みをつくし茄子


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 みをつくし茄子(みおつくしなす)

唐物茄子茶入
銘 紹鴎(一名みをつくし)
大名物
重要文化財
財団法人湯木美術館所蔵

  • 山上宗二記では、茄子の筆頭にこれを挙げる。
  • 唐物茄子茶入では、この「みをつくし茄子」茶入が「百貫茄子」(似たり茄子)、「付藻茄子」(静嘉堂蔵)、「珠光小茄子」とともに天下の四茄子茶入と称される。

    紹鴎茄子 百貫茄子似たり茄子とも云ふ、作物茄子、珠光小茄子、天下に四茄子とは是なり
    (山上宗二記)

    珠光小茄子とは、滝川一益が甲州征伐の恩賞として与えられることを望んだ逸話で高名な茶入。

Table of Contents

 由来

  • 武野紹鴎が、茶入の底に「見本徒久志(みほつくし)」の直書付をおこなったために「澪標(みおつくし)茄子」と呼ばれる。

    総体に掛かる飴色の鉄釉に、一方の肩先から裾にかけてやや白濁する三筋の釉がなだれかかり、その様子が澪標に似ているところから武野紹鴎が底に「見本徒久志」と墨書したとされる。
    (文化財登録)

    みをつくしとは、澪標(みおつくし)のこと。澪(みお)とは河川や河口や干潟などの底にできる溝状のくぼみを指し、そこは船などが航行できる。その澪の目印として設置されるのが澪標で古くから使われてきた。この「みをつくし茄子」の側面には大きな3本の筋が入っており、それが澪標のようだということである。大阪市及び関連団体では、この澪標をシンボルマークとして使っている。

  • 箱の書付にも由来が残る。

    みほつくし
     茄子茶入 替袋
        閑事庵(宗信)

    みほつくし(書付遠州)

  • なお武野紹鴎が所持したことから「紹鴎茄子」とも呼ばれる。
    静嘉堂文庫所蔵の「松本茄子」は別名「紹鴎茄子」とも呼ばれる。またサンリツ服部美術館所蔵品に、「唐物茄子茶入 銘 紹鷗茄子(別名「細口茄子」、「玄哉茄子」)」があるが、これも「みおつくし茄子」とは別物である。「紹鴎茄子(玄哉茄子)」は、武野紹鴎から辻玄哉、肥前鍋島家、川越松平家。

 来歴

  • 来歴概略
    松本珠報─鳥居引拙─武野紹鴎─今井宗久─織田信長────┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    │
    └今井宗久─豊臣秀吉─今井宗薫─宗呑─将軍家光─東本願寺┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    │
    └粟津左近─河村瑞賢─瓦屋平兵衛─坂本周斎─鴻池善右衛門

 松本珠報

  • 元は松本珠報の所持。

 鳥居引拙

  • 鳥居引拙が百二十貫で買い求める。

 武野紹鴎

  • 武野紹鴎に六百貫で譲渡。
  • これにより「紹鴎茄子」とも呼ばれる。この紹鴎が茶入の底に「みをつくし」の直書付をおこなったために「澪標茄子」とも呼ばれる。

    天文十八年二月十三日朝 紹鴎會
          人数 宗三 源六 連森河
    一床 くり色の棚に上になすびの壺
    (津田宗及茶湯日記)

    紹鴎茄子 關白様にあり。此壺は昔松本所持、其後百廿貫にて引拙へ賣申候、引拙より六百貫に紹鴎へ渡す。
    (山上宗二記)

 今井宗久

  • 紹鴎の死後、子の新五郎宗瓦が年少であったため姉婿にあたる今井宗久が預かっていた。

 信長

  • のち新五郎宗瓦が二十歳になったときに所有権で争うこととなり、永禄11年(1568年)宗久はこれを信長に献上し、5ヶ荘千石を拝領する。

    永禄十一年一月一日
    池田之城筑後居城に御取かけ、信長は北之山に御人数被備御覧候(略)松永弾正は我朝無双のつくもかみ(作物茄子茶入)進上申され、今井宗久是又隠れなき名物、松島の壺、並に紹鴎茄子進献。
    (信長公記)

    天正二年二月三日朝  宗久 一人
    一御臺子の上に 紹鴎茄子 カントウの袋
     宗久御茶を立申、卽宗久給申候
    上様(信長)被成御出、御一覧の御道具共拝見の間は、御内儀へ被成御座候
    (津田宗及茶湯日記)

    紹鴎茄子 (略)紹鴎へ渡す、死去の後宗久預る、本の主紹鴎の子息宗瓦也。此壺宗久と宗瓦と公事に被仕候故、信長公へ上る、其後十ヶ年後程度後に、信長公より又宗久拝領仕り、宗久より關白様へ上る
    (山上宗二記)

  • 約10年後、信長はこれを再び宗久に与えている。

 秀吉

  • 天正11年(1583年)宗久はこれを秀吉に献上する。

    紹鴎茄子松本茄子、出申候、卽ち京極茄子と御並べ申候て御見せなされ候、何れも盆に云々
    (津田宗及茶湯日記)

 今井家

  • 再び宗久に戻り、宗久の子宗薫に伝わる。
  • 寛永4年(1627年)に宗薫の子、宗呑がこれを将軍家光に献上する。

    今井宗呑典隆 彦八郎 平左衛門 某年台徳院殿にまみえ奉り、寛永四年遺跡を継ぎ、父(宗薫)に代りて御料所を支配し、堺に住す。又家に蔵せし所の水灯籠の花入、紹鴎茄子、胴高肩衝の茶入、松島の葉茶壺、開山の五徳、〆切の水指、珠徳が造れる象牙の茶杓、紹鴎が火箸を上る。十年三月八日死す。年三十二、法名紹仙、葬地堺向泉寺。
    (寛政重修諸家譜)

    年と献上した相手に食い違いがあり、恐らく「寛政重修諸家譜」の誤りと思われるが詳細は不明。今井彦八郞宗呑は今井宗薫の長子で、元和9年(1623年)4月没。号 不盡。父の宗薫より4年早く死んでおり、宗薫が寛永4年(1627年)4月に死ぬと、家督は次男の兼隆が継いでいる。なお家光が将軍宣下を受けるのは元和9年(1623年)7月27日。


ここまでの来歴は誤りであるとされる。詳細は後述

 東本願寺

  • さらに東本願寺がこれを拝領する。

 粟津左近

  • 本願寺家来の粟津左近の所持となる。

    紹鴎茄子 唐物 京都東門跡家来、粟津左近所持
    名物記)

 河村瑞賢

  • 粟津左近の孫の代に、これを河村瑞賢に売却し、子の河村弥兵衛に伝わる。

    紹鴎茄子 みをつくしと底に紹鴎書付判あり、河村弥兵衛
    (伏見屋覚書)

    河村瑞賢は七兵衛、十右衛門。のち百五十石取りに取り立てられ平太夫と改める。長子伝十郎は早世したため、次男の弥兵衛通顕が継いだ。

 瓦屋平兵衛

  • 瑞賢の子、河村通顕はこれを瓦屋平兵衛に譲渡する。

 鴻池家

  • 坂本周斎(閑事庵宗信)が入手し、さらに鴻池宗知の所有となり、鴻池善右衛門家に伝来する。

    みをつくし茄子 坂本所持、前東泰院門跡御所持にて、宗頼粟津左近拝領、孫より出る、其後河村平太夫所持、其後出候を瓦屋平兵衛取る、坂本家納る。
    (雪間草茶道惑解)

    坂本周斎は江戸中期の京都の糸割符商人で茶人。通称伝右衛門。号 閑事庵。

  • 大正9年(1920年)5月4日、高橋義雄(箒庵)が実見している。この時は鴻池善右衛門所持。

 湯木家

  • 現在は湯木美術館所蔵


 異説

  • 上記伝来は、「大正名器鑑」および文化財登録の説明書きに従う。
  • しかしこの「大正名器鑑」の来歴のうち、将軍家までの前半は誤りであるとされる。
    「山上宗二記」の誤りをそのまま記載か。
  • 元は武野紹鴎所持のものを、下京の片山某、針屋浄貞に伝わり、その後紹珍、宗和と伝わった後に東本願寺13代法主宣如光従(東泰院。教如の子)へと伝わったのが正しいとされる。その後、粟津左近以後は「大正名器鑑」の来歴と同じである。
    針屋は上京立売に住した豪商。浄貞ののち、紹珍、宗和、宗春と続いた。本姓曽谷氏。大永年間以後、七夕茄子、針屋円座肩衝、星肩衝、玉堂肩衝、強帷子天目、牧渓筆林檎絵などの多くの茶道具を蒐集した。針屋宗春の家系は元禄以後まで続いており、この家系に「君台観左右帳記」の写しが伝来し、自民斎清貫、中西秀長と伝授された。



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