斎藤茂一郎


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 斎藤茂一郎(さいとう もいちろう)

大正・昭和の実業家
戦前の大コレクター

戦前の著名な実業家であり、かつ「鳴狐」を始めとする多くの刀剣の所持者でありながら、Wikipediaなどに項目がなく同氏についての情報が極端にアクセスしづらいため、こちらでまとめておく。

Table of Contents

 概要

  • 明治14年(1881年)2月20日、茨城縣結城郡大字小森の生まれ。※のち絹川村小森、現結城市
    ただし生年については書によってバラバラで明治14年~16年まで諸説あり、日付も10日になっているものもある。上記日付は結城市編纂の「結城の歴史 : 写真集」によった。
  • 父は斎藤八郎兵衛の次男。※「八郎平」としているものもある
  • 下妻中学を卒業して上京し、明治36年(1903年)に慶応大学を卒業後、三井物産の香港支店で働いていたが、明治42年(1909年)に南昌洋行に入り、大正元年(1912年)8月に南昌洋行の大連支店主任に抜擢された。
    「下妻中学」の詳細が不明だが、恐らく当時の旧制中学校で、生まれから想像するに「茨城県尋常中学校下妻分校」ではなかったかと思われる。そうであれば、茨城県立下妻高等学校を経て茨城県立下妻第一高等学校、現在茨城県立下妻第一高等学校・附属中学校。
  • 南昌洋行とは、満州鉄道の撫順炭鉱の石炭販売、鋳物や建築資材を取り扱っていた会社。

    「南昌洋行と云ふのは……。」
    「満鐵の撫順炭を販賣したり、鋳物や建築材料などを取扱ったり、其の外満州關係の諸事業に投資してゐる会社だ。云はゞ斎藤氏が満州で活躍する本陣のやうなものだ。本社は撫順にある。」
    「いつ頃出來た會社ですか?」
    「何でも日露戰役直後だつたと思ふ。前社長だつた荒井泰治氏が創立したものだ。最初は合資か何かで小さいものだつたのを、株式組織に變更したのだ。」
    (中略)
    「斎藤君はこの荒井氏に見出されて南昌洋行に入つたのが、そもそも今日の彼をつくる要因だつたのだ。」

    荒井泰治(あらい たいじ)はWikipediaにも項目がある人物。仙台出身の実業家で、「北の澁澤」と呼ばれた。ただし南昌洋行については一言も記述がない。

  • その後、主に満州で活躍した。
    • 大正15年(1926年)~昭和21年(1946年)まで、満州撫順株式会社南昌洋行取締役社長。
    • 昭和12年(1937年)~昭和20年(1945年)まで満州綿花株式会社取締役社長。
    • 昭和14年(1939年)~昭和20年(1945年)まで満州奉天満州製糖株式会社取締役。
    • 昭和12年(1937年)~昭和20年(1945年)まで満州綿花股份有限公司取締役。
  • 大正13年(1924年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬しているが飯村五郎の次点に終わっている。
  • 戦後、昭和26年(1951年)に日本気化器製作所(現、株式会社ニッキ)取締役会長、結城市の初代商工会議所会頭を務める。
  • 社会事業・文化事業にも力を入れ、昭和16年(1941年)に結城町立から県立に移管された結城高等女学校(現、結城第二高等学校)校舎建築の際には総工費22万余のうち半額を寄付している。さらに昭和10年(1935年)~同12年の間、勇気第一高校、元絹川村役場庁舎、結城小学校静養堂、絹川村忠魂碑などの建築の際にも多額の寄付を行ったという。これらの功績をたたえ、昭和32年(1957年)12月結城市初の名誉市民となっている。
  • 昭和33年(1958年)2月23日死去。※明治14年(1881年)生まれとすると数えで77歳となる

 刀剣

  • 名物刀では「鳴狐」、「佐藤行光」などを所持している。
  • 数多くの刀剣を所持し、戦前の三大コレクターと称された。本間順治氏が刀剣協会(財団法人日本美術刀剣保存協会)設立時に最初に声をかけたのがこの3名であったという。

    斎藤家の蔵刀の中には国宝、重美になったものが二十数口にあったはずである。斎藤家の刀には三矢家や文部省で、たびたびお目にかかっているが、ご本人には戦前は一度もお目にかかっていないから不思議だ。ところが戦争直後に私が刀剣協会を作るべく最初に召集したのがこの斎藤さんと中島喜代一さん、篠原三千郞さんの三人であって、斎藤さんご存知の、当時表向きは閉じているあるささやかな料亭の一室で懇談したことであった。
    本間順治「思い出の刀剣人」以下同じ)

  • 三矢宮松氏と大学時代の同窓で、その縁で多くの刀剣を所持したのだという。

    ところで、三矢先生の大学時代からの親友に斎藤茂一郎さんという実業家がいて名刀や貴重な研究品を行方不明にしたくないという先生の念願に産生して、先生がとっておきたいというものは、なんでも買い上げて、先生が見たい時にはいつでも提供していた。

  • ただし本当に刀剣に興味があったのかどうかはやや疑問符が付く。

    石黒久呂という大物の刀屋が三矢、斎藤両家にお出入りしていたが、彼の話によると「(三矢)先生が斎藤に持ってゆけという刀を持ってゆけば、先方は窓口からお金をくださるだけで、刀はごらんにならぬようだ」とのことであった。本当によい後援者があったものである。

 関連項目


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