善阿弥
善阿弥(ぜんあみ)
室町時代の作庭師
同朋衆
河原者出身ながら足利義政に重用された
善阿弥
概要
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河原者の出身で、庭師として足利義政に重用された。
年齢八三。老而益健之由被仰出。音阿妙又河原善阿弥益健之由。
(蔭凉軒日録 文正元年1月18日条)蔭涼軒御成、蔭涼庭頭可被栽葉樹之由被仰出也、善阿承尊命而来也。
(蔭凉軒日録 長禄2年2月24日条) -
”善阿弥”の名で登場するのは70歳半ばと見られており、文正元年(1466年)時点で83歳だったというが、その前半生はよくわかっていない。
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寛正元年(1460年)~同4年に善阿弥が病を得て床につくと、義政は使いを送って薬を与え、あるいは蔭凉軒主季瓊真蘂に命じて薬を煎与せしめたり、病状を尋ねさせている。
六月廿二日、前就善阿弥違例可煎与薬之由、以春阿弥被仰出也、
六月廿七日、善阿弥本復、来三十日可出仕之由披露之、
六月廿八日、善阿病気平復、今始出仕之由披露之、 -
寛正2年(1461年)12月2日には興福寺の京都執行袖留木法眼とともに奈良に下向しており、12月4日には大乗院を訪れている。
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寛正4年(1463年)、義政は千秋刑部少輔を通じて相国寺に薬を命じ、薩涼軒主季瓊真蘂が樹書記に命じて送っている。
善阿弥有病、仍法眼与羗活湯七服、前而可与之由、以千秋刑部少輔、被仰出、仍命于楨書記遣之、蓋以前病之時、以僧可遣之由被仰出、即今以先規、使千秋弁医師法眼命于予、仍以此 上命下知之、想以丘𡓝経営之妙手、而慈愛彼、尤過定分、甚為辱也。
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寛正6年(1465年)9月にも大乗院や一乗院の庭の手入れのため南都を訪れている。
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文正元年(1466年)正月、義政は松柏子の十二大夫、猿楽の音阿弥とともに、河原者善阿弥の長寿を讃えている。
御談余前十四日、松拍十二、年令八十三、老而益健之由被仰出、音阿弥又河原善阿弥益健之由、共被仰出、皆老後寵栄也、
(蔭凉軒日録)十二大夫は恐らく大和猿楽座の十二太夫座のこと。長谷座の別名で、代々が十二太夫を称したという。十二五郎太夫、十二次郎太夫、十二六郎太夫など。その誰かが「松柏子」を号したという意味だと思われる。寛正5年(1464年)8月の観音堂上葺竣工祝には、「十二次郎太夫」が80余歳で京都に上って義政の御前で演能したという。(大乗院寺社雑事記、蔭凉軒日録) -
応仁3年(1469年)7~10月にも興福寺中院の庭園造営のため長期滞留。六方衆により善阿弥の宿所が作られ、11人の手の者を率いて造園に従事。
七月五日、
一、中院庭至昨日了、善阿ミ毎日三十疋宛并引物二千疋、手物十一人毎日一人別二十疋宛、引物惣中五百疋下行云々、八九月比木共可被植之之間、善阿一人ハ可在南之由下知、食事等可下行云々、
八月四日、
一、河原善阿ミ住屋事、為六方作給之、九内堂之東地事申請之、不可有子細旨許可了、
十月三日
一、河原善阿ミ、明日可上洛云々、召歟、百疋給之了、10月3日には義政に呼ばれたのか都に戻っている。 -
文明14年(1482年)9月に推定97歳で死去。そのため東山山荘(慈照寺)の作庭には関わっていない。
又四郎乃善阿弥嫡孫也、善阿年九十七歳、同甲子於勝定相公而生、歳逢寅者也、為山植樹排石天下第一
前半生
- 死亡年から逆算すると、至徳2年/元中2年(1385年)の生まれとなる。
- 一説に、河原者の頭領であった「虎菊」ではないかとされる。虎菊(または異体字の乕菊)の名は永享11年(1439年)頃から登場する。
庭前松、大光明寺超願寺等之松河原者席召参令見之
(看聞御記 永享5年10月8日条)早旦、御庭者虎菊参る、御庭拝見すべきの由申す、公方仰せにより参ると云々
(看聞御記 永享8年2月21日条)少林院御成。御点心。於双桂庵御斎。真如堂御参詣。雑木可移栽御庭之由伺之。乃虎菊所白也。
(蔭凉軒日録 永享11年9月25日条)
関わった庭と評価
- 長禄2年(1458年)の相国寺蔭涼軒、寛正2年(1461年)の花の御所泉殿、その翌年の高倉御所泉水、文正元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒などが善阿弥作とされる。
- 当時の資料にも「築山引水、妙手無比倫」(山を築き水を引く妙手は比類なし)、「為山植梅排石天下第一云爾」(山を作り樹を植え石をならぶ、天下第一という)などと高く評されている。
系譜
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子の小四郎(二代目善阿弥、小善)らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、及び彼の孫の又四郎による作品である。
※文明10年(1478年)11月
四日、
一、河原者善阿ミ之息小四郎下向、京都ニ申、請之、
五日、
一、東向庭作之、小四郎手者四人上下普心也、并元興寺郷・御領内召出之、
十五日、
一、山水河原者至今日召仕之、本人五百疋給之、毎日食十疋、自京都罷下粮物人別十疋、手者六人、毎日二十疋下行也、間水惣中二十疋、毎日、 -
孫の又四郎は作庭の故事来歴や吉凶方位、風水なども学問として身につけており、慈照院の景徐周麟(相国寺82世)が「今時、円顱方袍の所為は、屠者に及ばず」とまで評している。
又四郎乃善阿弥嫡孫也、