長刀鉾の長刀


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 長刀鉾の長刀

祇園祭の山鉾「長刀鉾」の鉾先につけられている長刀

Table of Contents

 概要

  • 祇園祭の山矛巡行の先頭をきる長刀鉾の長刀は、もともとは宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し祇園社(八坂神社)に奉納したものであった。
    八坂神社(やさかじんじゃ)
    八坂神社は、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。「祇園さん」として親しまれている。
     当初は興福寺の末社であったが、10世紀末に戦争により延暦寺がその末寺としている。さらに1384年、足利義満が祇園社を比叡山から独立させた。
     元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院(かんじんいん)」などと呼ばれていたが、慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止により、「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改めた。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に官幣中社に列格し、大正4年(1915年)に官幣大社に昇格した。
     楼門や本殿、石鳥居が重要文化財に指定されている。中でも本殿は、一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を、1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式をとり、「祇園造」と呼ばれている。
  • その後、大永2(1522)年には三条長吉作のものと取り替えられ、さらに延宝3(1675)年には和泉守来金道作(日本鍛冶宗匠の項参照)のものとなった。
  • 現在は安全面の観点から、漆とプラチナ箔を施した竹製の模造品を用いている。

 初代長刀

三条小鍛冶宗近の作

  • もともとは宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し祇園社(八坂神社)に奉納したものであったとされる。貞観は859~877年まで。

    此の長刀は貞観年中疫病流行せし際、三條小鍛冶宗近の愛女も其病に罹り一命も殆んど危ふかりしを小鍛冶甚く之を愛憐しいかで此病平愈せば太刀を鍛錬して奉納せむと祇園社に祈誓せしに其病愈しかば甚く喜びて草薙の御劍に形どり心を籠めて打鍛へ洛東感神院(祇園感神院=八坂神社のこと)へ奉納せし長刀なり

  • その後、元暦文治(1184-1190)の頃に日蓮宗の門徒が騒乱を起こした際に、追討の命を受けた和泉小次郎親衡が我が身に適した太刀がないことを残念に思い、感神院奉納の長刀が三条小鍛冶宗近作であることを聞き及びこれを借り受ける。しかし武器としての用途には向かなかったため(あるいは不思議のことが起こったため)、長刀の中心に「甲州住人和泉小次郎親衡奉返納之」と彫り付けた上で、改めて感神院に奉納したという。
    この「和泉小次郎親衡(泉親衡)」は鎌倉時代初期の信濃の武将で、鎌倉御家人。のち建暦3年(1213年)、源頼家の遺児・千寿丸を鎌倉殿に擁立し、執権北条義時を打倒すべく他の御家人に呼びかけるが計画が露見。直ちに遣わされた捕縛の使者と合戦に及ぶが混乱に乗じて逐電し、その後行方不明となった。
     泉親衡は祇園神ともされる牛頭天王を祀った須賀神社(「和泉の天王様」、横浜市泉区)を創建しており、何らかの関連を伺うことができる。なお祇園祭の長刀鉾の鉾の中心に聳え立つ「真木」の中程にある「天王座」には、この和泉小次郎親衡の衣裳を着た人形が祀られている。
  • 現存しているが、秘宝とされ非公開。拓本が存在し、こちらは下京区松原中野町の町家に扁額として保存されているとされる。
  • 大永2年(1522年)、京都に疫病が流行り死者が多数出た際に、ある人が祇園社に祈祷を依頼し、さらに宝剣を借り受けたところ、その町内ではみな病気が治ったという。それが現在の長刀鉾町であるという。
    この「大永2年(1522年)」は、二代長刀の銘に刻まれた年号と同じであり、恐らくは二代目の話ではないかと思われるが詳細は不明。

 二代長刀

長刀
銘 平安城住三条長吉作/大永二年六月三日
切付銘 去年日蓮衆退治之時分捕仁仕候於買留申奉寄附感神院江所也 願主江刕石塔寺/之麓住鍛冶左衛門太郎助長 敬白 天文六丁酉歳六月七日
長刀鉾保存会所蔵

  • 室町時代には、大永2年(1522年)に三条長吉が造った長刀が二代目として使用されるようになった。
  • さらにのち、三代目の長刀が作られた際には、この二代目長刀は神品として厳重に保管された。
  • 以後箱から出されることはなく、毎年7月10日に行われる「おさすりの儀」でのみ使用されてきたが、2018年に初めて学術調査が行われ詳細が判明した。
    おさすりの儀は、毎年7月10日に長刀鉾町で行われる儀式のひとつ。一般には非公開。鉾先につける長刀で町役の背中を擦ることで、邪気を払い清める目的があるとされる。現在長刀鉾には竹製の模造品が使用されているが、この儀式では二代目の長刀が使われているとされる。
  • それによると、全長147センチ、刃渡り114センチ。目釘孔2個。
  • 茎の表裏に銘があり、表に「平安城住三条長吉作/大永二年六月三日」と後三条派長吉の銘が入る。裏には「去年日蓮衆退治之時分捕仁仕候」「買留申奉寄附感神院(感神院は八坂神社のこと)」と、天文5年(1536年)の天文法華の乱(法華一揆)の際に延暦寺の僧徒や六角定頼らの軍勢により鉾町から略奪されたが、のち石塔寺(いしどうじ)近くに住んでいた石堂派の祖である助長が見つけ出して買い取った上で、天文6年(1537年)6月7日に感神院(八坂神社)に返納したという経緯が刻まれている。
    この返納した人物「左衛門太郎助長」は石堂派の祖とされる刀工だが、詳細がわかっていない。一説に長享元年(1487年)に足利義尚が佐々木高頼征伐のために栗太郡鈎に陣を構えた際(鈎の陣)に、備前長船から呼び寄せられた刀工集団のひとりとされ、陣後に石塔寺近くに住して石堂派を開いたという。のち石堂派は、紀伊や山城、長門、武蔵など各地に分かれ、新刀期~新新刀期に大坂石堂派(多々良長幸ら)、江戸石堂派(石堂是一ら)が活躍した。

 三代長刀

長刀
銘 和泉守藤原來金道/大法師法橋來三品栄泉 延宝三年二月吉日
長刀鉾保存会所蔵

  • 三代目の長刀は、三品派の来金道により造られたもの。延宝3年(1675年)の銘が入る。
    「和泉守」としているため、初代伊賀守金道の弟の系統の3代来金道ではないかと思われる。父(2代越後守金道)同様に「大法師法橋」を切ったとされ、三代長刀にもそれが見えるため、作刀は3代来金道によるものと思われる。→「日本鍛冶宗匠」の項を参照。

小鍛冶宗近が作の長刀なりしが今は用ゐず當今用ゆる長刀は和泉守金道大法師榮仙合作なり

  • ただし落下の恐れがあることから、現在は漆とプラチナ箔を施した竹製の模造品を用いている。


 祇園祭(ぎおんまつり)

  • 祇園祭は八坂神社(祇園社)の主要な祭礼であり、毎年7月1日から1か月間にわたって行われ、京都の夏の風物詩となっている。特に祭りのハイライトとなる山鉾巡行は毎年多くの観光客を集めている。明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれていた。
  • 祇園祭の起源は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから八坂神社の祭礼として毎年行われるようになった。室町時代に比叡山から独立した後は、京の町衆により行われるようになり、現在に至っている。

 山鉾巡行

  • 7月17日の神幸祭で街中の御旅所に神輿でお出ましに、また7月24日の還幸祭で神社にお帰りになる神体の通行の前に、町衆が予め町・通りを清めるために始められた。そのため、7月17日の前祭(さきまつり)と7月24日の後祭(あとまつり)の2つの巡行が生まれた。
  • 元々は付け祭りであったが、町単位で山鉾が出されたため各町が贅を競い合うようになり、京の町衆の財力を背景にこちらの方がはるかに大規模で豪華になった。
  • 山鉾は、その形から5つに分類され、数の多い順に「舁山(かきやま)」「鉾(ほこ)」「曳山(ひきやま)」「船鉾(ふねほこ)」「傘鉾(かさほこ)」の5種類がある。
  1. 【舁山(かきやま)】:御神体人形(祠に御神体を祀る所もある)を乗せ、それによって中国や日本の故事・謡曲などの一場面を見せる趣向を主とし(町内に祀られている神仏を乗せる所もある)、人が舁いて(担いで)巡行する。現在は人手不足を理由に補助輪を付けて押している。
    前祭:保昌山・孟宗山・占出山・山伏山・霰天神山・郭巨山・伯牙山・芦刈山・油天神山・木賊山・太子山・白楽天山・蟷螂山
    後祭:橋弁慶山・鯉山・浄妙山・黒主山・役行者山・鈴鹿山・八幡山
  2. 【鉾(ほこ)】:真木(しんぎ)という中心の柱を疫神の依代とし(これ自体がいわゆる「鉾」)、それが大型化して乗り物となり、稚児や囃子方を乗せる形となったもの。真木の先端には「鉾頭」という鉾ごとに異なる形のシンボルが取り付けられている。
    前祭:長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・月鉾・菊水鉾・放下鉾
  3. 【曳山(ひきやま)】
    鉾同様に車輪を付け綱で引いて動かし、鉾のように囃子方も乗せている。鉾との最大の違いは屋根の上に舁山同様に真松を立てていることである。後祭の曳山の松には木彫の鳥が取り付けられる。
    前祭:岩戸山
    後祭:北観音山・南観音山・(休み山)鷹山
  4. 【船鉾(ふねほこ)】:鉾というが真木を立てない点で他の鉾と一線を画し、形が船という独特の構造をしている。独特な形の複雑な屋根を持つ。
    前祭:船鉾
    後祭:大船鉾
  5. 【傘鉾(かさほこ)】:踊りの列や囃子方を有し、それらが大きな傘である鉾と一体で歩く行列である。鉾に乗ることはできないが鉾の古い形態と言われる。
    前祭:綾傘鉾・四条傘鉾

もう一つの休み山である布袋山(ほていやま)については、1500年(明応9年)に巡行に参加したという記録があるが、江戸中期の宝暦年間(1751年 - 1763年)より不参加と言われ、1788年(天明8年)の「天明の大火」で御神体の布袋尊と二童子のミニチュアを残し焼失。このためどんな趣向の山であったか分からず、謎に包まれている。

 くじ取り式

  • 山鉾の巡行順序は毎年くじ引きによって決められる。これは応仁の乱後の1500年(明応9年)頃に、中断していた祇園祭を復興するにあたり山鉾巡行の順番を巡って争いがおきたため、争いを収めるために室町時代の当時の侍所開闔(かいこう、書類・文書の出納・勘査を行っていた役人)であった松田豊前守頼亮の私宅でくじ取りを行ったものが始まりとされる。
  • その後長らく六角堂で開催されてきたが、1953年(昭和28年)から京都市役所の市会議場で開かれるようになった。この神事は現在も続いており、当代の京都市長が裃姿の松田頼亮役として参加している。

 くじ取らず

  • ただし、全ての山鉾がくじを引くわけでなく、くじを引かずに予め順番が決まっているものもあり、これを「くじ取らず」という。時代と共にその数と順序に変遷があるが、現在「前祭」に5基、「後祭」に4基のくじ取らずがある。
    • 前祭においては、先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目の船鉾(前祭巡行の最後)。
    • 後祭においては、先頭の橋弁慶山、2番目の北観音山、6番目の南観音山、10番目の大船鉾(後祭巡行の最後)が「くじ取らず」である。
    • 後祭は従来、先頭の橋弁慶山、最後尾の大船鉾、その一つ手前の鷹山だけがくじ取らずであったが、隔年で出る申し合わせだった2基の観音山の内、南観音山が大火の被害甚だしく不出となった折、北観音山が連続して巡行に出、その後南観音山が復帰した後にも両観音山は同時に参加することとなった1872年(明治5年)以降、先頭に北観音山(必然的に橋弁慶山は2番に後退)、最後尾に南観音山を配置し、これらをくじ取らずに加えた。
    • しかし、142年ぶりに大船鉾が唐櫃で巡行に復帰した2012年(平成24年)にこのくじ取らずの順序の見直しがなされ、後祭の先頭は140年ぶりに橋弁慶山に戻り、2番目が北観音山、最後だった南観音山は6番目に移り、かつて後祭の最後に巡行していた大船鉾が、復活後も最終に巡行することになった。
    • 将来鷹山が復活した時は、大船鉾の直前を行くくじ取らずとなる予定である。
      • 2022年、鷹山が196年ぶりに復活することになった。文政9年(1826年)の大雨で装飾品が汚れ、蛤御門の変でほとんどの部材が焼失したことから1826年を最後に休み山となっていた。ただし後山11基の10番目の順列となった。くじ取らずは橋弁慶山。

 長刀鉾(なぎなたほこ)

  • 山鉾巡行において、毎年先頭を巡航する鉾(くじ取らず)。
  • 数ある山鉾の中でも最も古くに創建されたもので、鉾先(鉾の天辺)に疫病邪悪を払う大長刀をつけていることから「長刀鉾」と呼ばれている。この大長刀の初代長刀は、三条小鍛冶宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し祇園社(八坂神社)に奉納したものであったとされる。
  • 現在生稚児が乗る鉾はこの長刀鉾のみとなっており、他の鉾には稚児人形が乗っている。長刀鉾が四条麩屋町に差し掛かると、張られた注連縄を稚児役の児童が太刀で切る「注連縄切り」の儀式が行われる。
  • 一般にTV報道で京都の「祇園祭」として紹介される映像では、この長刀鉾の巡行及び注連縄切りのシーンがよく使われている。

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