八樋正宗
八樋正宗(やつびまさむね)
八樋正宗
脇指
概要
-
織田(津田)信澄は、織田信長の弟・織田信勝(勘十郎信行)の嫡男。
織田信秀 ├────┬織田信長──┬織田信忠───織田秀信(三法師) 土田御前 │ ├織田信雄 │ └織田信孝 ├勘十郎信行(信勝) │ ├────┬津田信澄 │高島局 ├津田信糺 │ └織田信兼 ├喜六郎秀孝 ├三十郎信包 ├お市 └お犬
弟に津田勝三郎信糺(つだ のぶただ)、織田新八郎信兼(おだ のぶかね)がいる。 -
父・信勝(信行)は兄・信長に叛旗を翻したため信長に誅殺されたが、七兵衛信澄は許された。この頃、織田氏の庶流を表すとされる「津田」姓に改めている。
この出来事の時期は諸説あり、「寛政重脩諸家譜」などは弘治3年(1557年)とするが、「信長公記」などは永禄元年(1558年)とする。 -
天正6年(1578年)2月3日、養父・磯野員昌が信長の叱責を受け突如高野山へ出奔してしまう。
-
磯野員昌の所領・高島郡はそのまま信澄に宛行われ、新庄城から移って、明智光秀の縄張りで新たに城を築いた大溝城主となった。このとき「八樋正宗」を拝領している。
天正六年二月三日近江国大溝の城をたまはる。このとき右府より先祖信定伝来の刀及び八樋正宗の脇指をたまはり、桐瓜の紋をゆるさる。
(寛政重脩諸家譜) -
のち天正10年(1582年)5月7日に従弟の神戸信孝を総大将とする四国遠征軍が編成されると、丹羽長秀、蜂屋頼隆、信澄の3名が副将として付けられている。5月11日、信澄は住吉で四国に渡海する準備に入っている。
-
信澄が光秀の娘婿であった事が災いし、本能寺の変後に市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れてしまう。疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、5日、信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃した。信澄は防戦したが、兵を城外に留めていたことも不利に働き、丹羽家家臣・上田重安(上田宗箇)によって討ち取られた。※自害したとも言う
-
謀反人の汚名を着せられたまま、(従兄弟に当たる)織田信孝の命令により堺の町外れに晒し首とされた。
同六月五日、於大坂城中七兵衛殿しやうかひ、三七殿・五郎左衛門兩人之爲御覺悟之儀也、卽、首ヲ堺之北之ハシニカケラレ候、七兵衛殿首・堀田弥次左衛門首・渡邊与右衛門首、以上三ツかけられ候、
-
本刀は織田信澄(津田信澄)自害と共に行方不明。