綾小路定利(刀工)


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 綾小路定利(あやのこうじさだとし)

  • 文永年間の刀工
  • 文永年間(1264-1275)に京都四条の綾小路(あやのこうじ)に住んだため綾小路定利と呼ばれるが、太刀姿や鍛え、刃文などの作風からは鎌倉前期の刀工とみられる。

 初代

  • 藤五郎定宗の子
  • 通称、弥太郎
    • 弥五郎ともいうが、弥五郎は初代の門人で定俊のこことする説や、弥太郎定利と弥五郎定俊のいずれも門人とする説などがある。
  • 銘「定利」と二字で、草体に切る
  • 来国行と同時代でかつ近所に住したため、忙しくて注文がさばけない時には互いに刀を貸し借りし、銘のみ入れて客に渡したという。

 代表作

太刀
銘「定利」長78.7cm、反り3cm強。表裏に棒樋を掻き流す。なかご生ぶで雉子股形。棒樋の下に二字銘。目釘孔1個。寛文3年(1663)4月、将軍徳川家綱が日光に社参した帰りに岩槻藩4代阿部正春に与え、同家に伝わった。日清戦争終了後、最後の藩主阿部正桓が明治28年(1895年)7月16日に「平和克復還幸奉祝」として明治天皇に献上。旧御物。昭和24年(1949年)2月18日旧国宝指定、昭和26年(1951年)6月9日新国宝指定。東京国立博物館所蔵
C0064944 太刀_銘定利 - 東京国立博物館 画像検索
※5代藩主阿部正邦拝領とするものもあるが、家督を譲るのは寛文3年(1663年)12月の汀騒動を経た後、寛文11年(1671年)。
太刀
銘「定利」目釘孔4個。昭和9年(1934年)1月30日旧国宝重要文化財)指定。東京国立博物館所蔵
E0033704 太刀_銘定利 - 東京国立博物館 画像検索
太刀
銘「定利」。長二尺五寸八分四厘(78.3cm)、反り八分九厘(2.7cm)。元文2年(1737年)9月、10代将軍徳川家治が宮参りの際に奉納。巴紋散しの絲巻太刀拵が附く。明治43年(1910年)4月20日旧国宝重要文化財)指定。千代田区の山王日枝神社所蔵
太刀
銘「定(以下茎(なかご)磨上げ)」伝綾小路定利。長三尺六分九厘(73.0cm)、反り九分六厘(2.9cm)。目釘孔2個。韋巻柄(かわまきつか)及び茎断片が附き、「射楯兵主拵」と呼ばれる。慶長5年(1600年)姫路城主・木下家定の家老青野甚左衛門による寄進。太刀を納める春慶塗箱蓋裏の貼紙に「奉納綾小路定利、長二尺四寸二分、上ヶ中心添、皮柄銅鐸赤胴切羽、慶長五九月木下肥後守内青野甚左衛門」と墨書されている。重要文化財。姫路市射楯兵主(いたてひょうず)神社所蔵、東京国立博物館寄託
太刀附韋巻柄及中心断片 | 姫路市
木下家定は杉原孫兵衛。妹のねねが秀吉の妻となったため取り立てられ、秀吉に合わせて木下姓となった。天正12年(1584年)頃には一門筆頭格となり、羽柴姓、豊臣姓となる。文禄4年(1595年)には2万5千石を与えられ姫路城主となった。関ケ原では中立して家康に安堵されるが、備中足守に転封されている。慶長13年(1608年)に66歳で死去。子孫の勝俊・利房兄弟が遺領を争ったために所領没収されるが、のち利房が2万5千石で再び足守に封じられ、また三男延俊も豊後国日出藩を開き、両藩は幕末まで存続した。
 この太刀は、まさに関ケ原の戦いが行われた慶長5年(1600年)9月に、木下家定の指示により奉納されたもの。

 綾小路派

  • 文永(1264)ごろに綾小路に住した定利を祖とする刀工
    定利──┬定則──国信
        ├定業──定次
        └定家──定安
  • ただし定利以外はほとんど遺作が現存しない。

 定吉

太刀
銘「定吉」長70.5cm、反り2.7cm。丸留の棒樋。目釘孔2個。昭和24年2月18日重要文化財指定。個人蔵

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