細川護立


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 細川護立(ほそかわもりたつ)

日本の宮内官僚、政治家
従二位、勲二等
侯爵
号 晴川

  • 肥後熊本藩主を務めた細川家の第16代当主。
  • 財団法人永青文庫設立者。
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 生涯

  • 明治16年(1883年)、細川家14代当主(肥後熊本藩12代藩主)細川護久の四男として、東京府東京市小石川区高田老松町に生まれる。
  • 母宏子(旧姓鍋島)は佐賀藩主鍋島直正の四女。
    細川興文─┬興武
         ├謡台院(細川治年正室)                  ┌細川護成
         ├立禮(斉茲)─┬立之────┬立政(斉護)─┬護前(慶前)├長岡護全
         ├孝応     │      │       ├護順(韶邦)├細川護晃
         ├石川総彬   ├茲詮(斉詮)│       ├細川護久──┴細川護立──護貞─┬護熙
         └冬菊     └茲樹(斉樹)│       └護明(津軽承昭)        └近衞忠煇
                        └之寿(行芬)─┬細川立則───立興
                                └細川行真
    
         戸田氏共─孝子
               ├───英子(子爵長岡護孝)
            ┌─細川護成━━細川護立
    細川護久────┴─宜(伯爵松平直亮)
      ├─────┬─長岡護全        公爵近衛文麿娘
      宏子    ├─細川護晃【細川男爵家】   近衞温子
    鍋島斉正娘   └─細川護立            ├──┬細川護煕
    久邇宮朝彦親王     ├─────────┬─細川護貞 └近衞忠煇
       安喜子女王 ┌─池田博子       │   ├───細川明子(表千家千宗左)
         ├───┼─池田禎政       │ 松井薫子
       池田詮政  └─池田宣政       ├─敏子(伯爵葛城茂麿、のち中島昭吉)
                 ├──池田隆政  ├─雅子(伯爵寺島宗従)
               津軽富喜子  │   └─泰子(松井祥之)
                      │
            昭和天皇──┬─順宮厚子内親王
                  └─第125代天皇
    
    
    中島昭吉は中島知久平の甥。
  • 学習院在学中の明治31年(1898年)、護立は実兄で明治29年(1896年)に分家していた細川護晃の養子として細川男爵家の家督を相続する。
  • 明治39年(1906年)に学習院卒業、同年東京帝国大学法学部入学する。宮内省の内部部局である宗秩寮にて、審議官などを務めた。
  • 東京帝国大学を中退後、大正2年(1914年)10月7日、実兄細川護成の死去にともない、細川侯爵家の家督を相続し細川家16代当主となり、細川男爵家を廃家とした。貴族院議員。
    護立は4人兄弟の末っ子で、長兄の護成は明治26年(1893年)9月父護久の死去により家督を相続し貴族院議員に就任する。大正3年(1914年)死去。次兄の長岡護全は叔父長岡護美の養子となるが1904年日露戦争で戦死。三兄の細川護晃は男爵となり、細川侯爵家から分家して細川男爵家を立てるが17歳で早世した。護立はこの三兄の養子となるが、長兄の死後に肥後熊本細川宗家を継いだことになる。
  • 昭和4年(1929年)に国宝保存法が制定されると、国宝保存会初代会長に就任する。※昭和25年(1950年)に解散するまでの間。
  • 昭和11年(1936年)江戸時代から伝わる目白台の細川家下屋敷、7000坪に及ぶ地所に自邸を再建した。現在は財団法人和敬塾本館として使用されている。
  • 昭和15年(1940年)には美術振興調査会が設置され初代会長に就任、昭和21年(1946年)には日本美術協会顧問、昭和22年(1947年)国立博物館顧問などを歴任する。
  • 昭和25年(1950年)文部省の外局として文化財保護委員会(現、文化庁)が発足すると委員に就任し、同年に細川家伝来の美術品や古文書を保存する目的で財団法人永青文庫を設立している。翌昭和26年(1951年)には幣原喜重郎の後任として、東洋文庫の理事長も務めている。
    現在文化庁で行っている業務は文化財保護委員会で遂行されてきた。護立は昭和43年(1968年)に文化局と統合して文化庁が発足し業務移管されるまでその重責を果たし、日本文化の保護と振興に大きく貢献した。
  • 昭和45年(1970年)没。
    細川護立は亡くなるまで隠居をしておらず、当主であり続け華族制度の廃止まで爵位を譲っていない。このため息子の細川護貞は細川侯爵家の一員である侯爵令嗣(相続予定者)であった。


 逸話

 刀剣

  • 明治33年(1900年)、17歳の時に日本刀に接する機会があり、初めて入手したのが「光忠生駒光忠)」である。
  • その他、銘豊後国行平作(古今伝授の太刀)、無銘正宗名物庖丁正宗)、銘則重日本一則重)などは護立の蒐集した名刀で、いずれも国宝指定を受けている。

    護立が刀剣に興味を持ったのは十代の時で、家の御刀掛をしていた肥後金工・西垣家の末裔、西垣四郎作から鑑識を学び、小遣いを前借して最初に購入した刀が、のちに国宝に指定された「生駒光忠」でした。その後に蒐集した刀剣も3口が現在国宝に指定されています。
    永青文庫国宝の刀 ― 伝えられた武士の心」パンフレットより)

    生駒光忠を買うときは、お母様にお小遣いの前借りをして買ったのだということでしたから、どのくらいお借りになりましたとおたずねしたら、三百何十円だとのお話でしたよ。それが殿様が十何才かのときというのですからね。
    (薫山刀話)

    昭和13年(1938年)の時点で、古今伝授の太刀庖丁正宗日本一則重などが所蔵品として細川護立家政所「刀剣目録」に所載。

短刀
銘「安吉」。昭和8年(1933年)7月25日重要美術品認定。赤星鉄馬旧蔵
短刀
銘「國光」。昭和11年(1936年)9月12日重要美術品認定
無銘(傳光忠)。昭和12年(1937年)2月16日重要美術品認定
短刀
銘「來國光」。昭和12年(1937年)2月16日重要美術品認定
無銘(傳國安)。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
無銘(傳一文字)。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
太刀
銘「長光」。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
太刀
銘「備前國長船住人真長/正安二年十」以下切。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
無銘(傳行光)。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
金象嵌銘「兼光磨上光徳(花押)」。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
脇指
銘「備前國長船兼光/貞和三年十二月日」。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
無銘(傳長谷部国重)。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
太刀
銘「正次」。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品認定
  • 大正10年(1921年)に遊就館に出陳された中に下記3口がある。
    • 太刀 銘 豊後行平(國寶)
    • 短刀 銘 則重(國寶)
    • 貞宗 長サ一尺五分、表劍、裏ゴマ箸、代金二十枚、貞享二年の折紙
  • こうして蒐集された名品は、細川家伝来の品々とともに、護立コレクションとして永青文庫で展示・公開されている。

 水戸家に行った刀剣の話

  • 児手柏清水藤四郎について、水戸徳川家小梅邸(下屋敷)にまで見に行ったという思い出話。この後に関東大震災で焼けてしまう。

    それからこれも非常に欲しかったのだけれでも(ママ)、水戸徳川家にある大和包永、児手柏…。(略)それから粟田口吉光、と今一振。これらは非常に神聖なものとして、代々の主人でないと触ることができないのだ。倉の一方に棚がつってあって、注連縄が張ってある。そこに置いてあるのだ。しかも児手柏粟田口吉光はぼくのうちから行ったものなんだ。
    (略)
    だから水戸の徳川さんに逢ったとき「きっと将軍家の勢いでお取上げになったのだろうから、君のところにある三本の神聖な刀の中で二本僕のうちから行っているのだから、せめて一本でもいただきたい」と言ったが、「これはどうも、そんなわけだからあげるわけには行かぬ。しかしそういう御因縁なら喜んでお目にかけるから、本所の小梅に来てくれ」と言われた。それでぼくはかねて刀のことで、お世話になっている松平頼平さんと同行した。そして二人でその刀を拝見したが、とにかく児手柏というのは有名なものだし、粟田口吉光もまた有名なもので、何れも実に結構さは申分がない。すると松平さんが横から「一本ぐらいどうです」とか何とか言ったので徳川さん考えたね。すると傍にだれかいて「そうです。御名刀です」というので、その時分で一億万円ぐらいではいかがですと言うんだ。(笑声)それで僕は早速それなら頂きましょうと言った。そして年賦で、何百年か何千年かかかっても払いますからと冗談を言ったのだ。(笑声)その後間もなくかの大震災で焼けてしまった。

 文化面

  • 若い頃から学術・芸術仲間との交流を盛んに行い、志賀直哉や武者小路実篤、柳宗悦などとの(いわゆる白樺派)文芸運動に始まり、無名だった横山大観や菱田春草などを支援して近代日本画の草創につなげている。
  • 白隠禅師の書画研究と蒐集、横山大観ら日本近代画、そして優れた審美眼によって蒐集された中国考古品や石仏等は、「細川護立コレクション」として広く知られ、日本の超一流の美術コレクションといわれている。
  • のちに文化勲章を受章した堅山南風や人間国宝の高野松山など、芸術、学術分野の支援をはじめ、有斐学舎に大きな財政支援をしながら向学に燃える熊本の若者を終生支援し続けた。

 熊本への支援活動

  • 護立は、また地元熊本への支援も惜しみなく行っている。大正3年には児童奨学金に1万円を支援(当時、県庁職員の初任給が10円程度)、また熊本医学専門学校基金や熊本薬学専門学校、さらに熊本師範学校などにも支援を行っている。
  • 神社仏閣でも、藤崎八幡宮、阿蘇神社、加藤神社、出水神社、代継宮など県下の多くの神社仏閣の修復支援を行った。

 系譜

  • 夫人は池田詮政(岡山藩池田家第13代当主)の長女博子で一男三女を設けた。
  • 男子が近衞文麿の下で内閣総理大臣秘書官を務め、父同様に美術愛好家として知られた細川護貞。
太刀
銘「備前國長船住近景/建武二年五月日」。昭和8年(1933年)1月31日重要美術品認定。井坂誠之氏旧蔵、細川護貞氏所蔵。昭和17年(1942年)6月26日旧国宝指定。昭和55年(1980年)の「国宝重要文化財総合目録」では高橋シヅ子氏所蔵(細川護貞氏旧蔵)
短刀
銘「備州長船住景光/元徳三年五月日」昭和9年(1934年)3月20日重要美術品認定。東京若杉繁一郎氏旧蔵、細川護貞氏所蔵。
太刀
銘「一」。昭和9年(1934年)7月31日重要美術品認定。東京若杉繁一郎氏旧蔵、細川護貞氏所蔵。
  • 護貞は公爵近衛文麿(元内閣総理大臣)の娘近衞温子を最初の夫人とし、子に第79代内閣総理大臣の細川護熙(現、永青文庫理事長)と、近衛家を相続した近衛忠煇がいる。温子は結核により早世。のち旧熊本藩筆頭家老家の松井薫子を後妻に迎え、一人娘の細川明子は表千家千宗左に嫁いだ。

 参考

 関連項目


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