名刀幻想辞典

青木肩衝

唐物肩衝茶入
銘 青木
大名物

概要

  • 従来は「青木民部法印浄憲」所持によるとされてきた。※あるいは青木紀伊守(青木一矩)所持とも。

    青木民部法印浄憲之を所持時せしに依りて此名あり。
    大正名器鑑

  • しかし、「唐物凡数」や「清玩名物記」での記述から、越前朝倉氏の重臣で府中奉行を務めた青木景康所持であったことによることが判明した。後述

来歴

畠山式部少輔(畠山順光)

  • もとは畠山順光(畠山式部少輔)の所持とされている。

    同(肩衝) 畠山式部少輔殿也  越前 青木
    (清玩名物記)

    父・木阿弥は、足利義尚や足利義稙に仕えた同朋衆であった。息子の幸子丸(幸子、幸次とも)は入名字によって畠山姓を名乗った。「順」の字は畠山氏の当主・畠山尚順からの偏諱と考えられている。永正6年(1509年)ごろに「式部少輔」に名乗りを改めている。
    10代将軍足利義稙は、初名は「義材」(よしき)。越中亡命中の明応7年(1498年)に「義尹」(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)に「義稙」と改名している。明応2年(1493年)明暦の政変で幽閉されるも京都から脱出し、越中、越前、のち周防へと下向し、大内義興の支援を得て永正5年(1508年)に京都へ帰還し、11代将軍の足利義澄に代わる形で、将軍職に復帰した。

青木景康

  • 当時は「式部少輔肩衝」あるいは「式部丞肩衝」と呼ばれたいた。

      府中青木
    式部丞肩衝
    トウキレ肩衝
    (唐物凡数)

  • この「府中青木」は青木景康とされる。青木景康は、越前朝倉氏の重臣で府中奉行を務めた武将。越前国南条・今立・丹生各郡の段銭や棟別銭、夫役や臨時の諸役の徴収を担当した。

  • 新人物往来社「戦国大名家臣団事典 西国編」(1981)では次のように記す。

    青木景康(あおきかげやす)
    康忠の子か。隼人佑、後に上野介と称す。朝倉孝景・義景に仕え、朝倉内衆の一人。府中奉行人を勤めた。元亀四年(一五七三)八月一三日、刀禰坂の合戦で戦死した。「一乗谷絵図」中に青木隼人正が見える。永禄十一年(一五八八)五月一七日、朝倉屋形に将軍足利義昭が御成 になった際、その饗応として舞われた能に笛を吹いた青木七郎三郎は景康の子か。
    (戦国大名家臣団事典 西国編)

    刀禰坂の合戦とは一乗谷城の戦いの前哨戦。同年8月に浅井方の阿閉貞征が内応すると、信長は近江虎御前山城に入った。救援に駆けつけた朝倉軍を破ると機を逃さず追撃戦へと移り、撤退する朝倉軍を追尾して同月8日に刀根坂で追いつきこれを痛撃した(現、福井県敦賀市疋田)。織田方の記録に拠れば3,000人以上の死者を出したという。さらに朝倉軍は撤退を続け、同月17日には信長は越前入りし、一乗谷を焼き払っている。朝倉義景は仮の宿所としていた六坊賢松寺を、裏切った朝倉景鏡の手勢200に囲まれた。近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃、景鏡は義景の首を持参し信長に降参した。さらに信長は踵を返して近江小谷城を囲んで浅井長政を滅ぼす。

明智光秀

  • 恐らく元亀4年/天正元年(1573年)信長による越前侵攻後に光秀が入手したと見られている。

  • 光秀は度々茶会で使用しており茶会記に登場する。

    天正六年寅正月十一日朝 惟任日向守殿會
    上様ヨリ元日ニ拝領ノ八角釜御開也、
    小板ホウアテ頬当風炉 八角釜、くさりニ、もつかう鈎、
    手水間椿絵、牧谿筆、上様ヨリ拝領、但、八椿、竹内伊予絵也、両花ノ絵也
    手水間床前之ラヽミ、四方盆式部少輔畠山維広かたつきカウ色之金襴ノ袋ニ、ヲアサギ
    籠棚霜夜ノ天目、台黒、三色しこめて、京ノ馬場所持之合子金色也
      人数 宗及 道是 宗訥 我等同道申候、
    一、茶堂、宗及いたし候、かたつき床へ及上候、
      後段過テ、手水間、床ノ絵モ肩衝モ内へ取入、
      床八重桜葉茶壺一ツ、白地金襴ノ袋ニ、ヲアサギ
    一、タウ茶碗ニ而薄茶 宗啓茶堂
      茶過テ、宗啓所持之茶壺モ見申候、
      從上様拝領ノ龍ノ段子ノヲヽイ

    天正八年十二月七日朝 惟任日向守殿會
                      人數  筒井順慶  津田宗及
      床 二重かぶらの花入に水仙生て、床に大燈の墨跡(中略)かたつき盆なしに、袋なしに、茶を入れて籠より取出し云々

    天正十年正月二十五日朝  惟任日向守殿會
                      はかた宗叱  津田宗及
      床にかたつき方盆、風爐平釜、上様より御拝領、始て手水間に、床に定家色紙、前に硯文臺、定家卿の所持也、手水の間にかたつき。水指の所へ引落て云々

  • のち本能寺の変の際に焼けたと思われていた。

    式部少輔かたつき 明智日向守所持 坂本に於いて火に入り失い候

家康➝森忠政

  • しかし経緯は不明ながら家康が入手していたようで、元和2年(1616年)に大坂の役で戦功のあった森美作守忠政に下賜されたと伝わる。ただし下賜時期については諸説あり、詳しくは「愛染国俊」の項を参照

    森忠政美作守、元和二年、東照宮より、愛染國俊の御脇差をたまはり、そののち青木肩衝の茶壺、また銀つくりの鉄砲二挺をたまふ
    (寛政重脩諸家譜)

  • 寛永11年(1634年)7月7日の美作守森忠政の死後、遺物として将軍家光に献上される。このときも「愛染国俊」と同時である。

    忠政君遺物、愛染国俊 の小脇差、青木肩衝茶入、北澗墨跡、右三品将軍家へ献上也

  • 明暦の大火で焼けるが大破せず残った。

姫路酒井家

  • のち酒井家に伝わる。酒井雅楽頭家については「酒井雅楽頭家の江戸藩邸」の項を参照
  • 大正9年(1920年)12月5日、高橋義雄が拝見している。

    大正九年十二月五日、東京市小石川區原町酒井忠正伯邸に於て實見す。

異説など

  • 青木肩衝は他の肩衝と混同されていることが多い。
    • 小出大和守のち後藤庄三郎所持の肩衝
    • 蜂須賀安房守所持の肩衝