名刀幻想辞典

貂の皮

貂の皮(てんのかわ)

珍獣貂(てん)の皮を使った雌雄一対の槍鞘

  • 「丹波の赤鬼」と恐れられた悪右衛門赤井直正が所持していた丹波赤井家重代の家宝。

由来

  • 室町幕府初期の頃、赤井家当主であった刑部少輔景忠が、ある時丹波大江山に狩りをし、洞窟を燻らせた所、一つがいの貂が飛び出してきたという。これを霊獣として祀り、毛皮にしたところ、四尺ほどの細長い袋になった為、赤井家では太刀を納めて使っていたという。その後さまざまの奇瑞が起こった為、これを家宝として代々伝えたという。

    一日あるひ景忠家人等を具して大江山に狩しけるに、その日は殊に獲物多くして人々興に入りけるが、とある岩窟より見なれぬ獸飛出でたり。其色黑くして首より尾まで長五尺もあるべし、四足は赤松の枝の如く毛色いたちに似たり。何といふ名を知るものなし。木根岩石の嫌なく走り廻りけるに、真におそろしく見えたりけるを、景忠いで射留めてくれんずと、大の中差取てこれを射るに、胴中にあたりて飛返る。二矢をつがうて同じ矢つぼを射てけるに、是れもおなじくはねかへる。家人共はやのねの立ぬは奇代の獸かなとおぢあへりしが、景忠すこしも恐れず、勢子の中に入て手取にせんと構へたれば、彼獸こゝかしこ追ひまはされのがれ出づべき道なく、景忠を目にかけて飛び懸るを、景忠すかさずしかと抱き留め、力にまかせてねぢ付けゝれば、さしもの猛獸なれども大力にしめ付けられ、少しよわくて働き得ず。景忠得たりと腰刀を拔て胸のあたりを突きけるに、少し血の出でけるにより、幾刀となくさし通し終にこれを仕止め、家人等にあづけ縄を付けて引立てんとせし時、また同じ様なる獸一疋飛出で、先に殺されし獸を慕ふかしと聲を發して鳴きかなしむ體なりしかば、景忠おもふ樣、是れは先に捕へたる獸の雌なるべし。此れとても遁すべきにあらずとて、例の弓に矢打ちつがひ丁と射れば、あやまたず首筋にぐさと立つ。急處きふしよなればたまりえず倒るゝ處をはしり寄てこれをも突止め、是を今日の手柄として狩場のあそびはさて止みにけり。然るに其夜景忠の枕がみへ二つの獣あらはれ出で、是れは大江山に數百年の壽を經し貂なり。然るに今日雌雄めお共御身に害せられしこと命數の盡くる期なれば怨ともおもはず、但雌雄の首をば一堆の塚となし皮をば止めて子孫の寶となしたまへ、御身が武勇を守るべしといふかとおもへば、是れ一場の夢なりけり。景忠奇異のおもひをなし、城の乾の隅に二つの首を藏めて是れを祀り、其皮をばたくはへ置けるが、いつしか四足も落ち油もぬけ細ながくして四尺あまりもあるべし。革袋の縫めなき物なりしかば、調寶の物なりとて、太刀刀の類を納め置きけるに、其しるしにや武運次第に繁昌しけるとなり。
    (真書太閤記)

来歴

  • 天正の頃、織田氏が丹波攻略をした際、赤井直正のもとへ降伏勧告に訪れた羽柴秀吉配下の敵将脇坂安治に、この貂の皮を譲った逸話が有名。

    安治今は所望の品をもあからさまに云ひ出で難くおもへども、今日ならで又緩󠄁々ゆる/\と語り出でん便宜びんぎもなしと思ひ切て、抑赤井の家に貂の皮の名物ありとかや、一は貴邊の指物にての貂と承る。然らば外にの貂あるべし。雄は戦場にて度々見うけて候が、雌は一度もこれを見ず如何なるものにや覺束なしといふ。景遠答へて雄の貂は弓箭の上にて渡し申すべし。八幡殿の柄紋にならひたまへ。雌は後に送り遣はすものに添へてこそと約束し、互に意ありげに別れけり。
    (中略)
    明日早天に城攻めあるべしと觸れたりける夜、誰とは知らず脇坂の陣へ來りて今夜兼々約束せし重寶を授くべし。随分々々大切に守護ある様頼み入り候と申して、幼稚男子と雌の方の貂の皮の袋一つ兵士にもたせ、搦手より出し伴ひきたる。安治請取りて兵士を呼近付け、意をこめられし贈りものたしかに預り参らせ候。安治が命は竭くるとも頼まれし本意は變り申さず候と申せとて兵士をば返し、幼稚の男子をば直に近江なる小谷の我宿所に落し遣りしかば知るもの更になかりしなり。この幼稚男子のちに成人して赤井九郎次郎と云ふ。

  • もっともこの話は、当時の脇坂安治の身分と活躍する内容が合わないことから後世の創作であると指摘されている。

  • のち天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いにおいて、脇坂安治は、賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられている。その後は東軍に味方することで淡路洲本3万石から伊予大洲5万3,500石となっている。

  • 子の脇坂安元は、堀田正盛の次男・安政を養子に迎えることで、願譜代の家格を手に入れ、江戸城での伺候席も譜代の帝鑑間詰となっている。脇坂安元の代に播磨龍野藩へ転封しており、そのまま幕末を迎えている。

    また安元は教養人として知られ、当時武家第一の歌人ともされ、八雲軒と号し徳川秀忠の談伴衆でもあった教養人で、和漢書籍数千巻を蔵していた。林羅山には儒学を学び、逆に安元が羅山に歌道を教えるという師弟関係でもあった。また「寛永諸家系図伝」の編纂にあたって幕府は各大名家から系図を提出させているが、この時「祖先は藤原氏であるらしい」ということだけしかわからなかったため、祖父脇坂安明からの短い系図のみを作り、冒頭に「北南 それとも知らず この糸の ゆかりばかりの 末の藤原」(北家・南家ひいては京家、式家いずれかは判りませんが、父祖よりたまたま藤原氏の末裔を名乗っております=脇坂家は大した出自ではありません)という和歌をしたためて提出したと伝わる。