津田信澄
織田信澄(おだ のぶずみ)
安土桃山時代の武将
津田信澄
七兵衛
織田氏の連枝・一門衆
概要
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織田信長の弟・織田信勝(勘十郎信行)の嫡男。
織田信秀 ├────┬織田信長──┬織田信忠───織田秀信(三法師) 土田御前 │ ├織田信雄 │ └織田信孝 ├勘十郎信行(信勝) │ ├────┬津田信澄 │高島局 ├津田信糺 │ └織田信兼 ├喜六郎秀孝 ├三十郎信包 ├お市 └お犬
弟に津田勝三郎信糺(つだ のぶただ)、織田新八郎信兼(おだ のぶかね)がいる。 -
幼名は坊丸。初名は信重。のち信澄。
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父・信勝(信行)は兄・信長に叛旗を翻したため信長に誅殺されたが、七兵衛信澄は許された。
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この頃、織田氏の庶流を表すとされる「津田」姓に改めている。
同様に、信長の叔父・信次の孫にあたるとされる津田盛月や津田正勝、盛月の子・津田信任、津田信成らが津田姓を名乗っている。 -
のち信長の一門衆として重用され、側近衆の一人として活躍した。
生涯
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織田信秀の三男で信長の同母弟・織田信勝(信行)の嫡男として生まれる。※信長の甥。
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生年が明らかではないが、従兄弟にあたる信忠と同年代で弘治元年(1555年)頃と見られている。
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永禄元年(1558年)11月2日、父・信勝は謀反の企てを起こしたとして伯父・信長によって暗殺されるが、七兵衛信澄を含む子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育された。
磯野員昌養子
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元亀2年(1571年)信澄は、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子となる。
織田七兵衛尉ヲ養子ニ仰セ付ケラル。丹波(磯野)殿、七兵衛殿ヘ御代渡ル。丹波殿隠居分ニ今津海津辺三分残ル。七兵衛殿新庄二居城。
是月、信長、姪阿菊丸醤油ヲ磯野員昌ノ嗣ト爲シ、近江佐和山城ニ居ラシム、藤堂高虎、之ニ仕フ、
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ただし、天正2年(1574年)2月3日に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に、信澄は御通衆の「御坊様」として出席しており、また同年3月27日に信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切り取った際にも重御奉行の「津田坊」とまだ童名で呼ばれていることから、実際には信長のそばに居た可能性が高い。
天正二年甲戌三月十二日、信長御上洛、相國寺初而御寄宿、南都東大寺蘭奢待御所望之旨、内裏へ御奏聞の處、
三月廿六日、御勅使日野輝資殿、飛鳥井大納言殿、爲勅諚忝も被成御院宣、則南都大衆致頂拜御請申、
翌日三月廿七日、信長、奈良之多門に至て御出、御奉行塙九郎左衛門、菅屋九右衞門、佐久間右衞門、柴田修理、丹羽五郎左衞門、蜂屋兵庫頭、荒木攝津守、夕庵、友閑、重御奉行、津田坊、以上、
三月廿八日、辰刻、御藏開候へ訖、彼名香、長六尺の長持ニ納り在之、則多門へ被持參、御成之間於舞臺懸御目、任本法、一寸八分被切捕、御供の御馬廻、末代の物語ニ、拜見可仕の旨御諚にて、奉拜の事、且御威光、且御憐愍、生前之思出、忝次第不申足、一年東山殿、被召置候已來、將軍家御望之旁、數多雖在之、唯ならぬ事の候間不相叶、佛天之有加護て三國無隱名物、被食置於本朝、御名譽御面目之次第何事加之、 -
天正3年(1575年)7月、信澄は磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍。今立郡鳥羽城を破り、5、600人の一揆を斬っている。これが信澄の初陣であり、前年である天正2年から同年までの間に元服したと見られている。
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同年には、公家の吉田兼見の接待を命じられている。
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天正4年(1576年)1月には丹波攻めの明智光秀の応援を命じられている。
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天正4年(1576年)築造が始まっていた安土城に使う大石(虵石)を運んでいる。「織田信長#安土城」の項を参照
(天正四年)四月朔日より、当山以大石被構之、四方石垣を被築、又其内に御天主を可被仰付之旨に而、(略)爰に津田お坊・虵石と申大石麓迄雖被寄候、一切に不上候、滝川左近・羽柴筑前・惟任五郎左衛門三人合力候て、一万余之以下人数、夜日三日に被上候、信長御巧を以、輒御天主へ上させられ、昼夜山も谷も動計之次第也、安土御天主之次第、石くらの高さ十二間余、
(太田牛一「原本信長記」)
大溝城主
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天正6年(1578年)2月3日、養父・磯野員昌が信長の叱責を受け突如高野山へ出奔してしまう。※伊香郡高月の磯野村に戻ったとも。
戊寅(天正六年)二月三日、磯野丹波守、上意ヲ違背申シ、御折檻ナサレ、逐電仕リ、則チ、高島一向ニ津田(織田)七兵衛信澄、仰セケラレ候ナリ。
三日、信長ノ將近江磯野員昌、背キテ高野山ニ出奔ス、尋デ、信長、其邑ヲ收メテ、津田信澄ニ宛行フ、
本能寺の変において信澄や信長が亡くなると、高島郡に戻って帰農し天正18年(1590年)9月10日に死去した(「員昌公 天正十八歳戊寅九月十日長保院英山(竹冠に山)居士」)。享年68。
子・磯野行信以下の一族は石田三成、後に藤堂高虎(高虎は天正年間に員昌に仕えていた)に仕えて家名を存続させた。孫の磯野行尚は、大坂の陣で藤堂軍に属して八尾・若江の戦いで増田盛次を討ち取る功績を上げている。娘は小堀正次に嫁ぎ、茶人大名・小堀政一(小堀遠州)を生んでいる。 -
磯野員昌の所領・高島郡はそのまま信澄に宛行われ、新庄城から移って、明智光秀の縄張りで新たに城を築いた大溝城主となった。このとき「八樋正宗」を拝領している。
天正六年ニ大溝ヘ御引取ラル。城ノ縄張ハ明智日向殿ナリ。
天正六年二月三日近江国大溝の城をたまはる。このとき右府より先祖信定伝来の刀及び八樋正宗の脇指をたまはり、桐瓜の紋をゆるさる。
天正六年己卯織田信澄居城之地圖明智光秀縄張新庄城ヲ移、
(織田城郭絵図面)織田城郭絵図面によれば、御本丸を中心に天主・堀が見られ、侍町通・職人町・惣門などがあり、永田左馬・朽木民部・多胡左五兵衛・辰見才助・河井宗右衛門・井関源左衛門・猪飼甚九郎・吉武久八郎・渡辺与右衛門・堀田弥次左衛門・赤尾新七郎・川村加介・田屋兵助・石崎甚四郎・御小人頭四郎右衛門・矢倉与右衛門・高橋・鷺坂・安田・善藤・川添と21名の名前が書かれている。
一門衆としての動き
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天正6年(1578年)4月4日、織田家当主となっていた信忠に付き従い、石山本願寺攻めに参陣。大坂、播磨、摂津へ進軍しており、遊軍的な位置づけとして動いている様子が伺える。同4月には万見仙千代とともに播磨の海岸に砦を築いている。
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天正6年9月に信長が津田宗及宅を訪問した際にはこれに供奉している。
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天正6年10月から翌年11月までは、荒木村重討伐に従軍しており、開城した摂津伊丹城には信澄が置かれて、村重の正室ら一族37名を捕えて京都に護送する役目を負っている。
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天正7年(1579年)4月8日播州出陣。
四月八日 播州へ御人数被出越前衆 不破 前田 佐々 原 金森 織田七兵衛信澄 堀久太郎
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遅くともこの頃までに、信長の命により明智光秀の娘と結婚している。
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天正7年(1579年)5月27日の安土宗論の時には警護役の1人となっており、翌天正8年(1580年)8月の石山本願寺からの一向宗の退城の際には、大坂に下向して検使・矢部家定を警固した。以後、大坂に常駐しており、キリスト教宣教師には「大坂の司令官」と呼ばれている。
然らば安土にて法花宗、念仏宗、両宗列座の内宗論問答とて、不思議なる論争あり。語らるるままに誌し置く。
(中略)
一、御名代
織田七兵衛尉信澄
一、御奉行衆三人
菅谷九右衛門
堀久太郎
長谷川竹
一、御目附け役二人
浄土宗方、矢部善七郎(家定)
日蓮宗方、森蘭丸 -
天正8年(1580年)3月、正親町天皇の勅使が派遣され、閏3月5日大坂の石山本願寺との和議が成立。4月9日、顕如は鷺森別院に向けて退去。退去を拒んだ顕如の長男である教如や雑賀衆の一部とも講和した。
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天正9年(1581年)正月15日の左義長、2月27日の京都御馬揃えに参加。連枝衆の参加者で信澄は、信忠80騎・信雄30騎・信包10騎・信孝10騎・津田信澄10騎と5番目に名前が挙がっている。率いている騎馬数も叔父・信包や従弟・信孝と同格の扱いである。
天正九年馬揃えの事
一、ここに天正辛巳年二月、御内府公天子に備えるべく御叡覧御馬揃えの御催しこれあり候。御内府公この日の出立ち、まことに晴ヶ間敷く威風凜々四辺を払い候なり。前代未聞弓箭の家の名誉、上京御馬場へ繰り出し候なり。
一、御連枝の衆
一、織田中将信忠卿 二、北畠中将信雄卿 三、織田上野守信兼公(※織田信包) 四、織田三七信孝公 五、織田七兵衛信澄公 六、織田源吾公(※織田長益)
前後御重臣、御歴々衆、御馬廻り衆の行列熾んに候なり。この時点では、信長の子息3人、信長の弟で北伊勢長野氏に養子入りしていた織田信包に次ぐ地位を占めており、同じく信長弟の有楽斎織田長益よりも上位となっている。信澄は早い方を取ったとしても信包の12歳年下。長益の8歳年下。 -
4月、和泉国の検地に逆らった槇尾寺(槇尾山施福寺、和泉市槙尾山町)の僧侶800名を信長の命令で皆殺にした後、5月10日には信澄・堀秀政・蜂屋頼隆・丹羽長秀・松井友閑で伽藍の部材を検分して使えそうな部材は没収し、その他の堂塔・僧坊を焼き払っている。
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9月の伊賀攻めに従弟・北畠信意(織田信雄)の指揮下で従軍しており、鎮圧後の10月、信長・信忠が伊賀国を検分した際にも同行している。
十月九日 伊賀国御見物として、岐阜中将信忠、織田七兵衛信澄御同道にて、其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是れより国中の躰御覧じ、御泊り
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天正10年(1582年)、甲州攻めでは信忠の指揮下に入らず、信澄らは信長に従って後から出張している。
三月十九日、上之諏訪法花寺に(※信長)御居陣、諸手之御陣段々に被仰付候也、
人數持備之次第 織田織田七兵衛信澄 菅谷九衛門 矢部善七郎 堀久太郎 長谷川竹(※長谷川秀一) 福富兵左衛門 氏家源六 竹中久作(※竹中重矩) 原彦次郎 武藤助 蒲生忠三郎(※蒲生氏郷) 永岡與一郎(※細川忠興) 池田勝九郎(※池田元助) 蜂屋兵庫頭 阿閉淡路守 不破彦三 高山右近 中川瀬兵衛 惟任日向守(※明智光秀) 惟住五郎左衛門(※丹羽長秀) 筒井順慶
此外御馬廻御陣取、是又段々ニ在之
本能寺の変前後
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5月7日に従弟の神戸信孝を総大将する四国遠征軍が編成されると、丹羽長秀、蜂屋頼隆、信澄の3名が副将として付けられている。5月11日、信澄は住吉で四国に渡海する準備に入っている。
天正十年春、信長様御代大坂之御城御本丸者、丹羽五郎左衛門長秀殿御預り、千貫矢倉ハ織田七兵衛殿ニ御預ケ被成被下置候由之事
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さらに5月21日信長は、京都から堺に向かうという徳川家康の大坂での接待役を丹羽長秀と信澄に命じている。
五月廿一日家康公御上洛、此度京都、大坂、奈良、堺御心静に被成御見物尤之旨上意にて、為御案内者、長谷川武被相添、織田七兵衛信澄、惟住五郎左衛門両人は、大坂にて家康公之御振舞申付候へと被仰付、両人大坂へ参着
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6月2日、(信澄にとっては)舅の光秀が京都・本能寺にいた信長を襲撃した「本能寺の変」が起こる。
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四国遠征軍は翌3日が淡路渡海の予定であったが、急遽中止される。
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信澄が光秀の娘婿であった事が災いし、市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れてしまう。
信澄、光佐上人(本願寺顕如)ノ浪人、荒木村重カ牢人、彼是三千餘人ヲ密ニ抱置、大坂城邊ニ忍ヒ置、光秀カ相圖ヲ待シ所ニ斯告來ル、
何れの衆も信長公格別の恩顧蒙りたる人々に候も、即刻人数を相催し明智と一戦の構えもこれなく候。惣別此度渡海して四国長曽我部退治のため難波浦住吉浜に人馬を集め御座を移され候。三介信孝公副将織田七兵衛尉の進退に候。御敵明智日向守の娘聟には、日向守同心もっぱららしき風評、しかるところ三介信孝公御宿老丹羽五郎左衛門の陣稠敷き人馬の往来に候。差し詰め身方同志討と相成りては迷惑とて、町屋中合戦に相成れば、明智日向守人人数差し向けこの地出入り場と成るは必定とて、早々気早の者町屋立ち退きの用意仕り、騒然たる事言い様なし。如何にも忠節らしき候も、大和の筒井順慶、中川瀬兵衛、高山右近大夫、丹羽五郎左衛門故に呼応義軍を催し、信長公の御恨みを晴らすべく畿内衆全人心を合せ、折合いたる様体にてはこれなく、いまだ進退日和見、差し迫りたる時節に候も、各々隔意の如くに候なり、と言上候ところ。前将様これ等の注進御聞取りなされ、七兵衛尉殿は才量、衆に英でたる武者なれば、己が一身の情にとらわれ節を曲る人には非ざるなり。いらざる疑心に候よと申され候。御主筑前様遠方に罷り在り候も、必ずや駆け向けられ、明智退治の采配を取るは我が殿の外他にはなし。さりながら猛火の中無念御生害の御内府公、しからばその勢威平天下の事、目前半ばにして日向守のためあえなく御最期とは、転人の世の無常実に人の命朝露の如しと悼み候。この日細雨霏々として、平井山暗雲ひくく山色空濛として、四日日当に暮れなんとす。酉の七つ半の頃合い伏見口まで罷り出で候。上坂勘解由左衛門、小野木重左衛門、息を切らして駆け入り候。この両人上方の様子つぶさに言上候なり。
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疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、5日、信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃した。信澄は防戦したが、兵を城外に留めていたことも不利に働き、丹羽家家臣・上田重安(上田宗箇)によって討ち取られた。※自害したとも言う
十年五月、右府(信長)四國を征するのとき、信澄軍をひきゐて大坂にいたり、從兵等を城外に留、其身は千貫櫓にあり、(略)六日右府事あるののち、神戸信孝、丹羽長秀等、信澄をうたがひて、俄にこれをせむ、このとき、從兵皆城外にあり、信澄勇なりといへども、兵少うして多勢に敵しがたく、つゐに千貫櫓にをいて自殺す、年二十八、或ニ十五、室は明智日向守光秀が女
五郎左衛門殿御本丸ゟ千貫矢倉へ鐵砲稠敷打掛被申候、下々をきこふれ申候を、三七様御手にて數多御打取被成候故、無程七兵衛殿も切腹被成候事、
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謀反人の汚名を着せられたまま、(従兄弟に当たる)織田信孝の命令により堺の町外れに晒し首とされた。
同六月五日、於大坂城中七兵衛殿しやうかひ、三七殿・五郎左衛門兩人之爲御覺悟之儀也、卽、首ヲ堺之北之ハシニカケラレ候、七兵衛殿首・堀田弥次左衛門首・渡邊与右衛門首、以上三ツかけられ候、
七兵衛殿の部下を刀にかけ、塔内に在りし者は、或は自刄し、或は味方の武士に殺されたり、此の如くして、三七は城の主となりて、河内の諸侯の信頼を受け、主君と崇められたり、彼は従兄弟(信澄)の首を堺に送りて梟せしめしが、殘酷なる暴君にして、諸人皆其死を希ひたれば、一同大に満足せり
織田七兵衛去五日大坂にて三七殿御成敗之由候、
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享年は25あるいは28という。
その後の大坂城
石山本願寺焼亡ののち、信長の城が設けられ、丹羽長秀と津田信澄がその守備に配置され、神戸信孝も関係したと思われる。山崎の合戦後は、尼崎城主の池田恒興がこれに代わった。それは、本願寺の焼跡を利用した信長の城塞であり、それに池田恒興が補修を加えて大坂城となったのであろう。
その大坂城を、六月、池田恒興は秀吉に明け渡した。秀吉が柴田合戦に勝利を収めて、最大の軍事的優越者となったためである。秀吉の柴田合戦の論功行賞の第一の狙いは、池田氏の勢力を摂津から排除することであった。そこで大坂城の池田恒興を美濃大垣城へ移し、伊丹城にいた恒興の子元助を岐阜城に移し、さらに尼崎城にいた池田照政(輝政)を美濃池尻城に移すことを決めた。
(「大阪府史 第5巻 (近世編 1)」大阪府、1985年3月)
つまり石山本願寺跡に信長の城が建てられ(天正8年)、本能寺の変(天正10年)後は池田恒興が入って補修を加え、のち(天正11年)羽柴秀吉に明け渡したということになる。
- 秀吉は、「大坂の事、五畿内の廉目能き所に候の間、居城相定」めたと手紙に認め(大阪府史)、早速千利休や津田宗及、今井宗久、松井友閑、荒木道薫、山上宗二らを集めて茶会を開いている。
- 5月25日 :秀吉茶会。 幽斎、 滝川一益、 宗易
- 7月2日 :秀吉茶会。 宗易、 宗及
- 7月6日 :秀吉茶会。 宗及
- 7月7日 :秀吉茶会。 宗易、 宗及、 宗久、 松井友閑、 荒木道薫、 宗二
- 7月11日 :秀吉茶会。 宗及
- 7月20日 :秀吉茶会。 宗易
- 8月13日 :秀吉茶会。 宗易、 宗及
- 9月 :大坂城築城開始 (本丸築造)
- 9月16日 :御道具揃茶会。 宗及、 宗易、 松井友閑、 宗安、 荒木道薫
- 周辺には、大和に筒井順慶、和泉に中村一氏、摂津に三好秀次、茨木に中川瀬兵衛秀政、宇治槇島に一柳直末らを入れている。また海の守備として明石与次兵衛を難波浦に集結させている(石井文書)。※この明石与次兵衛とは「水手切り」の逸話に登場する人物。
所持刀剣
八樋正宗
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天正6年(1578年)2月3日に大溝城主となった折に、主君信長から、織田信定(信長祖父)より伝来した刀とともに、「八樋正宗」を拝領した。
天正六年二月三日、近江國大溝の城をたまはる、このとき右府(信長)より先祖信定傳來の刀、及び八樋正宗の脇指をたまはり、桐瓜の紋を許さる、
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信澄死後は行方不明。
長銘貞宗
- ※享保名物帳所載刀とは別物。
- 拝領時期は不明だが、落城後の有岡城を任された時期か。
- 本能寺の変後に行方不明となるが、大坂の町人が密かに入手、秘蔵していたものを本阿弥光柴が千貫で買い取る。のち備前岡山城主池田忠継が買い求め、弟の忠雄に譲っている。
- 「長銘貞宗」を参照
秋之嵐
系譜
- 妻は明智光秀の四女。
長男・津田昌澄
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母は光秀四女。妻は安西氏の娘。
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本能寺の変前に信澄に仕えていた藤堂高虎が引き取り、家臣としている。のち豊臣秀頼らに仕え、大坂冬の陣では大坂方として戰った。戦後家康に降り、高虎の取り無しで許されて剃髪し道半斎と号する。
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元和4年(1618年)11月、2代将軍・徳川秀忠に旗本として召し抱えられ、近江国甲賀郡内などで2000石を与えられる。以後、束髪して主水と称する。
- 長男・勘七郎:
- 次男・織田信高:寛永18年(1641年)に父・昌澄の死を受けて家督を相続。嫡男の織田信成の代に弟・織田信英に500石を分知しており、子孫二家が旗本として存続した。
- 女子・高城胤重室:
次男・津田元信
- 織田信雄に仕え、その改易後には豊臣秀頼に仕えた。兄同様に行動し、大坂の役後に家康に許された。
長女
- 京極高知の正室となっている。嫡男・京極高広は、高知の継室・毛利秀頼の娘(惣持院)の子。他のきょうだいは側室・竹原氏の子。