名刀幻想辞典

役行者

役行者(えんのぎょうじゃ)

役小角(えんのおづぬ)
役優婆塞(えんのうばそく)とも
光格帝から神変大菩薩の諡号を賜る

生涯

  • 役小角は葛城の大族である賀茂氏の出だという。

    本居宣長は「小角の如き微賤しき者」とし、斎藤彦麿は「小角は葛城上郡茆原村の土民の子だという。
  • 古代大和には3つの勢力があったという。

    1. 北の生駒山を本拠とした長髄彦の勢力。これに九州から移ってきた饒速日が加わったという。饒速日の後衛である登美連により本つ社・登美神社をようやく維持するにとどまった。
    2. 東の三輪山を本拠とした三輪氏で、出雲から移ってきたという。大国主を祀る大神おおみわ神社を本つ社として大きな勢力を張るようになった。
    3. 西の金剛山を本拠とした賀茂氏。これも出雲出身である賀茂氏がこの地にいた葛城氏に代わって阿遅鉏高日子根を祀る高鴨神社を本つ社として発展した。
  • 舒明天皇の6年(634年)に生まれたという。父は出雲から入り婿した大角、母は白専女(伝説では刀良女とも呼ばれた)。

修験道の開祖

  • 修験道の開祖とされ、舒明帝の頃、葛木、箕面、熊野、富士、大峰などの深山を開いた。

  • 吉野山上ヶ岳の奥深く入り込み、千日の難行苦行の果てに憤怒の形相もおそろしい蔵王権現を感得、その法力を感得したことで修験道を確立した。その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして、桜の木に刻みこれを山上ヶ岳と吉野山に祀ったという。

  • 孔雀明王の呪術を修得し、生駒山に住んでいた前鬼後鬼(義覚と義賢ともいう)の二鬼神を駆使したという。二鬼神の子供は五人で、鬼熊、鬼童、鬼継、鬼助、鬼上という。

  • 白雉元年(650年)、16歳の時に山背国(後の山城国)に志明院を創建。翌年17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。

  • その後、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で法華経による山岳修行を行い(葛城二十八宿)、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。

  • 20代の頃に藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。命令に従わないときには呪で鬼神を縛った。人々は小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。高弟に典薬頭に任ぜられた韓国​​広足がいる。

  • 文武天皇の3年5月24日(699年)に、人々を言葉で惑わしているという韓国連広足からくにのむらじひろたりの讒言により伊豆島に流罪になるも、毎夜富士山に登って修行をし、遂に飛行術を会得したという。

    (文武天皇3年5月24日)三年丁丑五月廿四日。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。

    • 流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。あるいは島を抜け出して熱海市の東部にあたる伊豆山で修行し、また伊豆山温泉の源泉である走り湯を発見したともいう。
  • 讒言が明らかになり、2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺(大阪府箕面市)の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したという。享年68。

    石鎚山では、石鎚山の山中で亡くなったと伝える。

その後

  • 『日本現報善悪霊異記』では「役優婆塞」として登場する。

    • 役の優婆塞は大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役の優婆塞の謀反を讒言した。優婆塞は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆大島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になって天に飛び去った。道昭法師が新羅の国で五百の虎の請いを受けて法華経の講義をした時に、虎集の中に一人の人がいて日本語で質問してきた。法師は「誰ですか」と問うと「役の優婆塞」であると答えた。法師は高座から降りて探したがすでに居なかった。一言主は、役の優婆塞の呪法で縛られて今になっても解けないでいる。
      「日本現報善悪霊異記」は弘仁年間(810-824年)の成立で、ここに書かれる伝承が、のちの役小角伝承の根幹となっている。
  • 中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述より桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。こうした書物の刊行と併せて、種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている

  • 寛政11年(1799年)正月には、聖護院宮盈仁法親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言(烏丸光祖)を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。勅書は全文、光格天皇の宸筆による。聖護院に寺宝として残されており
    明治37年(1904年)8月29日旧国宝重要文化財)指定。光格天皇宸翰神変大菩薩号勅書 - 国指定文化財等データベース

    東山天皇113─┬中御門天皇114──桜町天皇117─┬後桜町天皇118
                     桃園天皇116──後桃園天皇118
         【閑院宮】
         直仁親王───典仁親王─┬光格天皇119──仁孝天皇120─┬孝明天皇121──明治天皇122
                      聖護院宮盈仁法親王  和宮親子内親王
    聖護院宮盈仁法親王は光格天皇の同母弟で、生母は大江磐代(蓮上院、明治天皇の高祖母にあたる) 。異父弟には、美仁親王(第三代閑院宮)、仁和寺宮 深仁入道親王、公璋入道親王、8代輪王寺宮門跡 公延法親王、周翰親王、妙法院宮 真仁法親王がいる。

       聖護院門跡役人觸書
    今般就高祖役小角御遠忌諡號之儀、正月廿五日御養父被上被仰立候處、即日勅許、二月十日勅使参向、可奉唱神變大菩薩之旨、以勅書被仰出、今般御法會之儀者、勅會御法事ニ被仰出、誠高祖冥慮、一派光輝、本山之御威徳与難有奉存、自今可奉崇神變大菩薩之旨、一派一同ヲ可令下知之旨被仰出候條、上件之趣能〻霞下修験一宗末〻至迄不洩様、一同敬
    承仕恐悦可申上之旨、可被相觸候事、
      
      未二月寛政十一年        岩坊(※法印)
                 雑務(※法印)
                 宰相(※今大路宰相)