臣、貴族院勅選議員、法政大学総長を歴任した人物。15歳で岡山縣士族・小山高光の養子となる。妻は養父高光の長女である正尾。五・一五事件の時の司法大臣(齋藤実内閣。茨城県出身者では初の国務大臣)。
     小山松吉の長男・小山高茂も弓道で三女・菊代は建築家・山下啓次郎の次男・山下啓輔と結婚。山下啓輔は三井セメント会長となった人物。啓輔の次男がジャズピアニスト山下洋輔。
     小山松吉の次女・豐子は北海道炭鉱汽船夕張病院長伊藤金三郎に嫁いだ。
  • 明治8年(1875年)に庄司健斉(庄司春村)に師事する。※恐らく2回目の師事だと思われる

    庄司(荘司)健斉。諱は寛、のち秀実と改め、通称を健斉と言う。天保7年(1836年)水戸彰考館に入り、天保12年(1841年)表医師。弘道館医学掛を兼ねた。天保14年(1843年)医学館を開き、森庸軒とともに教授になる。弘化2年(1845年)致仕。のち明治7年(1874年)には76歳で埼玉縣の学校改正局(のちの師範学校、現在の埼玉大学の源流)の教授・学校掛となっている。「師範学校設立に際して新たに採用されたのは荘司健斉と高宮弥学のニ名であり。荘司は水戸の弘道館教授を勤め、頼山陽とも交友深い漢学者で、当時七十六歳の高齢であった」(同職には清浦奎吾、横田国臣、飯田年裕らがいた)。明治19年(1886年)90歳没。著書に「學制餘論」、「政教一致圖」、「世祿増減論」、「救餓錄」、「山陰雑談」、「山陽筆記」、「教典私訟」、「教法問答」。※だいたい生没年不詳とされているのだが、明治19年に90歳没であれば寛政9年(1797年)生まれではないかと思われる。
  • 仙台で「東北毎日新聞」を発行し自由民権論を唱える。

     翌年(明治11年)三月には「仙台日日新聞」の記者になっていた。ところが就職早々、五月には県庁の職員を誹謗したという廉で禁固刑一ヶ月、退屈を紛らわすためにその獄中で書いたのが「鉄窓小言」であった。
     その後十二年八月に、彼は仙台日日新聞を退社して、知友若生精一郎とともに「宮城日報」を創刊、ついで翌十三年四月、独力で「東北新報」を発行し、さらに翌年七月「東北毎日新聞」をはじめるなど、精力的な分泌活動を展開した。しかし、これも十五年に入ると行き詰まって休刊し、前からの東北新報社を競争者側に売りつけて、同年十一月帰京したのである。
    (福祉社会の開拓者たち)

  • 明治15年(1882年)に東京に出て戯作者となる。

    この頃、羽皐は東北七県に自由党(板垣退助らが結成した明治期の自由党)の組織「東北七縣連合」を作るべく政治活動をしており、福島県令であった三島通庸にも面会し、感化院の計画について語っている。「実は、私は先年来、新聞条例の讒謗律にふれて、二度まで監獄に入りました。そこで獄内の事を知ったのですが、日本の監獄は甚だ野蛮で、旧幕時代の陋習が残っているので、これを改良することが目下の急務です。たとえば去る十三年末の全国の犯罪者は、未決囚で三万一、九三八人であったのが、十五年には五万二〇三人に増加しています。今年はこれが六万人になるのではないか、と思われます。世界一犯罪者の多い英国の人口千人に対して七人にも、日本のほうが多いと言えます。こうした犯罪者を減らすにはどうすればよいか、私は先ごろから研究しているところです。」
    讒謗律(ざんぼうりつ、明治8年6月28日太政官布告第110号)は、明治初期の日本における、名誉毀損に対する処罰を定めた太政官布告。板垣退助らによって制定された。
    またこの頃羽皐は30歳だったが、すでに栄子夫人との間に長男高瀬紹卿(魁介)が生まれていた。

社会事業

  • 明治17年(1884年)5月には鍛冶橋監獄の朝倉副典獄に呼ばれて教誨師(きょうかいし)に関しての意見を求められており、のち正式に依頼を受けて鍛冶橋監獄で話をして評判を得、市谷、石川島、小菅などの監獄での話を求められたという。

  • 明治17年(1884年)10月には囚人の感化協会(感化心学會?)を設立、また翌明治18年には本郷湯島称仰院内に日本初の少年感化院(私立予備感化院、翌年に東京感化院)を設立する。

    今をる十七年以前、湯島の兩門町即ち池の端の西の通りである、こゝに稱仰院と云浄土宗の寺があつて本堂はさうでもないが、庫裏の方は非常に頽廃して、今にもたふれさうな家があつた、座敷の數が十五六あつた様に思う、さてこの感化院を創業さうげふするにつき、新たに建る事はとても出來ないから、先づこの寺の庫裏を借りて創業しやうと思ひついて、住職に話した處がどうせ明屋になつて居るから、お貸しまをしませうと云事で一ヶ月五圓で借り受た、尤も其節は六室計り借りたのであつて追々に殘らず借りる事にしたので、そこに真卿夫婦と下男一人下女一人茂子と魁介と以上六人引移つて、院務の手傳には竹内撲卿ぼくけいと、近藤奏水さうすゐ二人であつた、

    湯島稱仰院講安寺。山号専修山。初め無縁山法界寺と称していたが、元和2年(1616年)に湯島天神下より移転、開山上人が同じ境内に無縁寺と名付けた庵を建てる。正保2年(1645年)、無縁寺は坂下側の称仰院、法界寺は坂上側の講安寺となって現在に至る。
  • 明治22年(1889年)に本郷駒込曙町に移転、渋沢栄一の後援も受けている。

    是月、東京感化院後援ノ目的ヲ以テ東京感化院慈善会組織サル。栄一其会計監督ニ就任シ、同三十七年十月辞ス。

    • 明治45年(1912年)に日蓮宗の宗務院総監佐野前励さのぜんれい師に無償譲渡するまで院長を務めている。
      感化院は現在でいう児童自立支援施設。この少年感化院は、大正12年に土地の返還期限が到来し、江古田に移転する。のち錦華学院と改称し、現在は社会福祉法人錦華学院。東京都練馬区小竹町。
      佐野前励は、日蓮宗の僧侶。山谷正法寺住職佐野日遊の養子となり、のち池上本門寺中教院で新居日薩に学んだ。平民主義を主張し宗規の改正を断行し、43年推されて宗務総監となった。

羽皐号

  • 高名な「羽皐うこう」は号で、明治27年(1894年)ごろより東京渋谷村の羽澤に住したためとする。

    "皐"は澤(沢)と同義。なおこの「羽皐」はそれより前に羽澤に住んでいた愛刀家で知られた第2代内閣総理大臣黒田清隆の号でもある(黒田羽皐)。
  • この羽澤の地は、感化院運営の援助を目的として、宮内省より南豊島御料地7800坪を貸し下げられたことによる。羽皐はここに新たに感化院を設立し、傍らに自宅を構え、羽澤文庫と称した。明治25年(1892年)時点で羽皐40歳。

    (明治25年)
    七月四日 渋谷御料地ノ内、拝借地仮受取ノ為メ院長出張セラル
    一一月一一日 院長、午前八時半ヨリ南豊島羽澤御料地見分トシテ出張

  • この敷地内の一画に明治44年(1911年)の10月に鍛刀所を作り、宮内省御用刀匠の堀井胤明を招いて鍛刀させており、自らも焼刃直し程度は行ったとされる。

    しかし日本刀大百科事典によれば、正しくは堀井胤明の養子の堀井兼吉(俊秀)であるという。この刀工・堀井兼吉(俊秀)とは、2021年12月に坂本龍馬所用「陸奥守吉行」の押形が残っていたと話題になったときの「瑞泉鍛刀所」の初代の人物である。堀井兼吉(俊秀)は明治37年(1904年)胤明に入門。明治44年(1911年)に高瀬羽皐の羽澤文庫内の鍛刀所に迎えられた。同年師の娘と結婚して堀井家を継いでいる。大正7年(1918年)に瑞泉鍛刀所の専属刀工として養父とともに赴任し同主任となる。
     堀井胤明は本名堀井五郎三郎、刀工・堀井胤吉(月山貞吉ついで荘司直胤に師事。のち宮内省御用刀工)の甥でのち養子となって継いだ人物。明治36年(1903年)に宮内省御用刀匠。昭和7年(1932年)に室蘭に移って日本製鋼所(現室蘭製作所)に入所している。
     瑞泉鍛刀所では、刀鍛冶堀井家の初代を堀井胤吉、堀井胤明を二代としており、また瑞泉鍛刀所の初代は堀井胤明の跡を継いだ縁戚の堀井兼吉(刀工名は最初兼明、ついで秀明、さらに俊秀と改名)とする。
    瑞泉鍛刀所百年の歩み - 日本製鋼所(PDF)
  • 晩年羽澤の地から世田谷太子堂に移っている。

  • 大正13年(1924年)11月17日に72歳で死去。墓所は吸江寺(山号普光山、臨済宗妙心寺派。東京都渋谷区東4丁目)

系譜

  • 栄子夫人との間に二男三女。

  • 長男・高瀬魁介。羽皐の死後に出たいくつかの書籍において、序文などを寄せておりその名が残る。東洋大学卒、東京日日新聞記者。著書に「革新稻作法」、「最近實業談」。その他父羽皐の残した原稿を編者として出版している。

    • その長男が達夫氏。

刀剣

  • 刀剣を趣味とし、明治33年(1900年)より靖国神社遊就館の刀剣会幹事を務める。

  • 明治42年(1909年)57歳時に「刀剣談」、翌43年には「日本刀」の連載を開始する。

    乾坤一新、大正十四年の春を迎へて、我「刀剱と歴史」は茲に第百六十九號に達せり、明治四十二年、羽皐先生刀剱談と題して東京日日新聞に執筆せられしが動機となり、同四十三年十月には「刀剱と歴史」の創刊號は世に出でたり、「刀剱保存會」の設立は實に大正元念十月にして刀史第三年の新施設なり、刀史生れてより茲に第十七年の誕辰に屬す、十七年の歳月又短しと云ふべからず、其間斯道の宣傳には各地を旅行し、刀剱保存の必要を説き、愛刀趣味鼓吹に勉められし、羽皐先生の熱誠には吾人後進者の輾た感謝の念を禁ずる能はず、噫大正十三年十一月十七日、我刀剱保存會の前途進展の計を畫す可き緊要の時に際し、先生は溘焉として不歸の客と爲れり、
    (大正14年1月10日第百六十九號 近藤鶴堂氏の言葉)

  • また明治43年(1910年)10月には刀剣保存会を設立し、10月13日「刀剣と歴史」第一号を羽澤文庫から発刊する。編集発行人は近藤鶴堂(近藤藤之介)。

       ○ 發 刊 の 辭
    刀劍も歴史も、人の生活に何等の利益を與𛀁す、刀剱なしと雖も少の危険を感せす、歴史を知らすと雖も金儲けに損したる例なしと是れ寔に名論なり、吾等一言も之を反駁するの材料なし
    併ながら是れ俗物の論なり、黄金珠玉價貴しと雖も凶年の時に米の代理をなさす、名畫法帖世に稀なりとも床の間の虚飾物たるに過す、此の筆法を以て論すれは博物館、美術館、圖書館みな生活上に直接の關係なし、是も亦無益の長物か、何そ必すしも然りと言んや、然らば刀剱歴史また必すしも無用に非す、極端に言は羽織の紋も無用なり、羽織も袴もなくて叶はぬものにあらす帽子扇子は手拭と澁團扇※しぶうちわにて事足るべし、况んや美服をや况んや床の間をや、かく言は必用の物としては食器と常用の衣類、木葉葺こけらぶきの小屋にて生活に何等の妨けなきなり、
    吾等は人生々活の爲よ刀剱の事を言ふものにあらす、歴史また然り、抑も國家にとりて必要欠く可らさるもの果して何そと問は何と答𛀁んか、曰く國家觀念を養ふべし曰く士道を重すべし、曰英雄を崇拜せしむべし曰く道義の觀念を養 ふべし、斯く列舉し來りて如何にして之を養成し之を自覺せしむるか、曰く教育の二字に歸すべし、教育之を分ては方法百端只た文字を教ゆるが教育にはあらす、然らば何を以てするか、刀剱、歴史即ち其一にあるなり
    吾等は手前味噌の辛きを知る、刀剱の功能、歴史の利益を喋々するを欲せす、 無用の用は場合に於て有用の物よりも必要なるを知る、裡面の利益は現れたる 利益よりも深き場合あり、趣味、感興は言語を以て表示す可らす、讀て益あり興ありと思ふ讀者は之を見よ吾等は强て自分を廣告せさるべし
     
       明治四十三年九月     羽 鼻 隱 史

  • さらに大正元年10月には日本刀の保存及びその研究を目的とした「日本刀剣保存会」を創立している。

  • 自らの愛刀としては、「青木郷」、武田信虎所持という兼光二尺九寸三分などが知られる。

  • 春秋堂に二冊の刀剣目録があり、一冊は現在の所持刀剣、もう一冊は人手に渡った刀剣が記されていたという。この後者のメモ。

    菊御作の太刀 在銘 箱入
    武田信虎佩刀金光 在銘 袋入
    備前國吉宗の太刀 在銘 袋入
    三池傳太光世の太刀 在銘 袋入
    金葵の刀「西蓮」 無銘 袋入
    籠つるべ之定の刀 在銘 袋入
    和泉守兼定の刀 在銘彫あり 袋入
    備前三郎國宗の刀 在銘 袋入
    粟田口國綱の刀 在銘 袋入
    最上國次の刀 無銘
    在銘貞宗の脇差 折返銘 袋入
    額田助眞の脇差 無銘 袋入
    堀川國廣の刀 在銘 袋入
    初代五字忠吉の刀 在銘 袋入
    波平安家の刀 在銘 袋入
    備前長光「十六夜と號」 在銘 袋入
    長曽根興里刀「三日月と云」 在銘 袋入
    源左衛門尉信國刀 在銘 袋入
    直江志津の刀 無銘 袋入
    無銘正宗脇差 大聖寺と號す 袋入
    この外に古刀新刀で五十二振出て居る、十年間にこれだけの刀を他に奪われて居る、合計七十二刀、一ヵ年に七刀づゝ無なつて居るが、新しい目録を見ると、古い目録より移したのが二十三十刀もあり、七八年來ボツ/\集たのが可なりあるから、刀の數はいつも同じ位になつて居ると云てもよい

書籍

参考