京都新城


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 京都新城(きょうとしんじょう)

  • 当然ながら「京都新城」は現代の歴史学における呼称であり、当時は新城、京之城、太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと記されている。
  • 晩年の秀吉が京都に築いた城。
  • 秀吉の死後は高台院屋敷となり、のち後水尾天皇の仙洞御所となった。
Table of Contents

 概要

 秀吉の京都新城

  • 豊臣秀吉は御所参内の都合上、慶長2年(1597年)4月に京都新城を土御門第跡(現在の仙洞御所の位置)に着工しており、8月に完成する。
    当初同年正月末頃に造成を開始したのは「下京三条下四条之間」「三条坊門ヨリ四条坊門マデ四町、又西ハ東洞院ヨリ東へ四町也」であったが、4月26日になると「北土御門通ヨリ南ヘ六町、東ハ京極ヨリ西ヘ三町也」と北へ移転していることがわかる。

    京都市埋蔵文化財研究所による2019~2022年にかけての発掘調査により、京都新城の推定位置は、現在の京都御苑の大宮御所に加えて北西は有栖川宮旧邸跡、南は(京都御苑の域外である)京都地方裁判所南側の竹屋町通まであったとされる。これによれば広さは南北およそ800m東西およそ400m、敷地面積は32万平方メートルという広大な規模となる。
  • しかし既に体調が悪くなっていた秀吉は、京都新城には数度訪れたのみで、多くを伏見城(木幡山伏見城)で過ごした。完成後、京都新城に入った秀頼は、翌々日に参内して従四位下・左近衛權少将に叙任されており、さらに翌日には左近衛權中将へと進んでいる。この後、秀頼ノ御殿あるいは秀頼卿御城などと呼ばれるようになっており、このことから残される秀頼のために築いたのではないかとも見られている。

 高台院屋敷

  • 秀吉の死後、慶長4年(1599年)9月より京都新城には北政所が居住し、高台院屋敷として用いられた。

    廿六日、壬申、天晴、
    大坂ヨリ政所(秀吉後室浅野氏)禁中辰巳角
    故太閤殿中ヘ今日御上洛也、

    家康が伏見城西の丸から大坂城二の丸に移ることに伴い、二の丸に居た北政所が京都新城に移ることになった。

  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前には、大津城の戦いから本戦前にかけて、城門や塀が撤去され城域は縮小された。関ヶ原の戦い直後9月17日には、北政所は御所の勧修寺晴子の屋敷に逃げ込んでいる。
  • 関ヶ原勝利後、家康は慶長6年(1601年)12月ごろから大宮押小路に二條城(現在の元離宮二条城)を築いており、その際にこの京都新城から部材を運んでいる。

    初秀吉之館在京極朱雀、神君毀之、而移造二條城

  • 北政所はのち新城改め高台院屋敷へと戻り、亡くなるまでここで過ごした。
  • 寛永元年(1624年)9月6日に高台院が死ぬと甥の木下利房が住んだ。

    豊臣秀吉の後室高台院「杉原氏」薨ず、幕府、其知行一万六千石を収め、三千石を木下利三に与へ、京都東山五百石の地を山城高台寺に寄進す、

    木下利三とは、備中国足守藩主木下利房の次男木下利次のこと。大叔母の高台院の養子となって「羽柴利次」となり、高台院のもとで養育されていた。高台院の死後、苗字を「木下」に改め旗本となっている。

  • なお京都新城(高台院屋敷)の遺構は残っておらず、その移築先はよくわかっていない。ただし、古来西本願寺の飛雲閣は秀吉の遺構であり高台院屋敷より移したものだという伝承があり、それを裏付ける史料などがある。さらに、西本願寺唐門および醍醐寺三宝院の唐門なども同様に京都新城より移築されたものと見られている。

 仙洞御所(桜町殿)

  • 寛永4年(1627年)に幕府は譲位した後水尾天皇の仙洞御所(桜町殿)の造営を開始、この京都新城(高台院屋敷)の地が選ばれた。のち北西に東福門院和子の女院御所(大宮御所)も造営された。
    【後水尾天皇中心系図】
    
                   ┌貞子内親王(二条康道室)
                   ├一条昭良(一条内基養子)
                   ├高松宮好仁親王【高松宮創始】
                   ├近衛信尋(近衛信尹養子)  ┌女五宮( 二条光平室)
                   ├清子内親王(鷹司信尚室)  ├高仁親王
                   │              ├女二宮(近衛尚嗣室)
                   │徳川和子(東福門院)────┴興子内親王(明正天皇)
                   │ │            ┌賀茂宮
                   │ │  四辻与津子─────┴文智女王
          後陽成天皇    │ │   │
            ├──────┴政仁親王(後水尾天皇)
    近衛前久─┬近衛前子       │   │   │
         └近衛信尹━━近衛信尋 │   │  園光子────紹仁親王(後光明天皇)
                     │  園国子───────┬常子内親王(近衛基熙室、徳川家宣御台所近衛熙子の母)
                     │            └識仁親王(霊元天皇)───┬朝仁親王(東山天皇)
                   ┌櫛笥隆子──────────┬良仁親王(後西天皇)   ├有栖川宮職仁親王
               櫛笥隆致┼貝姫(伊達忠宗側室)──綱宗└穏仁親王(第3代八条宮) └吉子内親王   
                   └山内忠義継室       
    
    
    本来”仙洞御所”は、譲位後の天皇が内裏から退去した後に移る御所を指す一般用語。院とも呼ばれ、譲位後の天皇は仙洞御所、あるいは院などと呼称されてきた。大宮御所も同様に、皇太后(大宮)の女院御所を指す一般用語。
     この仙洞御所(桜町殿)は、後水尾上皇以後、光格上皇まで使用された。慶応3年(1867年)には仙洞御所と大宮御所の間の塀を取り払い、仙洞御所の敷地と庭園が大宮御所に組み込まれている。
  • 寛永後萬治前洛中絵図 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
    寛永19(1642)年頃の京都全図。地図は90度回転しており、図面右側が北。
  • のち霊元上皇、中御門上皇、桜町上皇、後桜町上皇、光格上皇の仙洞御所とされた。
    明正上皇の院御所(仙洞御所)は延宝度内裏の北側に造営された。また後西上皇(後西院)の院御所は延宝度内裏の南側、また東山上皇も宝永度内裏の南側の後西院御所とほぼ同じ場所に院御所を構えている。
  • 光格上皇が天保11年(1840年)11月に崩御された後、安政元年(1854年)の火災で消失したが、以後は上皇が不在であったため仙洞御所は再建されずそのままとなった。

 現在

  • 現在、仙洞御所および大宮御所は、京都御所などと共に環境庁が管理する国民公園「京都御苑」の中にある。
    東京赤坂御用地内にある吹上大宮御所と区別するため、「京都大宮御所」と呼ばれる。
  • なお京都御所、仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁により管理されている。また仙洞御所には庭園のみが残る。
  • 2020年5月、京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査により、本丸を囲う石垣や堀が、京都市上京区の京都仙洞御所内の発掘調査で見つかったと発表された。
  • それによれば、石垣は自然石を積み上げた野面積みで、南北8メートル分が見つかった。下半分の3~4段が残る一方で、上半分が意図的に壊されており、当時の高さは2.4メートルほどあったとみられている。さらに石垣と同規模の堀も見つかり、多量の土や小石で一気に埋められていた。埋土には石垣を落とした転落石が含まれ、石垣も埋め立てと同じころに壊されたとみられるという。

 京都新城及び仙洞御所(桜町殿)の歴史

  1. 【慶長2年(1597年)】
    ・正月:京都新城(太閤御所・太閤上京御屋敷)着工
    当初1月23日に三条坊門より四条坊門まので四町、東洞院より東に四町の範囲と定め立ち退きを命じている。その後4月26日には土御門より南に六町、東は京極より西へ三町と定め直している

    ・8月:京都新城完成
    ・9月26日:京都新城が完成したため、秀吉、秀頼・家康らと入京、秀頼移徙。秀頼は28日に参内して従四位下・左近衛權少将に叙任され、さらに翌日には左近衛權中将へと進んだ。

    太閤同若公等御上洛了、江戸内府御供也

    秀頼禁裏辰巳角新宅御移徙諸大名共々奉來、廿八日御参 内御元服云々

    同日に結城秀康(羽柴秀康)及び前田利長(豊臣利勝)も従四位下・参議に叙任された。
  2. 【慶長3年(1598年)】
    ・3月15日:醍醐の花見
    ・4月24日:秀頼、京都新城で公家衆の祝賀を受ける
    ・5月1日:秀吉上洛。のち秀頼と共に伏見城入り
    ・8月18日:秀吉、伏見城で薨去
  3. 【慶長4年(1599年)】
    ・9月:北政所、奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに大坂城より京都新城へと移徙(高台院屋敷)
  4. 【慶長5年(1600年)】
    ・8月29日:大津城の戦いから関ヶ原の戦い本戦前にかけて、城門や塀が撤去され城域は縮小された(関ヶ原の戦い)

    京都城今日ヨリ破云々禁裏御近所故也

    禁中巽方秀頼卿御城ヲ南西御門崩了、内屏毎日払崩也

    ・9月17日:木下家定(高台院実兄)、大坂城より駆けつけ高台院屋敷を護衛。高台院は勧修寺晴子の屋敷に避難した
    ・9月19日:小早川秀秋、入京して勧修寺晴子の屋敷にいた北政所を訪ねる
  5. 【慶長6年(1601年)】
    ・この年:北政所、京都の邸に家康を招き饗応する
    ・12月:家康、大宮押小路に二條城(現在の元離宮二条城)を築いており、その際にこの京都新城から部材を運んでいる

    初秀吉之館在京極朱雀、神君毀之、而移造二條城

  6. 【慶長7年(1602年)】
    ・5月18日:伝通院(於大の方)、北政所の邸に訪ねる
  7. 【慶長8年(1603年)】
    ・北政所、秀頼と千姫の婚儀後、落飾し朝廷より「高台院」の院号を賜る

    北のまん所殿ゐんかうの御事、かうたい院(高台院)とお御事、ちよつきににておはしまし候よし、心候て申候へく、かしく
       たれにてもの
           人々
              申給え

    ・1月28日:北政所、大坂より京都に戻る
  8. 【慶長10年(1605年)】
    ・6月28日:高台院、京都寺町康徳寺を東山に移し、高台寺を建立
    ・10月2日:高台院、大坂に赴く
    ・10月20日:高台院、大坂より戻る
  9. 【慶長11年(1606年)】
    ・この年:弓箴善彊を開山として高台院が落成
  10. 【慶長19年(1614年)】
    ・4月:徳川和子の入内宣旨
    しかし、大坂の陣、元和2年の家康薨去、元和3年の御陽成院崩御などが続いたため延期され、元和6年6月18日に入内した。
  11. 【慶長20年/元和元年(1615年)】
    ・大坂の陣:北政所、秀頼との交渉に出向こうとするが、幕府の命により甥の木下利房が護衛の名目で監視役に付けられる
  12. 【元和4年(1618年)】
    ・この年:予定されていた徳川和子入内に向け、女御御殿の造営を開始
    ・10月5日:後水尾天皇、典侍四辻与津子との間に第一皇子賀茂宮を儲ける ※賀茂宮は元和8年(1622年)10月2日に夭折
    四辻家(室町家)
    四辻家はもと室町家といい、藤原北家閑院流。西園寺家の一門で、西園寺公経の四男、室町実藤によって創立された。西園寺家・洞院家・清水谷家とともに西園寺流四家のひとつとされる。
     2代将軍足利義詮に室町家本邸であった「花亭」を譲っており、のち崇光上皇に献上され御所となったため花の御所と呼ばれた。3代将軍足利義満は、隣接する菊亭のあった敷地と合わせてこの地に室町第(花の御所)を築いている。四辻家は、”室町殿”と称された足利将軍家に配慮して四辻を名乗るが、明治期に室町へと戻している。

    四辻与津子は、女房名お与津御寮人。大納言典侍、また一位局。院号は明鏡院。
     姉の桂岩院は上杉景勝の側室となり、上杉定勝を生んでいる。また姪の四辻継子も後水尾天皇の典侍となっており、第十二皇子の尊光法親王、第十八王子盛胤法親王、第十六皇女の文察女王を生んでいる。
    四辻公遠─┬桂岩院(上杉景勝側室)
         ├鷲尾隆尚 ※始め四辻家を相続(四辻季満)のち鷲尾家を相続
         ├小倉季藤
         ├四辻季継──────┬四辻公理
         │          ├本誓寺宣継
         │          └四辻継子(後水尾天皇典侍)
         ├猪熊教利 ※始め高倉家、のち山科を改め猪熊。慶長14年に猪熊事件で斬刑
         ├猪熊季光───────山浦玄蕃 ※公家でただ一人の殉教者
         ├藪嗣良───────┬藪嗣孝
         │          ├中園季定
         │          └小倉実起
         └四辻与津子(後水尾天皇典侍)
    
  13. 【元和5年(1619年)】
    ・6月20日:後水尾天皇、典侍四辻与津子との間に第一皇女梅宮(沢宮とも。文智女王)を儲ける
    前年の皇子誕生は、同年5月に上京していた秀忠の知るところとなり、さらに与津子が懐妊していることを知った秀忠は激怒する。これにより徳川和子の入内は延期され、万里小路充房、与津子の実兄である四辻季継・藪(高倉)嗣良らが配流とされ、天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止とした。これに後水尾天皇は憤激して譲位しようとするが、藤堂高虎が天皇を恫喝した上で与津子の追放・出家を強要することで事件を収めた(およつ御寮人事件)。四辻与津子は落飾して明鏡院と号し、嵯峨に隠棲したという。
  14. 【元和6年(1620年)】
    ・6月18日:徳川和子、入内
  15. 【元和9年(1623年)】
    ・1月9日:後水尾天皇、中宮徳川和子との間に第二皇女である女一宮(興子内親王、明正天皇)を儲ける
  16. 【寛永元年(1624年)】
    ・8月9日:高台院、不例
    ・9月6日:高台院没。京都新城には木下利房が住んだ

    豊臣秀吉の後室高台院「杉原氏」薨ず、幕府、其知行一万六千石を収め、三千石を木下利三に与へ、京都東山五百石の地を山城高台寺に寄進す、

    ・9月23日:高台院葬儀
    ・この年:行幸に向けて二條城(現在の元離宮二条城)で行幸殿の造営開始
  17. 【寛永3年(1626年)】
    ・9月6日:後水尾天皇、二条城へ行幸
    ・この年:後水尾天皇、大徳寺・妙心寺などの僧に紫衣の勅許を出す
  18. 【寛永4年(1627年)】
    ・7月:紫衣事件
    幕府は、慶長18年(1613年)及び慶長20年(1615年)に「勅許紫衣之法度」及び「禁中並びに公家諸法度」を出し、従来朝廷の権限であった紫衣の勅許を事実上禁じていた。しかし後水尾天皇はこれに従わず、寛永3年(1626年)に大徳寺・妙心寺などの僧に紫衣の勅許を行ったことから、この年将軍秀忠は、これらの紫衣勅許を無効と宣告し、朝幕間は一気に冷え込むこととなった。
     これらは秀忠の死後、寛永9年(1632年)に大赦令により赦され、寛永18年(1641年)には大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡された。

    ・11月:幕府、後水尾天皇の仙洞御所(桜町殿)の造営を開始
    京都新城の地が仙洞御所の敷地に選ばれ、小堀遠州を作事奉行に任命した。「桜町殿」とは、かつてこの場所に住んだ藤原成範(少納言・藤原通憲(信西)の三男)が、桜を愛し屋敷内に多数の桜を植えたことで桜町中納言の名で呼ばれたことにちなむ。
  19. 【寛永5年(1628年)】
    ・この年:二条城の行幸殿を始めとした建物が、仙洞御所に移された
  20. 【寛永6年(1629年)】
    ・10月10日:春日局、御所への昇殿を強行
    春日局は無位無官であるためその資格を持たず、当初は育ての親でもある三条西公国の養女となろうとするも既に他界していたため、息子の三条西実条と猶妹の縁組をして公卿三条西家(藤原氏)の娘となって参内する資格を得た。これにより「三条西 藤原福子」として同月10日に参内。後水尾天皇や中宮和子に拝謁し、従三位の位階と「春日局」の名号、及び天酌御盃をも賜った。

    ・11月8日:後水尾天皇、幕府に事前の連絡なく女一宮(興子内親王、明正天皇)に譲位
    この時仙洞御所の工事が終わっていなかったため、実際には翌寛永7年(1630年)12月に女院御所(禁裏北殿仮仙洞)から下御所へと移徙している。
  21. 【寛永7年(1630年)】
    ・12月10日:後水尾上皇、新御所へ移徙
  22. 【寛永8年(1631年)】
    ・1月19日:仙洞御所にて和歌会始
  23. 【寛永11年(1634年)】
    この年から:寛永11年~寛永13年にかけて、後水尾上皇は仙洞御所の庭園を好みに合わせ改修している。この時も作事奉行は小堀遠州が承っている

 秀吉が京都に築いた城

  • 豊臣秀吉が京都に築いた城としては、ほかに聚楽第および二条第(妙顕寺城)がある。
    聚楽第
    聚楽第は天正14年(1586年)2月に着工、翌天正15年(1587年)9月に落成。九州征伐後に秀吉は聚楽第へと移り、政庁とした。天正16年(1588年)5月には後陽成天皇の行幸を迎えている。天正19年(1591年)、家督および関白職を秀次に譲ると聚楽第も秀次の邸宅と成る。しかし秀吉は、文禄4年(1595年)7月に秀次を高野山に追放して自害に追い込むと、翌8月から聚楽第を破却し、その部材は指月伏見城および支城である向島城に運ばれた。

    二条第(妙顕寺城)
    秀吉は、信長在世中にも二条御新造(信長の築いた宿所、のち誠仁親王の御所)の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている。
     天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。

 関連項目


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