皇族のアクセサリ
皇族のアクセサリ
- 現在の皇室で引き継がれているアクセサリ類。
概要
- 皇室での洋装は、いわゆる不平等条約の改正に向けて行われた欧化政策の一環として、伊藤博文の主導により行われた。当初明治新政府は、伝統的な日本文化における天皇及び皇室の権威化を目的として和装を正装としていた。
しかし明治4年(1871年)からの岩倉使節団の米欧往訪により、当初全権委任状すら持たなかった彼ら使節団はけんもほろろの対応を受け、不平等条約の改正には万国公法(International Law、国際法)に則った文明国化が絶対条件だと思い知らされることとなる。
その後の明治政府は、キリスト禁教の撤廃、欧化政策、憲法制定などを矢継ぎ早に行っていくが、その一環が皇室での洋装化(明治天皇の軍装も同じ)であり、対外アピールの他に国民向けのショック療法をも含んだまさに国家の存亡をかけての国家事業であった。
しかし憲法制定だけでは欧米列強は一等国(文明国)としては認めず、ようやく領事裁判権の撤廃を勝ち取っただけであった。日清戦争後、当時ロシアの南下を止めることが外交上の至上命題であったイギリスでは、クリミア、アフガンで食い止めたものの、明治24年(1891年)のシベリア鉄道着工で極東への野心を見せていた対ロシア戦略として、使えなくなった西のオスマンを見切り、新たに東の”番犬”として日本と手を組んでロシアを封じ込めるという目論見があった。そうした事情から明治35年(1902年)の日英同盟締結となり、ジェイコブ・シフ(クーン・ローブ)の協力を得ての対露戦債資金調達に成功し、さらにはギリギリの日露戦争勝利を経てようやく、明治44年(1911年)の日米通商航海条約締結などにより関税自主権を回復し、幕末以来の不平等条約をすべて撤廃させることに成功した。
不平等条約改正の動き
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岩倉使節団は、[旧暦]明治4年(1871年)11月12日横浜港を出発(アメリカ号)した。
そもそも明治新政府を動かしたのはグイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)による「ブリーフ・スケッチ(Brief Sketch、日本の近代化についての進言)」を提出したことによる。それにくわえて、安政5年(1858年)に江戸幕府が欧米各国と締結した通商条約において、締結より171ヶ月後に条約内容の改定を行うことが定められており、その期限が明治5年(1872年)5月に迫っており、ひとまずこの更新時期を延長することも目的の一つであった。
全旅程は、-明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~で見ることができる。グイド・フルベッキはオランダ系アメリカ人の宣教師(キリスト教オランダ改革派)。1830年にオランダで生まれ、モラヴィア派の学校を卒業後、ユトレヒト工業学校に進学し、工学を学んだ。アメリカ移住後、宣教師として安政6年(1859年)日本へ来た。のち佐賀藩が雇用。明治2年(1869年)に明治政府より出仕通達を受け、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事を行うために江戸へと向かう。フルベッキは慶応4年(1868年)3月に外国事務局判事となっていた大隈重信に対して、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、明治4年(1871年)11月に欧米視察のために使節団を派遣することになった。 -
12月6日にサンフランシスコ着。12月22日サクラメント、26日ソルトレイクを経て大陸を横断して明治5年(1872年)1月21日にワシントン着。1月25日にグラント大統領(第18代)に謁見。2月3日から条約改正交渉を開始するも、国務長官ハミルトン・フィッシュに全権委任状を持たないことを指摘され、大久保・伊藤ら日本へ帰国することになる(3月24日東京着、5月14日委任状下付、6月9日サンフランシスコ着、17日ワシントン着。国書御委任状、国の重要文化財)。6月17日に条約改正交渉は打ち切りとなる。6月22日にワシントン発、6月25日ニューヨーク着、28日ボストン着。
いや、我々は常に日本天皇の信任を受け居る者であるから、別に委任状は持たずとも之を持ったも同様であるから是非我々を信じて相談を初めて下され、其内本国から取寄せるからと云うた所が、先方から中々さうはゆきませぬ、是は万国公法の制規でござるから、委任状持たぬ人とは如何なる重大なる人といへども御相談に応ずること出来ぬと確然と云はれて一同ぎやふんと参り、其場に於て此方十人が国務卿の前にて、彼の日本語を解せざるを幸ひと色々と相談した所がよい分別もなく、されば迚我々大頭大勢が丸で丁稚小僧の使のごとく、左様でござるかと云うて立去る訳にもゆかぬでないかと云ふことで、数十分間同志中議論する間、彼は一人徒然の余り鉛筆にて何やら頻りに書居るのを偷視すれば、使節一行の面貌容姿を描写せりと。
(尾崎三良自叙略伝)余等百余日苦心せしことも、二氏(※大久保・伊藤)態々帰朝、種々尽議論、五千里の海上、三千里の山陸を往来せしことも皆水泡に属せり。故に為国に事を処する、其始謹慎沈黙、思慮を尽さずんばあるべからず。余等此地に到着し、忽卒の際此事に至りし元因、実に遺憾不堪ものあり。
(木戸日記)もともと伊藤使節団には条約改正の本交渉は予定になかったが(あくまで交渉を打診しての反応を調査する予備交渉の予定)、アメリカに着いた後の各地での歓待ぶりに気を良くし、駐米少弁務使の森有礼の進言とそれに釣られた伊藤副使が進めたという。交渉が失敗に終わった後、木戸は怒りを込めて日記に記している。 -
7月3日イギリス郵船オリンパス号で出航、7月13日イギリス、リヴァプール着、14日ロンドン着。16日グランヴィル外相(第2代グランヴィル伯爵)と会見。8月~10月スコットランドへ。11月3日ヴィクトリア女王に謁見。
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11月6日ロンドン発。ドーヴァー海峡経由でフランス、カレー。11月16日パリ着。11月26日フランス大統領ティエール(フランスの2代大統領・第三共和政の初代大統領)に謁見。※ここで明治改暦(「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」)。
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明治6年(1873年)1月1日新年祝賀のためヴェルサイユ宮殿。
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2月17日にパリ発。2月17日ベルギー、ブリュッセル着。2月18日ベルギー国王レオポルド二世に謁見。
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2月24日ブリュッセル発、ロッテルダム経由で24日オランダ、ハーグ着。2月25日オランダ(ネーデルラント王国)国王ウィレム3世に謁見。
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3月7日ハーグ発、エッセン経由でドイツへ。3月9日ベルリン着。3月11日帝政ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世に謁見。3月27日ポツダム。3月28日大久保帰国(5月26日横浜着)。
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3月28日ベルリン発、ブスコフ経由でロシアへ。3月30日サンクトペテルブルク着。4月3日帝政ロシア(ロマノフ朝)皇帝アレクサンドル二世に謁見。4月16日木戸孝允帰国(7月23日横浜着)。
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4月18日コペンハーゲン着。ハンブルグ、キール経由、4月19日デンマーク王国(リュクスボー朝)国王クリスチャン9世に謁見。
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4月23日コペンハーゲン発、マルメ経由でスウェーデンへ。4月24日ストックホルム着。4月25日スウェーデン及びノルウェー(ベルナドッテ王朝による同君連合)国王オスカル2世に謁見。
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4月29日ストックホルム発、マルメ、コペンハーゲン、リューベック経由。5月1日ドイツ、ハンブルク着。北ドイツ巡覧。
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5月7日インスブルック、ヴェロナ経由5月9日イタリア、フローレンス着。5月11日ローマ着。エマヌエーレ2世(サルデーニャ王国国王・イタリア王国初代国王)に謁見。ナポリ、フローレンス、ボローニャ、5月27日ヴェニス着。
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6月2日ヴェニス発。6月3日ウィーン着。6月8日オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世と謁見。万国博覧会見学(※ウィーン万国博覧会:5月1日~10月31日)。
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6月18日ウィーン発、ザルツブルク、ミュンヘン経由。6月19日スイス、チューリッヒ着、6月20日ベルン着。6月21日スイス連邦の大統領(連邦主席)ポール・セレゾールに謁見。
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6月29日ベルン発、ローザンヌ経由6月29日ジュネーブ着。同日日本より至急帰国命令の電信着きスペイン、ポルトガル訪問を中止して帰国へ。
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7月15日ジュネーブ発、リヨン着。7月18日マルセイユ着。7月20日マルセイユ発郵船「アウア」号で帰国の途へ。ナポリ着、メッシーナ海峡経由、地中海、ポートサイド、スエズ運河、アデン、アラビア海、セイロン島、ベンガル湾、マラッカ海峡、シンガポール(コレラ流行のため上陸せず)、サイゴン、香港、上海などを経由。9月5日に郵船「ゴルテンエン」号で上海から日本へ。9月6日長崎、7日神戸、9月13日横浜着。
順に見ていくとわかるが、多くの国家が誕生間もない新興国である(アメリカ合衆国、イギリス=グレートブリテン及びアイルランド連合王国、ネーデルラント王国、ロシア帝国、当初予定だったポルトガル王国などを除く)。当時のヨーロッパは、ナポレオン戦争の影響により各国で次々と国民国家が誕生した頃であり、フランス第三共和政、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、イタリア王国、スイス連邦、ベルギー王国などが建国(統合)50年未満のいわば新しい国家群であった(スペイン共和国はまさに1873年2月に第一共和政が誕生したところで11か月に4人の執行権大統領・行政権長官が入れ替わっている混乱状態。アメリカも南北戦争後の復興の時代であった)。乱暴な議論をすれば、1815年のウィーン会議から始まる1949年の諸国民の春、1861年イタリア統一、1867年オーストリア=ハンガリー帝国成立、1871ドイツ統一など、1867年の王政復古の大号令から1871年の廃藩置県くらいまでに凡そ成立した明治日本は、これらヨーロッパ近代国家樹立の流れにギリギリ滑り込んだと見ることもできる。そして岩倉使節団は、条約改正の予備交渉を行うと同時にこれら新興国家の政体や法律・産業などをつぶさに見て回ることも目的の一つであった。しかし留守政府との征韓論について意見の乖離が目立ち始め、木戸・大久保が先に帰国したほか、最終的には伊藤ら一行も帰国せざるを得なくなった。このあと明治新政府は、征韓論政変、士族反乱と自由民権運動などを経て、大日本帝国憲法公布と帝国議会開会など条約改正の準備を整えていくことになる。皇族の洋装化および女性皇族のアクセサリなどもこの時期に同様の目的を持って進められた施策のひとつと見ることもできる。留学経験のあった林董(はやし ただす)が、ワシントンでのグラント大統領(第18代)への国書捧呈時には衣冠束帯姿であったが、自らロンドンのテーラーに注文してイギリスでのビクトリア女王謁見の際には様式の大礼服を着用したと「後は昔の記」に記す。一行の禮服註文
使節一行は華盛頓にて大統領に國書捧呈の時は衣冠の禮服なりしが、此時新禮服の制出來たる故、予は先發して英國に至り使節一行の爲に新禮服を註文し英國にて國書捧呈の時は新禮服なり。今行なはるゝ文官大禮服は初め制定の時發布されたる圖式とは大に異なり、多くは予が英國にて裁縫匠と相談して定めたる處に基けり。禮服註文餘談
新制大禮服を英國にて調製する爲に、予は使節一行より先に倫敦に渡つたことは既に語りたる如し。其時劒の鍔の尖に鳳凰の頭を付ることを註文するに大に困つたが終にアヤフヤの形を圖して之を模形としたを作らしたのが今用ひらるゝ者である鳳凰とも鷄とも付かず一種妙な鳥の頭である。 -
参考文献
国賓対応
- また初めての公式国賓であった明治2年(1869年)のイギリス・ビクトリア女王の第二王子(エディンバラ公アルフレッド王子)の来日も大きかったとされる。当時の日本には外国王族をもてなすプロトコルや西洋式設備がなく、明治政府は急遽ベッドやテーブルを香港から買い付けたほか、 高級料亭の仕出し料理などで王子をもてなした。王子は満足されたということだが、英国側からは「日本が国際儀礼に通じていない」として苦情が出ることとなったという。
明治二年七月二十五日、英国皇帝第二王子エヂンバラ公アルフレッド来朝し、東京に至る、王子齢二十六、海軍大佐を以て同国軍艦ガラテア(※HMS Galatea (1859))の艦長たり、慶応三年、世界周遊の途に上れるなり、是より先四月十日、輔相三条案美、英国公使パークスに会するや、公使、実美に告ぐるに王子来朝の事を以てす、実美之れを奏す、乃ち勅を下して国賓の礼を以て王を遇せしめたまふ、仍りて浜殿延遼館を修補して其の旅館に充て、又新に領客使を置き、従二位伊達宗城、正四位大原重実を以て之れに補し、中弁中島錫胤、外務大丞町田久成を其の随使とし、外務権小丞宮本小一郎を掌客として専ら其の接伴に当らしめ、公使と協議して待遇に遺憾なきを期せしむ。
(明治天皇紀第二)エディンバラ公アルフレッド王子(アルフレート)の父、エリザベス女王の王配アルバートはザクセン=コーブルク=ゴータ家の生まれで、現在のベルギー王家(サクス=コブール=ゴータ家)のほか、ポルトガル女王マリア2世の夫フェルナンド2世(ブラガンサ=コブルゴ家)、およびブルガリアの君主も出た。エディンバラ公アルフレッド王子(アルフレート)の兄の第1王子アルバート・エドワードがエドワード7世となってイギリス王位を継ぎ、さらにジョージ5世に至ってウィンザー朝と改名、のちエリザベス2世などを出した。
このエディンバラ公アルフレッド王子(アルフレート)のいとこに当たるのが、ベルギー王レオポルド2世 で、岩倉使節団がベルギーで謁見したのはこのレオポルド2世である。延遼館は浜御殿にあった迎賓施設。幕末に浜御殿内に幕府海軍の海軍所施設として建造された石造建築物「石室」を基礎とし、明治2年(1869年)に英王子歓待のため改修工事が行われた。同年5月に落成し、7月に延遼館と命名した。、ロシアのアレクセイ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ大公皇子、アメリカのユリシーズ・グラント前大統領(第18代)、琉球王国の伊江朝直王子、ハワイ王国のカラカウア国王ら多くの国賓を迎えたが、明治22年(1889年)老朽化のため解体された。2020年の東京オリンピックの際に復元することが計画されたが、舛添要一都知事の辞任により棚上げになった。香港から輸入された貨物は、洋銀二万弗、正金でおよそ一万八千三百六十両に上った。英王子の乗ったガラテア号は、1867年1月にイギリス、プリマスを出航し、2~3月に地中海、ジブラルタルを経て4~5月にはリオ・デ・ジャネイロ、7~9月に喜望峰、10月31日には南オーストラリアグレネルグに到着。11月~翌1868年3月にかけてオーストラリア各地を巡ったあと一旦英国へと戻った。その後1868年4~5月にニュージーランド、8月31日に横浜、10月頃には香港、同年末~1870年初めにインドやセイロンを経てオーストラリア及びニュージーランド再訪を経て1871年5月19日にイギリスに帰国している。
日本へは1869年7月22日に横浜着。25日に延遼館着。28日に参朝。29日は赤坂紀州藩邸にて能狂言。8月3日に横浜帰港。11日に出帆、13日に神戸着。14日大坂、19日には長崎、22日には志那チーフーに向けて出帆している。志那チーフーは現在の中華人民共和国煙台市(山東半島の東)。各地では祝砲21発をもって迎えられ、辻々の警備には薩摩藩兵、延遼館警備には阿波藩兵・田安藩兵があてられた。この国家を挙げての大歓待は評判となり、ヴィクトリア女王、クラレンドン外相からの謝詞が贈られてきたほか明治年間の王侯貴族来朝件数は、実に63件にのぼった。
皇族の洋装化
男性
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男性の洋装化についてはかなり早くから行われ、明治4年(1871年)9月4日には「服制変革内勅」が出されている。
朕󠄂惟フニ風俗ナル者󠄁移換以テ時ノ宜シキニ隨ヒ國體ナル者󠄁不拔以テ其勢ヲ制ス今衣冠ノ制中古唐󠄁制ニ模倣セシヨリ流テ軟弱󠄁ノ風ヲナス朕󠄂太タ慨󠄁之夫レ神󠄀州ノ武ヲ以テ治ムルヤ固ヨリ久シ天子親ラ之カ元帥ト爲リ衆庶以テ其風ヲ仰ク神󠄀武創業神󠄀功征韓ノ如キ決テ今日ノ風姿󠄁ニアラス豈一日モ軟弱󠄁以テ天下ニ示ス可ケンヤ朕󠄂今斷然其服󠄁制ヲ更󠄁メ其風俗ヲ一新シ祖󠄁宗以來尙武ノ國體ヲ立ント欲ス汝近󠄁臣其レ朕󠄂カ意󠄁ヲ體セヨ
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ついで明治5年(1872年)11月12日には太政官布告第339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)が発出され、文官と非役有位者の大礼服を含む服制が規定された。また同年11月29日太政官布告第373号 (大礼服及通常礼服著用日ノ件) で着用規定が定められている。
大礼服並上下一般通常礼服ヲ定メ、衣冠ヲ祭服トナシ、直垂、直衣、裃等ヲ廃ス
(太政官布告第339号) -
さらに明治6年(1873年)2月22日の太政官布告第64号により、皇族大礼服制が定められた。
女性
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明治15年(1882年)3月から翌明治16年(1883年)8月にかけて、憲法調査のため欧州を視察した伊藤は、帰国後の明治17年(1884年)3月制度取調局長官に就任し、宮内卿を兼任する。
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その後、駐独公使であった青木周蔵に依頼して現地で洋装を購入させて日本へ送らせている。
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並行して明治17年(1884年)からは宮廷内での正装を段階的に洋装へと改めており、明治19年(1886年)6月23日には皇族・大臣・勅任官・有爵者などの洋服を定める
婦人服制ニ關スル大臣ノ達
去ル十七年中婦人服制ノ儀ニ付キ宮内卿ヨリ其ノ向ヘ内達ノ趣モ之アリシカ自今ハ場合ニヨリ 皇后宮ニ於テモ西洋服装御用可被遊ニ付キ皇族大臣以下各夫人ハ朝儀ヲ始メ礼式相當ノ西洋服装随意ニ御用フヘキ旨ヲ去ル二十三日伊藤宮内大臣ヨリ皇族并ニ大臣勅任官有爵者麝香間祗候等ヘ通達セラレタリ
(宮廷錄事) -
この後、皇后(昭憲皇太后)の行啓が洋装で行われることが続き、明治20年(1887年)1月1日の新年拝賀の儀式で洋装を選択したことが驚きとともに伝えられ、華族を中心に洋装が広まっていく契機となった。
皇后初めて洋装大礼服を召し、拝賀を受けたまふ、
昭憲皇太后のドレスは、ゆかりのある各地の神社仏閣・服飾関係の学校法人に保存されている。明治神宮ミュージアム2点、杉野学園衣裳博物館1点、文化学園服飾博物館2点、善光寺大本願3点、曇華院門跡1点、大本山誕生寺(鴨川市)1点、長福寺1点。
アクセサリ調達
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このような中、伊藤は明治18年(1885年)に当時ドイツ公使であり、ドイツ貴族の娘を妻としていた青木周蔵に対し、金剛石入婦人装飾具の購入を依頼している。
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青木は、同年10月にベルリンの宝石商レオンハルト&フィーゲル社(Leonhardt & Fiegel)より購入したことが記録に残る。10月25日マルセイユからフランス郵船にて帰朝し、同年末に日本へと持ち込まれた。
皇后宮御冠 我皇室より独逸國伯林府御用金工師レオンハード及びフィーゲルの二氏に命じて製造せしめられたる 皇后宮の王冠を始め御装飾具の模様を仄に承いるに其代價は数万圓にして王冠はブリヽヤント形の金剛石六十個を以て作り奉り頂に九星あり其中心に在る一個は重さ二十一カラツトなるよし但し其九星の金剛石は取外し自由にて(後略)
(東京日日新聞)最近素晴らしい、宝冠一つ、金剛石のネクレス一つ、そして日本の皇后の為のいくつかのものが作られた。日本の皇后に選ばれたことは、ドイツ、特にベルリンの技術の誇りになる。約600個のダイヤモンド、上には9つの特別なダイヤモンド(Solitaire)、中央ダイヤモンドは21カラットで、それだけで20,000マルクの値段である。9つの(Solitaire)は特別な技術でつけられて、簡単に外すことができ、9つのダイヤモンドの星に換えることが可能である。その星を宝冠に使わない時に、髪飾りやブローチのようなものとしても使うことができる。ネックレスは約140個のダイヤモンドからなり、それは素晴らしい雰囲気で、なぜならばそれ自体が輝いていて、大きいからだ。ダイヤモンドを選ぶことはとても大変だった。ネクレスそのものをばらすことは可能で、そうすると三つの小さなネクレスになる。腕輪にはダイヤモンドはないが、高級な金が使われており、ローマ帝国時代のモチーフがみられる。とてもシンプルで魅力的である。ダイヤモンドを使うことは、日本の皇后が初めて依頼した。このことをきっかけとして、今後も近々素晴らしい注文がわれわれドイツの金工業へあるだろう。
(テルトー地域新聞(Teltower Kreisblatt))この宝石商レオンハルト&フィーゲル社は、オスカー・レオンハルト(Oskar Leonhardt)とミヒャエル・フィーゲル(Michael Fiegel)が経営するベルリンの帝室金工・宝飾店で、当時ベルリンのブラウハウス通り(Brauhaus-Strasse)1番地で、シュパンダウアー通りの端(Ecke der Spandauer-Str.)にあったという。現在はKarl-Liebknecht-StraßeとSpandauer-Straßeが交差するところだという。青木周蔵の後妻はエリザベート・フォン・ラーデ(Elisabeth von Rhade)。明治11年(1878年)頃結婚。明治15年(1882年)には渡欧中の伊藤をサポートしている。明治19年(1886年)第一次伊藤内閣の井上馨外務大臣の外務次官。第一次山縣内閣、第一次松方内閣で外務大臣。大津事件で伊藤・井上の不興を買ってしまい、明治25年(1892年)駐独公使、後任外相に陸奥宗光。のち駐英公使。ライファーシャイト伯爵・シニア ナイベルク伯爵 ├────ライファーシャイト伯爵・ジュニア トラッヘンベルヒ伯爵 ├────ナタリー エリザベート ├────ヒサ ├────ハナ 三浦玄仲──青木周蔵(三浦團七) │ ┌青木研藏──青木テル ┴青木周弼 ※エリザベート:エリザベート・フォン・ラーデ(Elisabeth von Rhade) ※トラッヘンベルヒ伯爵:アレキサンドル・フォン・ハッツフェルド・トラッヘンベルヒ伯爵 ※ナイベルク伯爵:エルウィン・フォン・ナイベルク伯爵 ※ライファーシャイト伯爵・シニア:ニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵・シニア ※ライファーシャイト伯爵・ジュニア:ニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵・ジュニア
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元の宝石商レオンハルト&フィーゲル社(Leonhardt & Fiegel)があった位置。
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移転後の宝石商レオンハルト&フィーゲル社(Leonhardt & Fiegel)があった位置。
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しかし一方で明治天皇ご自身が洋装に反対しており、伊藤や香川敬三はその対応に苦慮していた。しかし伊藤の妻・梅子が洋服を着用しての参内をするなど、徐々に皇后もご興味を抱かれ、明治19年(1886年)6月23日には天皇の許可により婦人服制についての通達が出されることになり、翌年正月1日には皇后が洋装をして出御することとなった。ここで再び伊藤からドイツに居る青木に大礼服の発注が命じられた。
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こうして明治20年(1887年)正月1日の新年朝拝式に、皇后(昭憲皇太后)は初めて洋装で臨むこととなった。
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その後、皇室女性の洋装は、ベルリンのゲルソンやフランスのチャールズ・フレデリック・ワースにも発注されている。
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これらの服飾品は、明治天皇から皇后(昭憲皇太后)へのお貸し下げという形で利用され、その後も代々天皇が皇后に対してお貸し下げという形式をとっている。
- これらは、「御物調書」に記される「御由緒物」に含まれ、代々皇位とともに継承されてきた。「御由緒物#皇后陛下御正装の装身具類」参照
参考文献
- 「昭憲皇后の大礼服発注をめぐる対独外交」 柗居宏枝(人間文化創成科学論叢 第18巻 2015年)
- 「明治宮廷外交の沿革 : 明治二年の英国王子来朝を起点として」 内山正熊 (「法学研究」慶応義塾大学法学研究会 編 50(12) 1977.12)
所有者
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この昭憲皇太后の洋装として調達された装飾品が、現在の御物調書に「A型」として載る装身具類である。※「B型(菊型)」については貞明皇后のものとして国内で調製されたものとされる。
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明治33年(1900年)に作成された「皇后陛下御世襲御装飾品目録」には既に「御世襲御装飾品」となっていることがわかる。
皇后陛下御世襲御装飾品目録
一、金剛石及金剛石星九個 添御冠
一、金剛石三條御頸飾
一、真珠四條御頸飾
一、金剛石及黑真珠入御腕輪
一、金剛石御腕輪
一、金剛石及サハヤヱメラルト入御腕輪
一、金剛石及真珠六個入御胸飾
一、金剛石及サハヤ入半月形御胸飾 -
いわゆる「御物調書」に載るアクセサリについては皇位とともに天皇に受け継がれ、皇后へとお貸し下げという形で皇后が着用する。
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また成年女性皇族の成年時に製作されるアクセサリについては、宮廷費から拠出され、皇籍離脱時に国庫に返却されて宮内庁管理となる。
A型・B型
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御由緒物の「皇后陛下御正装の装身具類」は、A型、B型の2つに分類されている。
※現在のマスコミにおいて、「第一ティアラ」「第二ティアラ」などと書かれるのは俗称であり、皇室及び宮内庁ではA型・B型が正式名称となっている。上皇后である美智子妃は、平成10年(1998年)のイギリスおよびデンマーク訪問時、平成12年(2000年)のスウェーデンやオランダ訪問時の晩餐会で第二ティアラを着用していた。
また現皇后雅子妃は、「即位後朝見の儀」、「饗宴の儀」、即位の祝賀パレード、新年祝賀など即位に伴う儀式では第一ティアラを着用している。しかし令和6年(2024年)6月にイギリスに国賓として訪問した際には晩餐会で第二ティアラを着用している。 -
ただし、「御物調書」に注記されるように、必ずA型、B型のセット一式で用いられるのではなく、行事の種類、場所、時刻等によって、A型、B型又は附属品と交換して使用されることになっている。
例えば現皇后雅子妃は、即位の儀の後に行われた饗宴の儀のイヤリングとして第二ティアラとセットの菊のイヤリングを着用していた。 -
なおこの「皇后陛下御正装の装身具類」は、他の皇室アクセサリ類とは異なり「御物調書」に記載されている。これはこれらの装身具類の所持者が天皇であり、三種の神器などと同様に皇位とともに伝わるべき「御由緒物」であることを示している。
※「その他のアクセサリに記す他の装身具類は国有財産(宮内庁管理)であり、皇籍離脱時に返還される。
A型
- 御冠(ダイヤ) :A型
「第一ティアラ」
・ブリリアント型のダイヤモンド60個を使用。中央には21カラットのダイヤモンドが使用されている。
・9つの星を戴くデザインで、星はそれぞれ取り外した上で、髪飾りとしても利用できる。
・昭憲皇后以降、香淳皇后、上皇后美智子、皇后雅子と、代々の皇后に継承されてきた。昭和度の即位礼までは9個の星形ダイヤを装着した状態での着用がされていたが、その後平成度の即位礼以降は外した状態での着用となっている。 - 御頸飾(ダイヤ三条):A型
- 御胸飾(ダイヤ):A型
- 御襟止(真珠、ダイヤ、円型):A型
- 御襟止(エメラルド、大、中鳳凰型):A型
- 御腕輪(黄色ダイヤ):A型
- 御腕輪(ダイヤ):A型
- 御耳飾(ダイヤ):A型
- 御指輪(サファイアダイヤ囲み):A型
- 御指輪(エメラルドダイヤ囲み):A型
- 御扇子(レース張りダイヤ、白ベッコウ骨):A型
- 第一ティアラ着用歴
- 香淳皇后:昭和50年(1975年)ワシントンの晩餐会
B型
- 御冠(菊型) :B型
「第二ティアラ」
・大正天皇の即位にちなみ、大正4年(1915年)4月に貞明皇后のための公式用胸飾の製作が御木本真珠店(現・ミキモト)に依頼された。その2年後におなじモチーフの御冠(菊型)が製作された。この後者の「御冠(菊型)」が、現在「第二ティアラ」と呼ばれるものである。(大正6年)皇后陛下(貞明皇后)の第二公式用ティアラ製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 御頸飾(真珠4条):B型
- 御襟止(菊型大1、小2):B型
- 御襟止(黒真珠、ダイヤ、菊型):B型
- 御腕輪(エメラルド、ダイヤ、菊型):B型
- 御耳飾(菊型):B型
- 御指輪(ダイヤ2ヶ、S字型):B型
- 御指輪(サファイア、ダイヤ):B型
- 御手さげ(金網製):B型
- 第二ティアラ着用歴
- 皇后陛下:2024年ロンドンのバッキンガム宮殿で開かれたチャールズ国王夫妻主催の晩餐会
第三ティアラ
- いわゆる雍仁親王妃勢津子との婚儀の際に調製されたもの。「パルメットのティアラ」とも呼ばれる。下記参照。
- 第三ティアラ着用歴
- 上皇后陛下:2005年ノルウェーの王宮晩餐会
- 上皇后陛下:2007年スウェーデン・ウプサラ城(Uppsala Castle)で行われたリンネ祝賀全国委員会委員長主催晩餐会(ウプサラ城) – 宮内庁
- 皇后陛下:2026年6月オランダ、国王夫妻が主催する 晩餐会
その他のアクセサリ
- この後もアクセサリは皇族の結婚の儀、行事、女性皇族の成年式などに向けて調製(製作)されている。
- ※以下、煩瑣を避けるため敬称・尊称を省きます。
- ※歴史的人物以外の担当者名などは引用文中省略しています。
- 大正4年(1915年):大正天皇の即位にちなみ、貞明皇后のための公式用胸飾の製作が御木本真珠店(現・ミキモト)に依頼された。
(大正4年)皇后陛下(貞明皇后)の公式用胸飾の製作ご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 大正12年(1923年):皇太子裕仁親王(昭和天皇)と久邇宮邦彦王の第1王女子、良子女王(香淳皇后)の結婚の儀に向けて製作された宝飾品。御木本真珠店(現・ミキモト)による。
皇太子殿下(昭和天皇)ご婚儀に際しティアラ、胸飾製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史)(大正12年12月)皇太子殿下(昭和天皇)ご婚儀に際し妃殿下(現・皇太后陛下)用ティアラ、胸飾調製
※注:昭和天皇及び香淳皇后
(ミキモト装身具略史) - 昭和3年(1928年):秩父宮雍仁親王と松平勢津子(雍仁親王妃勢津子)の結婚の儀のために製作されたもの。のち皇后美智子(現、上皇后美智子)へ受け継がれた。
「第三ティアラ」、「パルメットのティアラ」とも呼ばれる。
秩父宮殿下ご婚儀に際し妃殿下用ティアラ、胸飾製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史)なお勢津子妃の出生名は松平節子(※せつこ)であったが、貞明皇后(九条節子(※さだこ))と同字になるため、皇室ゆかりの伊勢と会津松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の勢津子に改めた。 - 昭和5年(1930年):高松宮宣仁親王と徳川喜久子(宣仁親王妃喜久子)の結婚の儀に向けて製作された宝飾品。
高松宮殿下ご婚儀に際し妃殿下用のティアラ、胸飾調製
(ミキモト装身具略史) - 昭和11年(1936年):イギリス国王ジョージ6世の戴冠式に天皇名代として参列する秩父宮雍仁親王及び勢津子妃のために製作。
秩父宮・同妃両殿下英国戴冠試ご出席に際しティアラ、胸飾製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史)秩父宮殿下ご夫妻、英国皇帝ジョージ六世即位戴冠式参列に当りティアラ、ペンダント兼ブローチ等を調製
(株式会社ミキモト略史) - 昭和16年(1941年):三笠宮崇仁親王と高木百合子(崇仁親王妃百合子)の結婚の儀に向けて同年10月に製作された宝飾品。
三笠宮殿下ご婚儀に際し妃殿下用ティアラのほかご用品製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史)三笠宮殿下ご婚儀に際し妃殿下用のティアラ、胸飾調製
(ミキモト装身具略史) - 昭和25年(1950年):昭和天皇第3皇女、孝宮和子内親王(鷹司和子)と鷹司平通の結婚の儀に向けて製作された宝飾品。
孝宮和子内親王殿下ご婚儀ご用品調製
(ミキモト装身具略史) - 昭和27年(1952年):昭和天皇第4皇女、順宮厚子内親王(池田厚子)と池田隆政の結婚の儀に向けて製作された宝飾品。
順宮厚子内親王殿下ご婚儀に際しご用品製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 昭和34年(1959年):繼宮 明仁親王(第125代天皇、上皇陛下)と正田美智子(上皇后陛下)の結婚の儀に向けて同年4月に製作された宝飾品。
皇太子殿下(現・天皇陛下)ご婚儀に際し妃殿下(現・皇后陛下)用ティアラ、胸飾他調製
※注:現上皇陛下及び現上皇后陛下
(ミキモト装身具略史) - 昭和35年(1960年):昭和天皇第5皇女、清宮貴子内親王(島津貴子)と島津久永の結婚の儀に向けて同年3月に製作された宝飾品。
清宮貴子内親王殿下ご婚儀に際しご用品製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 昭和35年(1960年):皇太子明仁親王(現、上皇陛下)及び同妃(現、上皇后陛下)が日米修好100周年記念で訪米する際に、宝飾品を製作。
「皇太子妃第二ティアラ」
皇太子殿下(現・天皇陛下)ご夫妻日米修好百年ご訪米に当り第二公式用のティアラ、兼用帯留、胸飾他を調製
※注:現上皇陛下及び現上皇后陛下
(ミキモト装身具略史) - 昭和39年(1964年):昭和天皇第2皇男子、義宮正仁親王(常陸宮正仁親王)と津軽華子(正仁親王妃華子)の結婚の儀に向けて同年9月に製作された宝飾品。
義宮正仁親王殿下(常陸宮)ご婚儀に際し妃殿下用ティアラ、胸飾製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 昭和46年(1971年):昭和天皇と皇后の初の欧州訪問に向け、同年9月に製作された宝飾品。
天皇(昭和天皇)、皇后(現・皇太后)両陛下ご渡欧に際し胸飾ほか製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 昭和55年(1980年):三笠宮崇仁親王の第1男子、寛仁親王と麻生信子(寛仁親王妃信子)の結婚の儀に向けて同年11月に製作された宝飾品。
三笠宮寛仁親王殿下ご婚儀に際し妃殿下用ティアラ、胸飾ほか製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 昭和59年(1984年):三笠宮崇仁親王の第3男子、憲仁親王(高円宮)と鳥取久子(憲仁親王妃久子)の結婚の儀に向けて同年12月に製作された宝飾品。
三笠宮憲仁親王殿下(高円宮)ご婚儀に際し妃殿下用ティアラ・胸飾製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 昭和63年(1988年):紀宮清子内親王(黒田清子)と黒田慶樹の結婚の儀に向けて製作された宝飾品。
紀宮清子内親王殿下ティアラ、胸飾調製
(ミキモト装身具略史)なお清子内親王のティアラについては、昭和天皇崩御後の服喪期間中ということもあり、公的な経費である宮廷費ではなく「御手元金」と呼ばれる内廷費で製作された。このため皇籍を離れた結婚後の現在も、黒田清子さんの所有となっている。 - 平成2年(1990年):文仁親王(秋篠宮)と川嶋紀子(文仁親王妃紀子)の結婚の儀に向けて同年6月に製作された宝飾品。
礼宮文仁親王殿下(秋篠宮)ご婚儀に際し妃殿下用ティアラ、胸飾ほか製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 平成5年(1993年):皇太子徳仁親王(今上天皇)と小和田雅子(皇后)の結婚の儀に向けて同年6月に製作された宝飾品。
皇太子殿下ご婚儀に際し妃殿下ご用品製作のご用命を拝受
(株式会社ミキモト略史) - 平成13年(2001年):三笠宮彬子女王の成年式のため。
これ以降、成人を迎える女性皇族のティアラは公費である宮廷費で製作されるようになった。 - 平成15年(2003年):三笠宮瑶子女王の成年式のため。和光とミキモトの競争入札。
※この時から指名競争入札に変更されている。 - 平成18年(2006年):高円宮承子女王の成年式のため。
- 平成20年(2008年):高円宮典子女王の成年式のため。ミキモト、15,225,000円。
※平成26年(2014年)の出雲大社禰宜(当時)千家国麿との結婚に伴う皇籍離脱後は、宮内庁管理。◎調達機関番号 008 ◎所在地番号 13
1 調達内容
(1) 品目分類番号 26
(2) 調達物品及び数量 ティアラ等(5点) 一式
(3) 調達物品の特質等 入札説明書及び仕様書による。
(4) 納入期限 平成20年3月31日
(5) 納入場所 支出負担行為担当官の指定する場所。
(6) 入札方法 落札決定にあたっては,入札書に記載された金額に当該金額の5パーセントに相当する額を加算した金額をもって落札価格とするので,入札者は,消費税及び地方消費税に係る課税事業者であるか免税事業者であるかを問わず,見積もった契約金額の105分の100に相当する金額を入札書に記載すること。
平成19年6月11日 入札公示:ティアラ等(5点) 一式
次のとおり落札者等について公示します。
平成19年8月21日
◎調達機関番号 008 ◎所在地番号 13
①26 ②ティアラ等(5点) 一式 ③購入等 ④指名 ⑤19.7.31 ⑥株式会社ミキモト(東京都
中央区銀座4―5―5) ⑦15,225,000円 ⑧19.6.11 ⑩株式会社ミキモト,株式会社和光 ⑪最低価格
平成19年8月21日 落札者等の公示 - 平成22年(2010年):高円宮絢子女王の成年式のため。ミキモト、14,857,500円。
※平成30年(2018年)の守谷慧との結婚に伴う皇籍離脱後は、宮内庁管理。
次のとおり指名競争入札に付します。
平成21年6月11日
◎調達機関番号 008 ◎所在地番号 13
1 調達内容
(1)品目分類番号 26
(2)調達物品及び数量 ティアラ等(5点) 一式
(3)調達物品の特質等 入札説明書及び仕様書による。
(4)納入期限 平成22年3月31日
(5)納入場所 支出負担行為担当官の指定する場所。
(6)入札方法 落札決定にあたっては,入札書に記載された金額に当該金額の5パーセントに相当する額を加算した金額をもって落札価格とするので,入札者は,消費税及び地方消費税に係る課税事業者であるか免税事業者であるかを問わず,見積もった契約金額の105分の100に相当する金額を入札書に記載すること。
平成21年6月11日 入札公示次のとおり落札者等について公示します。
平成21年9月11日
◎調達機関番号 008 ◎所在地番号 13
①26 ②ティアラ等(5点) 一式 ③購入等 ④指名 ⑤21.7.31 ⑥株式会社ミキモト(東京都
中央区銀座4-5-5) ⑦14,857,500円 ⑧21.6.11 ⑩株式会社ミキモト,株式会社和光
⑪最低価格
平成21年9月11日 落札者等の公示 - 平成23年(2011年):秋篠宮眞子内親王の成年式のため。和光とミキモトが応札、和光がティアラなど宝飾品一式を28,560,000円で製作した。
次のとおり指名競争入札に付します。
平成22年5月11日
◎調達機関番号 008 ◎所在地番号 13
1 調達内容
(1)品目分類番号 26
(2)調達物品及び数量 ティアラ等(5点) 一式
(3)調達物品の特質等 入札説明書及び仕様書による。
(4)納入期限 平成23年3月31日
(5)納入場所 支出負担行為担当官の指定する場所。
(6)入札方法 落札決定にあたっては,入札書に記載された金額に当該金額の5パーセントに相当する額を加算した金額をもって落札価格とするので,入札者は,消費税及び地方消費税に係る課税事業者であるか免税事業者であるかを問わず,見積もった契約金額の105分の100に相当する金額を入札書に記載すること。
2 競争参加資格
(1)予算決算及び会計令第70条の規定に該当しない者であること。但し,未成年者,被保佐人又は被補助人であって,契約締結のために必要な同意を得ている者については,この限りではない。
(2)予算決算及び会計令第71条の規定に該当しない者であること。
(3)平成22・23・24年度,内閣府競争参加資格(全省庁統一資格)「物品の製造」又は「物品の販売」のA,B又はCの等級に格付けされ,関東・甲信越地域の競争参加資格を有する者であって,指名の通知を受けた者であること。
(4)宮内庁における物品等の契約に係る指名停止等措置要領に基づく指名停止を受けている期間中でないこと。
3 指名されるために必要な要件
(1)本公示に示した業務を確実に履行し得る事を証明できる者。
(2)著しい経営状況の悪化及び信用度の低下がないと認められる者。
(3)当該調達物品又はこれと同様の物品を製造及び納入した実績を複数証明できる者。
(4)当該調達物品に係るアフターサービス等について,長期にわたり適正かつ迅速に供給できる体制が整備されていることを証明できる者。
4 契約条項を示す場所,入札説明書の交付日時,入札説明会会場及び問い合わせ先
(1)契約条項を示す場所 〒100-8111 東京都千代田区千代田1番1号 宮内庁
(2)入札説明書の交付及び説明会日時 平成22年5月25日 午前10時
(3)入札説明会会場 宮内庁庁舎2階第2会議室
(4)問い合わせ先
5 入札書受領期限
平成22年6月29日 午後5時
6 開札の日時及び場所
平成22年6月30日 午前10時 宮内庁庁舎2階第2会議室
平成22年5月11日 入札公示次のとおり落札者等について公示します。
平成22年7月21日
◎調達機関番号 008 ◎所在地番号 13
①26 ②ティアラ等(5点)一式 ③購入等 ④指名 ⑤22.6.30 ⑥株式会社和光(東京都中央区銀座4-5-11)
⑦28,560,000円 ⑧22.5.11 ⑩株式会社ミキモト,株式会社和光 ⑪最低価格
平成22年7月21日 落札者等の公示契約件名:ティアラ等の製造 一式
契約相手方:株式会社和光
契約金額:28,560,000円
契約締結日:平成22年6月30日ティアラ等の製造 一式(最低価格落札方式)
【契約の概要】
平成23年10月23日に御成年に達せられる眞子内親王殿下の御活動に必要な宝飾品を製造するもの。
従前は、(株)ミキモトのみ製造可能であったため同社と随意契約を締結していたが、調査の結果、(株)和光でも製造可能ということが判明したので、それ以降、2者の指名競争入札としている。現時点において、2者以外から、指名されるために必要な要件を具備している旨の申し出は受けていない。限られた期間内に、これだけの品を一度に製造するのは、他社では困難なようである。 - 平成26年(2014年):秋篠宮佳子内親王の成年式のため。19社が応募し5社が選抜された。5社がデザイン案を提出して応札し、2013年6月にミキモトが27,930,000円で落札。ティアラ、イヤリング、ネックレス、勲章留めブローチ、ブレスレットの5点。
※この時から企画競争公示となり、金額に加えてデザインなどを合わせて提示する形式へと変更された。選考は宮田亮平(東京芸術大学長)、高階秀爾(大原美術館長)、横溝廣子の専門家及び宮内庁職員。※宮廷費のため、秋篠宮家及び本人は入札(デザイン等含む)に関与していないとのこと。なお一部報道などで見られる「2890万円」は当初予算額。次のとおり企画競争に付します。
平成25年5月13日
1 調達概要
(1)件名:ティアラ等の製造
(2)品目及び数量:当庁仕様書のとおり。
(3)仕様及び規格等:当庁仕様書のとおり。
(4)納入期限:平成26年3月31日
(5)納入場所:支出負担行為担当官の指定する場所
2 競争参加資格
(1)予算決算及び会計令(昭和22年勅令第165号(以下「予決令」という。))第70条の規定に該当しない者であること。ただし,未成年者,被保佐人又は被補助人であって,契約締結のために必要な同意を得ている者については,この限りではない。
(2)予決令第71条の規定に該当しない者であること。
(3)平成25・26・27年度内閣府競争参加資格(全省庁統一資格)「物品の製造」又は「物品の販売」のA,B又はCの等級に格付けされ関東・甲信越地域の競争参加資格を有する者であること。
(4)宮内庁における物品製造契約等に係る指名停止等措置要領に基づく指名停止を受けている期間中でないこと。
(5)本公告に示した業務を確実に履行し得る事を証明できる者。
(6)企画競争説明書の交付を受けた者であること。
平成25年5月13日 企画競争公告:ティアラ等の製造次のとおり随意契約について公示します。
平成25年6月26日
◎調達機関番号 008 ◎所在地番号 13
1 調達内容
(1)品目分類番号 26
(2)ティアラ等の製造 一式
2 随意契約の予定日 平成25年7月17日
3 随意契約によることとする「政府調達に関する協定」の規定上の理由 b「排他的権利の保護」
4 随意契約を予定している相手方の名称
株式会社ミキモト
平成25年6月26日 随意契約公示次のとおり落札者等について公示します。
平成25年8月1日
◎調達機関番号 008 ◎所在地番号 13
①26 ②ティアラ等の製造 一式 ③購入等 ④随意 ⑤25.7.17 ⑥株式会社ミキモト(東京都中央区銀座4-5-5)
⑦27,930,000円 ⑧25.6.26 ⑨b「排他的権利の保護」 ⑫27,930,000円
平成25年8月1日 落札者等の公示 - 令和3年(2021年):愛子内親王の成年式のため。
この時、新型コロナウィルス感染症の広まりを鑑み、宮内庁では予算計上を見送った。その後2021年11月には、上皇陛下の娘であられる黒田清子さんの所有するティアラを借用されることが発表された。※上記経緯により、清子内親王の成人の際には内廷費で製作されたため、皇籍離脱後も黒田清子さんの所有物となっている。その後も2026年予算まで継続して制作を辞退されている。
現在の宮内庁管理品
- 2021年現在、宮内庁が管理している国有財産としてのティアラは、次の通りとなっている。
- 故秩父宮妃節子様ならびに故高松宮妃喜久子様より国に寄贈されたもの:5点喜久子さまは、生前「皇太子妃雅子さまと秋篠宮妃紀子さまに使ってほしい」と話されていたという。
- 千家典子さん(高円宮典子女王)、ならびに守屋綾子さん(高円宮絢子女王)が皇籍を離脱する際に返却されたもの:2点
- なおこれ以外に皇族方が私費で製作されたものなどについては宮内庁は関知していないという。
参考文献
| 名称 | 対象 | 主な使途 | |
|---|---|---|---|
| 皇室費 | 内廷費+皇族費+宮廷費 | ||
| 内廷費 御手元金 | 天皇及び内廷皇族 皇后・皇太子・雅子妃・愛子内親王 | ||
| 皇族費 御手元金 | 内廷皇族以外の宮家 秋篠宮家・常陸宮家・三笠宮家・高円宮家 | ※皇籍離脱時の一時金も含む | |
| 宮廷費 公金(宮内庁管理) | ※皇室の公的活動等に必要な経費 | 儀式、国賓・公賓等の接遇、行幸啓、外国訪問など | |
| 宮内庁費 | ※宮内庁の人件費、事務費 | ||
・これ以外に「即位の礼」などの即位費用は内閣府(総理府)予算をもって充てられるが、大嘗祭は宮廷費が充てられる。ただし毎年11月に行われる新嘗祭については内廷費が充てられている。