正倉院
正倉院
概要
- 正倉院は、奈良県奈良市雑司町にある宮内庁管理の建築物。
正倉の構造
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正倉とは、古代の中央官庁や地方の官庁や大寺には重要な物品を収める「正倉」が設けられており一郭を「正倉院」と呼んでいたが、時の経過で失われ、東大寺の正倉一棟だけが往時の姿のまま残された。
- 古くは、「庁院」、「御倉町」、「正蔵院」などと呼ばれていた。遅くとも鎌倉時代には「三倉(みつぐら)」とも呼ばれていた。一方で延応元年(1239年)にはすでに「開正倉院、有宝物御覧」とあり、この時代にはすでに正倉院と呼ばれていたようである。さらに延宝3年(1675年)には「ここなる御倉は正倉院と号するなり、是東大寺の宝蔵なり」と記されている。
- 寄棟造、一重、本瓦葺で、高床式に造られている。間口約33メートル、奥行約9.4メートル、床下約2.7メートル、総高約14メートル。
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正倉院正倉の内部は三倉に仕切られており、北(正面に向かって右)から順に北倉、中倉、南倉と呼ばれている。
- 北倉と南倉は大きな三角材(校木)を井桁に組み上げた校倉造りで、中倉は北倉の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁とし、東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造りになっている。
- 各倉とも東側の中央に入口があり、内部は二階造り。
北倉は主として光明皇后奉献の品を納めた倉で、その開扉には勅許(天皇の許可)を必要としたので勅封倉とよばれ、室町時代以後は天皇親署の御封が施されました。中倉・南倉はそれ以外の東大寺に関わる品々を納めた倉で、中倉は北倉に准じて勅封倉として扱われ、南倉は諸寺を監督する役の僧綱の封(後には東大寺別当の封)を施して管理されましたが、明治以後は南倉も勅封倉となりました。
(宝庫について - 正倉院)
西宝庫・東宝庫
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現在は正倉の南西に西宝庫、南東に東宝庫が建てられている。※上記地図で航空写真にするとよく似た形状の建物が「∴」の位置に並んでいるのがわかる。
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これは鉄筋コンクリート造で、東宝庫は昭和28年(1953年)に、また西宝庫が昭和37年(1962年)に建てられたもので、内部には空気調和装置が完備されている。
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東宝庫の前にあるのは聖語蔵で、元は転害門内にあった尊勝院経蔵。明治年間に経典類が皇室に献納されたのにともなって、明治26年(1893年)5月(現在の東宝庫の前方の)現位置に移築されたもの。
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西宝庫の前にある持仏堂は江戸時代に建てられた旧四聖坊の三間堂。昭和期まで拝観者の休憩所となっていた。明治10年(1877年)2月に明治天皇が行幸された際も、にわかの事で香炉の準備がなく、興福寺の寺僧の中村暁圓が家から香炉を取り寄せたが、その時もこちらで待たれ、聞香をされたという。昭和初期でもまだ正倉院事務所がなく、持仏堂で調査を行っていたと書かれている。
まだ正倉院事務所がなくて、毎年秋の曝涼には四聖坊の堂舎をそれに当て、その持仏堂で帝大史料から二三人の係員が出張して古文書の校合をしていた時代である。私も御物調査の名目で曝涼期間中彼地に出張していたので、時々持仏堂に立ちより無駄話をしていたのである。ある昼休みのときその持仏堂に出かけ「今日は何か出ましたかね」といって赤毛氈の上に置かれていた一巻を開けて見たところ、造仏料彩色物注文・阿弥陀浄土一舗用度帳・請画師啓・下丹注文等に続いて、造花様一張としてこの絵がでてきた。宝相花文の線は筆写とは異り版画らしい。そこで、曝涼中我々と同様東京から来ておられた時の帝室博物館総長大島義脩先生に連絡したところ、早速飛んでこられて、版画であることに同意されたので、撮影順序を変更して特にこの写真をとり、正倉院御物図録第六集に、御物中唯一の版画として掲載したのである。発見は昭和五年の秋と記憶する。
(日本版画美術全集)なお四聖坊(ししょうぼう)自体は奈良時代から存在する東大寺の一坊で、聖武天皇、開基良辨(良弁僧正)、勧進行基、導師菩提仙那(僊那。渡来僧ボーディセーナ、婆羅門僧正とも。東大寺大仏殿の開眼供養法会で導師を務めた)の御影を祀っていた。「師匠坊」あるいは「師聖坊」とも書く。例えば戦国期には茶会で使われており、名前を関する「師匠坊肩衝」であったり、「平蜘蛛」も四聖坊で使われている。四聖坊はもと会所坊とも言ったらしく、かつて拝観などをする際には正倉からこの四聖坊持仏堂に運んで陳列した上で行っていたという。しかしこの会所坊(四聖坊)の敷地は明治後に正倉院敷地へと取り込まれ、この持仏堂などが残ったという。明治43年(1910年)11月11日に修理を行っていた所棟板に「寛文十一年辛卯月吉祥日」と書かれており、その頃に建てられたものと判明したという。 -
また正倉の北側に一間社で春日造の杉本神社があるが、正倉の鬼門に建てられた鎮守社で、江戸時代には「鎮守蔵王権現社」と呼ばれていた。杉の大木の下にあったことから、近代に入って杉本神社と呼ばれるようになったという。現在の建物は天保7年(1836年)の建立。
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国宝指定
- なおこの正倉院正倉は平成9年(1997年)5月19日に国宝指定され、正倉周辺地域は東大寺旧境内として国の史跡に同日に指定されている。翌年には正倉院は「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録された。
正倉院正倉 一棟
国
奈良県奈良市雑司町
(文部省告示第九十三号)史跡東大寺旧境内(昭和七年文部省告示第百九十一号)に次に掲げる地域を追加して指定する。
(文部省告示第九十二号)
修理点検歴
- 天禄年間(970-972)
- 長元4年(1031年):
- 天喜5年(1057年):建造物の総合的な修理
- 承暦3年(1079年):勅封倉の修理
- 康和2年(1100年):勅封倉の修理
- 康治2年(1143年):勅封倉の修理
- 大治5年(1130年):勅封倉の点検
- 治承4年(1180年):平重衡による南都焼討
- 文治5年(1189年):勅封倉の点検
- 建久4年(1193年)5月:8~翌年3月まで修理
- 寛喜2年(1230年):修理
- 寛元元年(1243年):雨漏りが酷いため修理
- 建長6年(1254年)7月:北倉扉に落雷。火の手が上がったが鎮火。現在も北倉の壁に焼け跡が残る。
- 慶長7年(1602年)6月:家康による修理前調査。翌年2月に開封して修理
- 慶長15年(1610年):東大寺塔頭の僧侶が北倉の床板を切り破って盗難
- 寛文3年(1663年):開封及び点検
- 寛文6年(1666年)中倉で小さな修理
- 元禄6年(1693年):元禄3年(1690年)の奈良奉行所からの破損検分書による修理
- 文政13年(1830年):屋根大破により開封。
- 天保6年(1835年):修理。天保2年(1831年)に修理口上書、天保4年(1833年)に開封されたがこの年に実施
- 明治8年(1875年):修理
- 明治5年(1872年)に壬申検査で正倉が開封され、写真撮影が行われた
- 明治8年(1875年)頃から宝物の公開
- 明治10年(1877年):避雷針設置
- 明治12年(1879年)に公開時の宝物の移動を避けるため陳列棚を設ける建議・明治13年(1880年)~明治14年(1881年)にかけて設置
- 明治17年(1884年):瓦の葺き替え?
- 明治19年(1886年):瓦の葺き替え?
- 明治22年(1889年):瓦の葺き替え?
- 大正2年(1913年):全解体修理
- 大正10年(1921年):瓦の葺き替え
- 昭和28年(1953年):東宝庫建設
- 昭和37年(1962年):西宝庫建設
盗難事件
- 長暦3年(1039年)3月勅封倉が焼き穿だたれ盗難
- 寛喜2年(1230年)10月に中倉の扉が焼かれて盗難
参考
室内構造
- 正倉院正倉の内部は三倉(北倉、中倉、南倉)に仕切られている。
- 以下では北倉の構造を示すが、概ね同じ構造。中倉、南倉も同様に正面は西棚になる。
【北倉階上】 ┌─────────────────┐ │ 西棚 │ │ ┌───────────┐ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │南棚│ │北棚│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │──┘ └──│ │ │ │ │ │ │ └──────■───■──────┘ 【北倉階下】 ┌─────────────────┐ │ 西棚 │ │ ┌───────────┐ │ │ │ │ │ │ │ ┌───┐ │ │ │ │ │後中棚│ │ │ │南棚│ └───┘ │北棚│ │ │ ┌───┐ │ │ │ │ │前中棚│ │ │ │ │ └───┘ │ │ │──┘ └──│ │ │ │ │ │ │ └──────■───■──────┘
宝物
- ※整理の終わったものから、隣接するコンクリート造の西宝庫および東宝庫に移動されている。
- 以下は、明治までの保管状況。
北倉
北倉階下 前中棚
- 金銀平文琴 一張:北第二十六號
- 銀平脱合子 一合:北第百五十四號
- 螺鈿紫壇阮咸 一面:北第三十號
- 螺鈿紫壇五弦琵琶 一面:北第二十九號
- (略)
- 御杖刀 二口:北第三十九號
- 御杖刀 甲 一口 刃長一尺九寸
- 御杖刀 乙 一口 刃長ニ尺一寸六分
- (略)
北倉階下 後中棚
- 木畫紫壇棊局 一具:北第三十六號
- 木畫紫壇雙六局 一具:北第三十七號
- 漆胡瓶 一:北第四十三號
- (略)
- 御屏風 四〇扇:北第四十四號
- 鳥毛立女屏風 六扇:
- (略)
- 臈纈屏風 四扇
- (略)
北倉階下 北棚
- (略)
北倉階下 西棚
- 御鎧残闕:北第四十號
- (略)
- 全淺香 一材:北第四十一號 ※紅塵/紅沈(こうじん)。蘭奢待の項を参照
北倉階下 南棚
北倉階上 北棚
※いわゆる「東大寺献物帳」
- 天平勝寶八歳六月廿一日獻物帳 二巻:北第一五八號
- 天平勝寶八歳七月廿六日獻物帳 一巻北第一五九號
- 屏風花氈等帳
- 天平勝寶八歳六月一日獻物帳 一巻:北第一六〇號
- 大小王眞蹟帳
- 天平寶字二年十月一日獻物帳 一巻:北第一六一號
- 藤原公真蹟屏風帳
北倉階上 西棚
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御刀子 二口:北第五號
- 御刀子 甲 一口
- 御刀子 乙 一口
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十合鞘御刀子 一口:北第七號
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三合鞘御刀子 一口:北第八號
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小三合水角鞘御刀子 一口:北第九號
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金銀鈿荘唐大刀 一口:北第三八號
北倉階上 南棚
- 御鏡 一八面:北第四十二號
北倉階上 中央
- 御袈裟 九領:北第一號
- 御床 二張:北第四九號
- 赤漆小櫃 一合:北第一八〇號
北倉階上 棚上段
- 伎楽面 六十七口:南第一號 ※此の伎楽面は献物帳所載にあらず、場所の都合上姑く本倉に納む。
中倉
中倉階下 中棚
- 沈香末塗経筒 一合:中第三十三號
- 梵網経 一巻:中第三十四號
- 最勝王経帙 一枚:中第五十七號
- 華厳経論帙 一枚:中第五十九號
- 大乗雑経帙 二枚:中第六十號
- 紅牙撥鏤尺 四枚:中第五十一號
中倉階下 北棚
- 瑠璃杯 一口:中第七十號
- 黒柹蘇芳小櫃 一合:中第八十四號
- 黒柹蘇芳染六角臺 一枚:中第八十五號
- 赤漆欟木小櫃 一合:中第八十三號
- 漆小櫃 一合:中第七十九號
- 刀子 六十口:中第百三十一號
中倉階下 西棚
- 沈香木畫箱 三合:中第百四十二號
- 密陀彩繪箱 一合:中第百四十三號
- 密陀彩繪箱 一合:中第百四十三號 ※丁香青木香 會前 東大寺
中倉階下 南棚
中倉階下 (イ)號箱
- 黄熟香 一材:中第百三十五號 ※蘭奢待
中倉階下 (ロ)號箱
中倉階下 (ハ)號箱
中倉階上 北棚上段
- 梓弓 三張:中第一號
- 槻弓 二十四張:中第二號
中倉階上 北棚
- 鞆 十五口:中第三號 ※鞆は古代弓射る人の左手頸に着けたるものなり
- 大刀 二十六口:中第八號
- 黄金荘大刀 第一號 一口 刃長ニ尺二寸五分鮫皮の把、黄金の押縫、斑犀の頭、漆鞘密陀繪、黄金を以て鞘尾を裏めり
- 金銀鈿荘唐大刀 第二號、第三號 二口 皮の懸鐵を以て鞘尾を裏み其の上に金銀を鏤せり
- 金銀荘横刀 第四號 一口 刃長一尺一寸六分。沈香の把、漆鞘、金銀平脫の葛文獣形。横刀とは佩刀といふに同じ。古書には単に「たち」と訓せり
- 金銀銅荘大刀 第五號 一口 刃長一尺八寸一分半。紫壇の把、漆鞘。懸及び帯執等修補せり
- 金銀荘横刀 第六號 一口 刃長一尺五寸三分。紫壇の把、漆鞘。懸鞘及び尾帯執等修補せり
- 金銀荘大刀 第七號 刃長一尺五寸六分。漆鞘。把の絲纒。懸帯執等修補せり※絲纒は柄や鞘などに糸を巻き付けて装飾・補強する技法
- 黒作横刀 第八號 刃長一尺六寸二分。鐵の把、樺纒漆鞘。紫皮の懸。樺纒剥落せるを今修補せり。黒作とは鞘及び鉸具皆黒漆などをいふ。
- 銅漆作大刀 第九號、第一〇號、第十一號 三口
- 黒作大刀 第十二號、乃至第二十六號 十五口
中倉階上 西棚
※黒作大刀 十五口之内 第十五號乃至第二十六號、北棚より續く
中倉階上 南棚
中倉階上 棚上段
中倉階上 棚外
南倉
南倉階上 中棚
- 武王大刀 一口 唐樂に用ふる大刀なり。刃長二尺二寸一分。牟久木の把、漆鞘密陀繪を畫けり、鐵作り、文「東大寺 武王 天平勝寶四年四月九日」
- 破陣樂大刀 二口 一口は刃長二尺二寸一分、一口は刃長二尺一寸九分。いづれも牟久木の把、鞘に密陀繪を畫けり、鐵作り、文「東大寺 破陣樂 天平勝寶四年四月九日」
- 同袋 二口白絁、緋絁の裏、一口に「東大寺 破陣樂大刀」、一口に「破陣樂大刀」とあり。
- 婆理大刀 一口:南第一二三號 婆理は度羅楽の曲名なり。胡粉塗の木刄、長一尺八寸一分半。牟久木の把、鞘に密陀繪を畫けり、鐵作り、文「東大寺 波理」
- 同袋 一口 白絁緋絁の裏、文「東大寺 波理大刀」
南倉階下 北棚
南倉階下 西棚
南倉階下 南棚
南倉階上 棚上段
南倉階上 北棚
南倉階上 西棚
南倉階上 南棚
南倉階上 棚外
正倉院の一般公開
- 正倉院は天皇の持ち物であり、長らく一般人が中を見るのは当然の如くできなかった。北倉は主として光明皇后奉献の品を納めた倉で、その開扉には勅許(天皇の許可)を必要とした(勅封倉)。中倉は北倉に准じて勅封倉として扱われ、南倉は諸寺を監督する役の僧綱の封(後には東大寺別当の封)を施して管理され、明治以後は勅封倉となった。
- 信長(当時は従三位・参議)が蘭奢待を望んだとされる際にも、帝の許可がなければ開けることはできないと断られ、都に許可を取ったという。
明治期:限定公開
- 明治時代には、有位帯勲者や海外の来賓などごく一部の許可を得た者を対象に観覧が許されていた。
大正期:民間篤志家
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この状況が変わったのは大正期に入ってからで、大正6年(1917年)12月に帝室博物館総長兼図書頭に命じられた鴎外森林太郎が、明治22年(1889年)から年に一回秋に行われていた虫干しにあわせて、民間篤志家(研究者)にも公開するよう働きかけたことがきっかけとされる。
正倉院御物の秋季曝涼中、一定の資格者に拝観を許されるのは、明治四十三年からの事である。資格の制限は厳しいが、別に大正九年、特別拝観の道が開け、一定の標準によつて、無格者にも之を許される事になつた。正倉院は帝室博物館の所管だが、時の博物館總長は森鴎外、奈良博物館長は久保田鼎、宮内大臣は中村裕次郎男だつた。皆故人である。私(高田十郎)も新納忠之介氏の觀めで出願し、幸に許されて初めて此寶の山に入つた。後に聞くと、此年此特典に浴したのは、全國で唯二人、私の外に關東に一人あつたさうだが、名は未だ分らない。
高田十郎は明治~大正期の教育者・民俗学者。兵庫県赤穂郡の光葉久吉の子として生まれるが、高田しづ江と結婚して高田姓となる。明治38年(1905年)早稲田大学高等師範部歴史地理科に入学し、同40年に卒業。奈良県師範学校教諭、私立正気書院、奈良県巡査教習所講師、私立育英学校講師などを兼ねた。「大和名所案内」や「奈良県風俗誌」の編纂委員を務め、大和考古学会を設立して幹事となっている。上記第1回の正倉院御物特別拝観以後、7回参加したという。著書として、「奈良百話」、「随筆民話」、「奈良随筆」など。 -
この時期正倉院は、上野の帝室博物館の管轄下にあった。鴎外はこの仕事に心血を注ぎ、大正11年(1922年)7月に現職のまま亡くなるまでの間、大正7年(1918年)~大正10年(1921年)まで毎年秋に奈良に赴き、調査や修理の監督、博物館の指導などにあたった。
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鴎外の正倉院訪問は、秋の開封および、大正11年(1922年)に来訪したイギリス王太子(後のエドワード8世)の英国皇太子拝観と合わせて5度に渡った。
元々は皇太子時代の昭和天皇が大正10年(1921年)3月~9月の間に訪欧しており、当時同盟国であったイギリスにも立ち寄って英国王ジョージ5世や英国首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見している。この時バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれ、王太子エドワードとも会談している。この返礼として大正11年(1922年)4月に来日したものである。
1936年に即位したエドワード8世は、2022年に崩御した女王エリザベス2世の伯父であり、いわゆる「王冠を賭けた恋」の主でもある。 -
このときに奈良で鴎外が利用した官舎の門だけが残っており、現在は奈良国立博物館北隅の散策道の一角に「鴎外の門」として残っている。
官舎は昭和20年(1945年)代に取り壊され門だけが残っていたが、平成11年(1999年)に周辺の散策道が整備されたのに合わせて修理され、銘板が建てられた。揮毫は当時の大安寺貫主・河野清晃による。 -
ただこの時期はあくまで研究者が対象であり、それもかなり限定された者が対象となっていたに過ぎなかった。
昭和期:一般公開
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正倉院宝物は、第二次世界大戦中に戦火を避けるため奈良帝室博物館に保管されていたが、昭和21年(1946年)に正倉院に戻そうとした際に奈良市民からの「戻す前に一度見せて欲しい」との嘆願に応えて、一度きりの展覧会「正倉院御物特別拝観」を開いた。すると長蛇の列が博物館を取り巻き、入場まで半日以上かかる大盛況となった。
昭和二十一年秋、戦後の混乱と耐乏生活のさ中に第一回展を開催した「正倉院展」は、戦火からの罹災を避けるため、奈良帝室博物館の収蔵庫に疎開していた正倉院宝物の校倉返納に先立つ一般公開であった。(略)文化に飢え、文化の一端に少しでも触れたいと願う人々は、入館を待って日没後までなお長蛇の列をなし、観覧時間を延長することもしばしばであったという。
一日最高一萬三千人──二十二日間に十五萬三千四百六十六人という人波をあつめてまるでお祭り騒ぎであつた正倉院特別展観も無事閉幕ガツチリおろした鉄扉に嵐のすぎた跡のような淋しさを冷くただよはせた奈良帝室博物館の假倉内に、他の同僚出陳御物三十二點とともに千二百年來眠つてゐた正倉院本倉へ歸り納まる日を待つている。
(略)
思へば長い日陰の脇道中であつた。「正倉院御物いよ々公開」と御勅許が發表されたのはこの九月中秋明月の頃であつたらうか。それは今春いちはやくも總會の決議に「正倉院の公開」を決議、六月八日宮内省へ陳情した奈良縣觀光協會の一投石が在來一部有位帯勲者に限られた正倉院を大衆の前に公開する導火線となつたのであるが──この二十二日の顔見世は愉しくもありまた随分氣疲れな道行きでもあつた。 -
敗戦直後の打ちひしがれた空気の中で「生きる希望や力をもらった」という声が寄せられ、翌年以降も正倉院展を開くことになったという。
正倉院展は、上記の通り第1回が奈良帝室博物館で行われたが、過去数度(昭和24年、昭和34年、昭和56年)だけ東京で開催されている。正倉院展は、2023年11月で75回を数えた。