名刀幻想辞典

町田久成

町田久成(まちだ ひさなり)

明治時代の日本の官僚、僧侶
旧薩摩藩士(島津氏庶流)
通称民部 号石谷道人(せっこく-)

  • 旧薩摩藩士(島津氏庶流)。
  • 慶応元年(1865年)にイギリスへ留学。東京帝室博物館(後の東京国立博物館)の初代館長となる。

生まれ

  • 町田家は薩摩島津家庶流で、日置郡伊集院郷石谷村の領主。

  • 町田久長(伊集院郷石谷領主)と母(汲、吉利郷領主小松清穆の長女)の長男として鹿児島城下千石馬場通りの町田屋敷にて出生。薩摩藩家老小松帯刀の妻の近(千賀)が、町田久成の叔母にあたる。

             町田久長  町田実種(小松清緝)
               ├───┴町田久成
    島津久儔小松清穆─┬汲     ├──町田秀麿
              清猷 ┌─壽美?
              ━━│━小松清直
               ├──┘
        肝付兼善小松帯刀清廉小松清緝
               ├────小松清直──┬小松帯刀
               琴          小松重春━━従志(西郷従道7男)
  • 19歳の時、昌平坂学問所で学び、薩摩藩で御小姓組番頭を経て大目付となる。

  • 安政6年(1859年)、江戸就学を終え薩摩へ帰郷。御小姓組番頭となる。

  • 文久3年(1863年)、大目付に取り立てられる。「薩英戦争」に本陣警護隊長として参戦。部下に東郷平八郎。

  • 文久4年(1864年)「薩摩藩開成所」設立に参加。小松帯刀(家老)、町田久成(大目付・学頭)、大久保一蔵(側役)連名による。

  • 同年、「禁門の変(京都)」に六郷隊(兵士約600人)の隊長として参戦。

英国留学

  • 禁門の変の後、元治2年(1865年)28歳時に、五代友厚の建言に依るところの薩摩藩英国留学生15名を率いて英国留学している。

    • 監督新納久脩、学頭町田久成、五代友厚と寺島宗則に同行が命じられた。出国時の町田の変名は「上野良太郎」。町田家は弟の町田実積、町田清次郎(のち財部実行と改名)と3名が参加。※元治2年4月7日に慶応改元

    • 元治2年(1865年)3月22日羽島港を密航出国。長崎のグラバー所有の汽船オースタライエン号。香港で大型客船に乗り換え、マラッカ海峡からスリランカ、ゴール。インドのボンベイ(現ムンバイ)でベーナールス号に乗り換え、オスマン領スエズ上陸(スエズ運河は工事中)。アレクサンドリアまで蒸気車。そこで蒸気帆船デルヒ号に乗り換えて5月28日にイギリス、サザンプトン(サウサンプトン)到着。汽車でロンドンに向かい同日午後8時すぎに中央停車場着。

      先度ゴール(※スリランカ)より申し越し候通り、飛脚船乗り合い多く、此の方人数はボンへー(※ボンベイ)へ相廻り候筈にて、同所四月廿四日出船の処、ボンへーへ同廿八日着、則日飛脚船乗り替え一日滞船にて、同晦日同所出帆、テーデン(※イエメンのアデン)へ五月七日着、一夜滞船石炭積み入れ、翌八日同所出帆、シュイス(※スエズ)へ同十五日昼時分着、則夜蒸気車にてアレキサンデリヤ(※アレクサンドリア)へ発車の処、同十六日昼着、直ちに飛脚船へ乗り込み則日出帆、同十九日モルタ(※マルタ島)へ入港、石炭積み入れ則夜出船、デブラルタ(※ジブラルタル)へ同廿三日夕着、一時計り滞船直ちに出帆の処、昨廿八日未明ソーツェムブリン(※サウサンプトン)へ着船、夕七ツ半時蒸気車の手当て相整い発車の処、則夜五ツ時分ロントン客舎へ着、一統異儀滞りなく罷り在り候。余事申し越したく候得共、着涯つきぎわ大混雑に付き、英着の一左右いっそう迄此の段申し越し候。以上。
           丑五月十九日     石垣鋭之助(※新納刑部久脩)
                      上野良太郎(※町田久成)
        大久保一蔵殿(※大久保利通)
        蓑田伝兵衛殿(※蓑田長胤)
        大嶋吉之助殿(※西郷隆盛)
      (西郷隆盛全集)

      比日ひじつ(※毎日)出版する新聞紙上に見る処の形勢既に諸藩大坂会議ありて一橋の曰う、今將軍の任たる我の器にあらず故に、諸侯の内其の任に当る者其の職に昇るべきなりと、しかし誰も一橋に向いて答える者なりし故、然らば、我其の職を奉ずべしとて国政の儀は一橋へ御専任あるべきや否か奏上せし由相見え申し候。既に昨夕の新聞に既に外国ミニストル等を大坂へ招き何か議するの旨も相見得候処ヲリハント(※ローレンス・オリファント)英院劣位府中にある者、松木より御聞をこれ有りたる筈也。右等の事情を見、大いに相敷き今日日本にある有志の君侯へ外夷さえ決すべからざる皇国の為肝要なる事件共相認め急々差し送る様の儀共承り右の一封差し上げ申し候間、君前(※12代島津忠義)へ御伝え下されたく願い上げ奉り候。尤も原文のまま故翻訳書相添え差し上げたく候得共、飛船の期限に相当り暇を得申さず何れ翻訳の儀は御地において御下げの上在らせられ出来申し候儀故、其の儘差し上げ申し候間、然るべき様御披露願い奉り候。何も差し急ぎ候事故ことゆえ、略書斯くの如くに御座候。謹言。
           西洋三月十七日     上野良太郎
        大久保一蔵様
        西郷吉之助様
      (西郷隆盛全集)

      前者の手紙はロンドンについた時点での旅程報告書。なお西郷は、寺田屋騒動以後に島津久光より「大島吉之助」に改名させられ徳之島へ遠島処分となっていた。この手紙当時はすでに西郷吉之助へと戻っているのだが町田久成はまだ知らない。
       いっぽう後者は、慶応3年(1867年)新暦3月17日発の帰国3か月前の報告書で、当地の新聞で述べられている内容および、かつて在日本英国公使館の一等書記官として日本滞在経験もあるローレンス・オリファント(手紙当時は英国議会下院議員)から受け取った日本の兵庫開港などに対する意見書をそのまま英文にて西郷らに同封送付している。この報告書は当時の薩摩藩首脳ら、ひいては明治維新の進行に大きな影響を与えたとされる。いずれも、「西郷隆盛全集 第5巻」大和書房、1979年より。
      当時の国内状況:
      【薩摩藩】文久2年(1862年)に生麦事件から翌年の薩英戦争で、藩論の対外国方針が一変したあと。坂本龍馬の仲介で近衛家別邸御花畑屋敷で薩長同盟締結成るのは慶応2年(1866年)1月21日。
      【長州藩】薩会連携により文久3年(1863年)の八月十八日の政変が起き、文久4年(1864年)の禁門の変で勢力を失いつつある頃。元治元年(1864年)には第一次長州征討を受けている
      【幕府】元治2年(1865年)2月酒井忠績が大老に就任、3月には天狗党の乱発生、4月慶応改元、5月慶応元年遣仏使節団出発。八月十八日の政変後、会津松平容保・薩摩島津久光・福井松平春嶽・宇和島伊達宗城・一橋慶喜・土佐山内容堂の各藩主らが朝廷参預に任命され雄藩による国政参画が実現するも、横浜鎖港をめぐって対立して元治元年(1864年)2月に山内が帰国、3月には残る全員が辞表を提出してあっけなく瓦解する。一橋慶喜は将軍後見職を辞し、代わって新設された禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就任した。いったん京都守護職を退いていた松平容保も復帰、容保の実弟で桑名藩主の松平定敬が京都所司代に任ぜられ、ここに「一会桑政権」の基本的な枠組みが成立する。一会桑政権は二度の長州征討を主導するも、慶応2年(1866年)8月に一橋慶喜が会津桑名両藩の意向に関わらず第二次征長を中止し、徳川宗家相続を機に諸侯会議を重視する姿勢を打ち出したことにより、その意義を否定されることとなった。慶喜の変節に反発した二条斉敬(内覧・左大臣)が9月に一時参朝を停止し、10月には松平容保が京都守護職の辞職を申請するなど、ここに一会桑政権は実質的に崩壊した。
      世界の状況:
      【イギリス】:ヴィクトリア朝の最盛期。1863~65にはクリミア戦争。
      【フランス】:ナポレオン三世による第二帝政期で、イタリア統一を支援し、メキシコ遠征を行っている。
      【アメリカ】:南北戦争(1861~65)の最終盤で、1864年1月にはグラントが北軍総司令官就任(ユリシーズ・S・グラント、第18代アメリカ合衆国大統領)。1864年9月には要衝アトランタが陥落。1865年4月14日にはリンカーン大統領が暗殺される。1865年3月には北軍の最後の攻勢であるアポマトックス方面作戦が開始され、南軍は首都リッチモンドから撤退するも4月には最後の戦いが起き、ロバート・エドワード・リー将軍が降伏して終結した。
      【オスマン帝国領エジプト】:1517年にオスマン帝国スルターン・セリム1世がエジプトを征服してから、1914年にイギリス保護領となりオスマン帝国の宗主権が失われるまではオスマン帝国のエヤレトであった。なおオスマン帝国はすでに最盛期を過ぎて衰退期に入っており、「ヨーロッパの病人」と呼ばれていた。イギリスやフランス、サルデーニャの支援を受けて南下を目論んだロシアをなんとか撃退したものの、西欧諸国への依存度がより深まっていた。またエジプトについてはオスマン軍人ムハンマド・アリーがエジプト総督につき、半独立状態(ムハンマド・アリー朝)にあった。1867年にはエジプト副王領となるが、1882年にはイギリスが支配権を獲得してイギリス領となる。スエズ運河は1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。
      一行は、シンガポールを出るときには新しく乗り込んできたオランダの夫人が夫と分かれのキスをするのを見て一同驚いている。「とんとかたわらに人なきがごとくみえた」「はじめて見たることにて驚嘆した。親しき別れには、口を互いに吸うがもっともよき礼と聞き及び候」。
    • 3か月の語学研修ののち、ロンドン大学のユニバーシティカレッジの法文学部聴講生として入学し、先に入学していた長州藩の留学生2名(井上勝と南貞助)とともに学んだ。

    • 大学では、英国軍事学の基礎とも言える歴史・科学・数学などを主に学び、約半数が経済的理由により一年後の1866年夏に帰国した。町田久成は、慶応3年(1867年)2月パリ万国博覧会に参加後、6月に留学生の一部、及び中井弘、野村盛秀らと帰国。

  • こうして町田久成は、国家の国力というものが単に軍事力に留まらず、産業・教育・制度によって支えられていることを痛感し、英国留学を終えて帰国した際には穏健改革派に近い考えを持つに至っていた。そして、中井弘と共に上京し藩首脳となっていた大久保利通、西郷隆盛らの武力討幕方針に反対する立場を取る。

    当時日本国内は、薩長同盟を経て武器調達に成功した長州藩と、幕府が勢いに乗ることを警戒した薩摩藩が出兵拒否したことで第2次長州征討(四境戦争)は失敗に終わり、幕府の権威は低下していた。武力による倒幕機運が高まっており、慶応3年(1867年)10月14日には15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したことで大政奉還がなった時期でもあった。けっきょく町田らの意見は少数派であり、大勢に影響を与えることはなく鳥羽伏見の戦い(1868年1月27日~1月30日)、戊辰戦争(1868年~1869年)へと進んでいった。
    中井弘は薩摩藩士、外交官、政治家。号櫻洲(桜州山人)。脱藩して後藤象二郎や坂本龍馬らに剛毅な性格を愛され、彼らが工面した金で慶応2年(1866年)10月に土佐藩士の結城幸安とともにイギリスへ密航留学する。1867年春に帰国。その後は宇和島藩周旋方として京都で活躍する。明治新政府では外国事務各国公使応接掛となる。同年3月のイギリス公使・パークス襲撃事件では、パークス一行の護衛として襲撃犯の一人・朱雀操と斬り合い、自身も頭部に傷を負いながらも朱雀の胸部を刺し、後から駆けつけた後藤に朱雀が斬られて倒れたところを首を刎ねた。パークスらを救った功績により後藤と共にイギリス・ビクトリア女王から宝刀を贈られるが、この一件により尊王攘夷派から「同志を斬り外国人を守る国賊」として狙われることになる。のち諸外国を回り、イギリスでは日本公使館書記官を務めている。帰国後は滋賀県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候、京都府知事を歴任。在任中は第4回内国勧業博覧会や京都舞鶴間鉄道の建設に力を尽くすも脳溢血で倒れた。享年57。鹿鳴館の名付け親で、詩経の「鹿鳴きて野に食む」から採ったという。別名に横山休之進、鮫島雲城、後藤休次郎、田中幸介、中井弘蔵。書家としても知られる。
     このイギリス・ビクトリア女王から贈られた宝刀は現存している。
    1.後藤象二郎のものは後藤の長女・早苗が嫁いだのが岩崎彌之助であったことから岩崎家に継承されたものか、2022年の丸の内移転に向け整理が行われていた静嘉堂文庫の書庫から見つかった。漆塗の箱に、ハリー・パークス直筆の書状を含む一式が収められていたという。「サーベル形儀仗刀」後藤象二郎拝領。C.SMITH & SON社製。銘「PRESENTED TO GOTO SHOJIRO IN MEMORY OF THE 23RD OF MARCH 1868」。ヴィクトリア朝時代・1868年 静嘉堂文庫美術館蔵。静嘉堂文庫美術館「サムライのおしゃれ」展は驚きの連続だ! | マンスリーみつびし | 三菱グループサイト
    2.いっぽう中井のものは、一度帝室に献上したといい、しかもイギリスにわたる時に一寸拝借として持ち出したという。その後か、娘婿の原敬(第19代内閣総理大臣)が受け継いだのち京都国立博物館に寄贈、現在も同館が所蔵している。銘「PRESENTED TO NAKAI KOZO IN MEMORY OF THE 23RD OF MARCH 1868」。総長98.5cm、刃長75.2cm。寄贈者原敬・本田親雄。西洋刀 - 京都国立博物館 館蔵品データベース

    British Legation
    Yokohama
    November 6th, 1868
     
    Goto Shojiro Sama,
    Sir,
     
    Her Majesty's Government are very desirous to mark the high sense which they entertain of the praiseworthy and courageous conduct which you displayed on the occasion of the attack made upon my party when I was proceeding to an audience of the Mikado on the 23rd of March last, and they have accordingly instructed me to present to you a sword which they have caused to be prepared in commemoration of your distinguished behavior. It naturally affords me very great satisfaction to be charged with the duty of delivering to you this testimonial, and in presenting it to you.
     
    I beg to add the expression of my fervent wish for your enjoyment of a long and prosperous career, which I am satisfied will be marked by entire devotion to the service of your Sovereign and country.
     
    I have the honor to be, Sir,
    Your obedient humble servant,
    Harry Parkes

明治新政府

外交畑

  • 慶応4年(1868年)1月参与職外国事務掛となる(同僚に五代友厚、寺島宗則、伊藤博文、井上馨等)、町田は長崎在勤。2月20日参与職外国官判事となり、長崎裁判所判事兼九州鎮撫使参謀。

    この長崎勤務時代に浦上の隠れキリシタンの裁判にあたっており、信徒たちの強い信仰心に宗教的感動を覚えたことが、後年出家する遠因になったとされる。
  • 明治元年(1868年)12月東京在勤。外国事務局判事・外国官判事。明治2年(1869年)外務大丞(外務大臣の直下)。

  • 明治2年(1869年)7月英国第2王子エディンバラ公アルフレッドの接待責任者を務める。※「皇族のアクセサリ#国賓対応」を参照

  • 明治3年(1870年)9月大学大丞に異動。

文部行政

  • 明治4年(1871年)7月に大学を廃して文部省が設置されると、文部大丞となる。

    大学ヲ廃シ文部省ヲ被置候事

    爾来単ニ南校東校ト相唱候条両校ヘ之諸達其外総テ御掛合有之度候也

    江藤新平が文部大輔、次いで大木喬任が文部卿に就任。少輔は置かれず、文部大丞は加藤弘之、町田、松岡時敏の3名。のち加藤は大外史に転じた。
  • 明治4年(1871年)5月、西洋医学所薬草園にて「物産会(博覧会)」を開催。大学は文部省へと変わると文部省博物局を設置し、「古器旧物保存方」および「集古館」建設を提言。

  • 明治4年(1871年)9月25日、文部省に博物局設置。

    南校に置かれていた物産局が文部省博物局となり、物産局の蒐集品をことごとく博物局所収としたうえで、湯島聖堂大成殿を博物局展示場と定めた。また九段坂上の薬園は東京府から移管を受けたものだったがこれを返却し、小石川菜園を博物局の管轄へと移している。
  • こうして一定の基盤を得た博物局は明治4年(1871年)10月~10日間、湯島大聖堂において博覧会を開くことを企画したが、これは開催されなかった。翌明治5年(1872年)1月に至って、明治5年(1872年)3月から開催されることが決定するが、それに先立って明治6年(1873年)4~8月オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に日本からの出展が決まり、その準備も行われることになる。

    ウィーン万博はフランツ・ヨーゼフ一世の治世25周年を記念するもの。オーストリア公使ヘンリー・ガリッチ(Henry Garich)により参加を要請されたもの。同年11月には外務卿副島種臣、外務大輔寺島宗則と会談を行って具体化し、12月14日に参議大隈重信、外務大輔寺島宗則、大蔵大輔井上馨の3名が墺国博覧会御用掛を命じられている。翌明治5年(1872年)1月5日に文部大丞町田久成、編輯権助田中芳男が御用掛を命じられる。ついで2月8日に太政官正院に墺国博覧会事務局を開いた。
    このウィーン万博には、岩倉使節団も見学している。一行は[旧暦]明治4年(1871年)11月12日横浜港を出発し、アメリカからヨーロッパを回って明治6年(1873年)9月13日横浜着。皇族のアクセサリの項を参照
  • 明治5年(1872年)3月10日~20日間、湯島聖堂にて「湯島聖堂博覧会」を開催し、ウィーン万博への出品物を披露。「名古屋城等保存ノ儀」を建議。

    十三日 東校竝びに文部省に幸す、午前九時御出門、太政大臣三條実美、参議西郷隆盛、同大隈重信、同板垣退助、宮内卿徳大寺実則、侍従長河瀬真孝、式部頭坊城俊昌等を随へ、(略)次で博物館に幸し、本月十日以来開催の博物館陳列品を天覧、古器・旧物に就きて伝来の説明を聴きたまひ、午後一時還幸あらせらる
    明治天皇紀)

    湯島聖堂博覧会は朝9時~午後4時。男女ともに1人1枚2銭の切手を持参。1日概ね千枚を文部省博物館および本屋で売り出した。明治4年5月の新貨条例により定められた新貨によるもので、当時米価は一升が約42銭であったという。3月13日には明治天皇の行幸を仰いだ。
    • この時、御物も展示されている。

      一、御笙 鈴虫 迦陵頗 二管
      一、御蓽䔁 蜩 一管
      一、御笛 占月丸 一管
      一、御琴 聞天 南風虞舜 大雅 四絃
      心越禅師請来、水戸ヨリ献納(※徳川昭武は光圀以来の名器を献納したがうち四絃のみ出陳)
      (略)
      一、名護屋城金鯱(※魚偏に粛) 一箇
      加藤清正所造・名護藩ヨリ貢献
      (略)
      一、千鳥香炉 元▢▢城ニ所伝
      ※仙石家献上は明治5年(1872年)4月5日のため別物ということになる。

    • その他御物以外抜粋

      黒田長溥 純金漢印 印文委奴國王之印
      秋山小次郎 刀剣
      九条 金装太刀(備前三郎国宗作)など
      住吉内記 源氏物語模本二巻、御三年軍機模本、平治物語模本
      戸田従四位 雪舟筆八景図、介石一塊
      植村千之助 鞘巻太刀
      教部省 皇太神宮印、旧太神神蔵銅印、豊受大神宮印、旧太神宮司印
      湯浅常安 三條宗近作刀一口

      明治五年になりまして今度は聖堂、即大成殿に於て博覧会という名前で開設しました。ところが中々見る人が多く押合って仕方が無いそれで人を入れない策を取った様なのでありました。其時に尾張城の金鯱を持って来て中庭に陳列したのが評判が宜かった。是は尾張藩から献納したのであります。それが宮内省の物置きにあったので、それを貸してやらうといふことで、拝借して聖堂博覧会の出品としました。其金鱗の一つは濠国の博覧会に持って行きました

  • 明治5年(1872年)5月から10月にかけて行われた日本初の文化財調査とされる壬申検査を主導。調査には町田久成や蜷川式胤、世古延世らが参加。

  • 明治9年(1876年)1月博物館の設置建白書を大久保利通に提出。

  • 明治10年(1877年)2月9日、明治天皇は奈良行幸の折に正倉院に立ち寄り「黄熟香(蘭奢待)」を截り取っているが、この時の勅使が町田久成である。

    正倉院御物の中に黄熟香あり所謂蘭奢待なり。往時足利義政織田信長にその一片(長さ各一寸八分)を賜ひしことあり。還幸後、久成に勅して之れを剪らしめたまふ。久成乃ち長さ二寸重さ二銭三分八厘の一片を上る。天皇、之れを割きて親ら炷きたまふ。薫烟芳芬くんえんほうふんとして行宮に満つ。而して其の残餘は之れを東京に齎したまふ。

    なお令和4年(2022年)1月園城寺で、大久保利通からの手紙を含む町田久成の遺品が見つかったが、その際に蘭奢待の切片も含まれていたという。上述の通り、町田は明治10年(1877年)実際に截り取りを行っており、その際に切片を拝領したものかと思われる。※専門家による手紙の確認は令和3年(2021年)12月。
    • 三井寺園城寺には、久成が収めた蘭奢待の一片が今も保管されている。

      東大寺蔵 蘭待 香合以藤房卿手植付作 従四位勲三等町田久成僧正納

  • 明治14年(1881年)農商務省創設、内務省管轄の博物局もここに移管されたため、町田も農商務省大書記官に転じた。

  • 明治15年(1882年)3月東京帝室博物館(後の東京国立博物館)の初代館長となっている。

  • 明治15年(1882年)10月、東京帝室博物館長を辞職。

    借金を抱えてやめたと書かれている。「明治14年のこと事業を起こそうと高利貸しから借金をしてヤマッ気をみせたが、豪放らいらく、しかも無欲恬淡な町田の性格ではうまくいくはずがない。ついに事業に失敗、借金の証文しか残らず、翌年15年10月には官界を去った」。
  • 明治16年(1883年)園城寺子院・法明院第9世順道敬徳(桜井敬徳)より、奈良東大寺戒壇院において円頓菩薩戒を授けられる。10月農商省博物局勤務。杉孫七郎の要請により博物館の宮内庁への移管手続きを手伝う。

  • 明治18年(1885年)3月元老院議官となる。岡倉天心、フェノロサ、ビゲローが町田宅で受戒。

  • 明治22年(1889年)12月元老院議官を辞職。

  • 明治22年(1889年)園城寺子院・光浄院住職となる。同時に崇福寺(滋賀、現在は崇福寺跡)の住職も兼任しその復興に奔走した。

  • 明治25年(1892年)コロンブス、アメリカ大陸到達400年記念のシカゴ万博の世界宗教会議に参加するため渡米し、米国僧月心と各地で講演する。※この月心はともに第9世順道敬徳から仏典を学んだ人物。

  • 明治30年(1897年)9月15日、療養先の寛永寺明王院で死去。遺骨の一部は三​​井寺子院・法明院に分骨された。戒名は「本實成院權大僧正久成大和上」

    • 寛永寺津梁院(しんりょういん)にも墓がある。

      表 一乗比丘久成墓
      裏 光浄院兼崇福寺住職
      御嶽講本部長従四位勲三等権大僧正町田久成
      明治三十年九月十五日入寂享年六十
      明治三十一年九月建寺門御嶽講社有志中
      枢密顧問官正三位勲一等子爵杉孫七郎書

  • 大正元年(1912年)、博物館構内に元博物館長町田久成の顕彰碑建立の議が起こり、大正2年(1913年)10月15日落成。主唱者である井上馨が篆額、文学博士重野安繹の撰、杉孫七郎(重華)の書。

逸話など

  • 維新改革、廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館創設事業に携わった。官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。

  • 明治6年(1873年)には書籍館(しょじゃくかん、現内閣文庫)に書籍177部、975冊を寄贈している。

    町田久成獻納之章
    石谷藏書 ※篆刻

  • その他、物品についても博物館に寄贈している。※抜粋

    一節切 銘天吹 一管 竹製 長二九・七糎
    一節切 銘栽風 一管 竹製 長三三・三糎
    薩摩琵琶 一面 甲腹桑製 長八七・八糎 幅三〇・三糎
    桜蒔絵鏡台 一基 高八六・一糎 方三一糎

  • 音楽にも造詣が深く、山井景順に師事して横笛を学んだ。内山下町博物館の時代には舞楽の会や管弦の会を宮内省の宮中の令人たちを招いて定期的に展示物の和楽器を使って開催していたほか、個人でも隅田川にて舟遊合奏会を開催するなどしていた。

  • ある時祇園の茶屋で遊んでいた際に芸妓が持っていた古い琴に惚れ込み、ゆずってもらえないかと頼みこんだものの断られたので、琴を芸妓ごとを身受けし、琴だけを手元に残して芸妓には暇を出したと伝えられている。

  • 杉孫七郎から明治天皇の銀婚式に参加するように請われたところ、この時既に出家していた町田は柿色木綿の法衣に首に頭陀をかけて江南竹の杖をついて宮門に参上した。警備のものが狂僧と思いこれを止めたところ、町田は「その通りである。乞食坊主がこのような尊い儀式に参加するのは最も恐れ多い次第である。初めは参賀は恐れ多いので断ったのだが、参賀を厳達されたのでやむを得ず来た次第なり」と答え、警備の者の言うとおり引き返そうとするところで、連絡を受けた杉が「町田の悪戯には困る」と言って通すように言ったという。

鑑定眼

  • 書画篆刻を自らよくし、観音像などを描いた。また美術品の鑑定眼が優れていた。

  • 松平楽翁(定信)の遺物が売りに出た際には、由緒を信じて全部引き取ったという。

  • ある日知り合いの料理屋の主人が町田のもとを訪れ、ある玉の鑑定書を請うた。町田がその鑑定書をなんに使うのかと聞いたところ、町田の鑑定書があればある銀行家が2万5千円で買う約束があると答えたので、「それは面白い。乞食坊主が書いた紙切れにそんな価値があるとは恐れ入る。それではあなたはいかほど布施をするのか」と併せて聞いたところ、一般の商習慣に則って1割2千500円を布施するとのことだった。町田はそれに対して「2万5000円を布施すれば立派な奉書紙に書いてやる」と答えたので聞いていた者らは大笑いしたという。

    或日上野桜雲台ノ料理店主人ハ石谷ノ知合ノ間柄ナルニ因リ、来リテ曰ク、此ノ一玉ニ御上人ノ御鑑定書ヲ願度ト、石谷曰ク夫レハ易キ事ナリ、シテ其ノ鑑定書ヲ貰ツテ何ニスルカ。主人答テ曰ク実ハ御上人ノ鑑定書アレバ、某銀行家ガ金二万五千円ニ買ウ約束ナリ、故ニ御鑑定書ヲ願フ訳デアリマスト。夫レハ面白キコトナリ、乞食坊主ガ一片紙ノ鑑定書ガ二万五千円ニ買手ガアルトハ恐入ル、併シ此ノ坊主ニ貴公ノ御儲ノ何程ヲ布施スルヤ、ソレハ一般ノ商習慣ニ因リマシテ一割、即チ二千五百円ヲ布施シマス。石谷真面目ニ夫レハイカンワイ。夫ナレバ何程布施シマセヨウカ、石谷曰ク二万五千円ヲ全部布施スレバ立派ナ奉書紙ニ認メテヤル、ドウダト、座中一同大笑ヒトナリタリ。
    (「わが国博物館事業創設者町田久成のことども」大久保利謙)

  • ある骨董商が、庵を立て月に200円の布施をするので自分以外の骨董商の品の鑑定をやめてくれないかと頼んだところ、「好意はありがたいが自分はようやく世間の煩を免れたところであり、自らの如き乞食坊主を金儲けの餌に使うのは友人としてあまりに過酷ではないか。御免被る」と答えた。