希首座


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希首座(きっそ / きしゅそ)  

脇差
銘 大和守藤原宣貞
希首座刀
一尺八寸六分五厘
島田美術館所蔵

  • 大和守宣貞は、細川忠興抱え鍛冶。「豊州小倉住」「大和守藤原宣貞」などの銘を切る。
  • 細川内膳家に伝来した刀

由来  

  • 細川忠興(三斎)が、大徳寺において希首座を切り捨てたことに由来する。
    大徳寺は京都にある名刹で、臨済宗大徳寺派の大本山。豊臣秀吉織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進した。それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
    三門の二階部分が千利休居士によって増築され「金毛閣」と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りを買ってしまい、千利休自決の原因となった話も有名。

大徳寺事件  

  • 「首座(しゅそ)」とは、禅宗の修行僧のリーダーをさす役職名で、臨済宗においては役職名であると同時に僧階の一つでもある。「希」という名前の首座であるために、希首座(きしゅそ)と呼ばれた。
  • 慶長19年(1614)2月17日、細川三斎が大徳寺に招かれた際、突然希首座を切り捨て、その後三斎は帰ってしまったという。(忠興公年譜)
    ただし、この年忠興は年初より参勤で江戸におり、3月には下国するため忠利の江戸参勤を促す手紙を出している。4月21日に駿府で家康に挨拶した後(ここで銀液丹を拝領する)、4月30日に京都吉田に到着している。つまり忠興が同日に大徳寺に行くことはできない。
     忠興公年譜でも注記があり、当時小倉にあった泰厳寺(のち八代に移転)での出来事、あるいは妙心寺の吉首座(信長作の刀で斬りつけた)の事ではないかとしている。
  • さらに細川家側は松山権兵衛と松岡久左衛門に命じ、希首座(きしゅそ)の弟である速水孫兵衛まで成敗してしまう。この凶行に、当然大徳寺側は京都所司代板倉伊賀守勝重に訴え騒ぎ立てるが、喧嘩両成敗で、細川家を取り潰せば大徳寺も取り潰すと脅され、泣き寝入りとなる。
  • のち、三斎はこの刀を「希首座」と呼び、平素佩用したという。
  • 後にわかった話しによれば、この大徳寺の希首座(きしゅそ)と弟の速水孫兵衛は、丹後一色家の一族であり、細川三斎とは深い因縁があったという。
  • 「希首座刀」は現存し、島田美術館所蔵。

丹後での一色氏との対立  

  • 話は30年ほど遡った丹後(現京都府北部)でのこと。

織田家との対立  

  • 丹後国守護の一色家当主一色義道(左京大夫、義員)は、当初越前一向一揆討伐戦に参加するなど織田信長とも友好を保っていたが、その後、比叡山焼き討ちの後に延暦寺の僧を匿ったことから織田家とは敵対する関係となる。
  • 天正6年(1578年)には信長の命を受け明智光秀と長岡藤孝(後の細川幽斎)が丹後に進攻し、翌天正7年(1579年)、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りを招き、一色義道は中山城で自害する。
  • 一色義道の子一色義定(五郎。満信、義俊、義有とも)は一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦する。

和議と分割統治  

  • 手こずった長岡藤孝(後の細川幽斎)は、明智光秀の助言により娘伊也(菊の方とも、細川忠興の妹)を一色義定に嫁がせ和議を結び、以後、丹後は一色氏と長岡氏(細川氏)で分割統治することになる。

山崎の合戦後  

  • 1582年の山崎の戦いでは、一色義定(義有)は直接の上司であった明智光秀に味方し、秀吉軍と敵対する。長岡氏(細川氏)は明智に従わず、秀吉の命を受けた長岡忠興(細川忠興、三斎)により、一色義定は長岡氏の居城である宮津城に招かれ城内で謀殺されてしまう。この時に使ったのが「浮股」であるとされる。
  • その際に、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏したという。
    その後一色残党から妹であり義定の妻である伊也を救い出すが、対面の席で忠興は伊也から懐剣で斬りかかられている。首に突き付けられた刀を間一髪のところでかわすが、鼻を真一文字に切り裂かれ、この傷はのちのちまで残る。
    義定が謀殺された日について、「一色軍記」は本能寺の変以前の2月に殺害されたとしているが、「丹州三家物語」においては9月に殺害されたとしており、また上宮津盛林寺の「一色満信」の位牌には9月8日と記されている。
  • 大徳寺の突然の希首座殺害は、細川三斎が一色氏の一族であることを事前に知っていたともいわれ、また希首座側もこの丹後での仇討ちを果たすべく三斎に近づいたとの話もある。

慶長十九年二月十七日大徳寺之出家希首座仔細川有之三齋様御手討被成候処出家を左様被成物には無御座候と申上二つに成候由依之大徳寺之僧故板倉伊賀守勝重まで訴状を指出候へば伊賀守被申候は成らぬ迄も越中守殿身躰を此専にて亡ぼし可申と被思候や夫ならば一山何れも江戸へ訴訟あるべし、若し又夫に不被思候はゞ御分別あるべし、大徳寺に替えて越中殿の身躰を御潰しなさるべきとはよもや公義に被思召間敷と存候と被申候へばおのずから泣寝入に成候由
此儀に付希首座弟速水孫兵衛を御成敗被仰附候 仕手は松山権兵衛元重・松岡久左衛門也 江戸御普請の石場伊豆国宇佐美にて諸国の者入込み候間騒敷無之密宿に仕留め可申旨被仰付候に付首尾能仕留申候
其後御手討の御刀は希首座と被名付平日御秘蔵の腰剣也しが希首座の祟りにや不思議の事共有之により毎年二月同日追善の法要を営まれしにより変事も止みたりと也
本浄院様へ御譲被成代々伝来

後日談  

  • この刀はその後細川内膳家に伝えられた。

    希首座之御腰物別而御秘蔵之御道具ニ而候得共御譲被進候

  • この後、細川家では、「不思議の事があった」(三斎には奇行が続いた)ため、希首座の霊を弔う目的で細川内膳家下屋敷(砂取邸)内に「希首座の祠(きっそのほこら)」を建立し、毎年希首座の命日である2月17日に追善供養を執り行ったという。

    希首座の祟りにや不思議の事共有之により毎年二月同日追善の法要を営まれしにより変事も止みたりと也

  • その屋敷跡が一時、井関農機株式会社の所有(現在はすでに移転)となったときも、希首座の命日には慰霊の行事が執り行われたという事を島田美術館館長であった島田真富氏が「江津荘物語」に記している。
  • 細川内膳家下屋敷跡は、現在は水前寺江津湖公園の一部(熊本県立図書館、および熊本近代文学館、日本庭園)として整備されているが、熊本県立図書館の南東に現在もこの祠は残っている。
  • 「希首座」は、鎌倉時代から江戸時代にかけ途絶えることなく権力者のそばに居続け、時には血族をも見殺しにしつつも時代の波を乗り越えた細川家の覚悟の深さを知る一刀でもある。
  • なお細川三斎には、ほかに「歌仙兼定」という曰くつきの名物も伝わる。




細川内膳家  

  • 細川内膳家は、細川忠興(三斎)の長子細川忠隆の子に始まる家系。

関が原と廃嫡  

  • 関ヶ原の戦いの折、西軍の石田三成は東軍諸将の妻子を人質に取る。大坂玉造の細川屋敷にいた忠興の妻、細川ガラシャは忠興の事前の言いつけ通り自刃するが、忠隆の妻千世は姉豪姫(宇喜多秀家正室)の住む隣接する宇喜多屋敷に逃れてしまう。
    千世は前田利家の七女、姉豪姫は前田利家四女という関係。
  • 細川忠隆は、このことを父忠興に咎められ結果的に忠興から廃嫡されてしまう。
  • 廃嫡の理由には、妻の千世が前田利家の娘であり、前田細川という大大名同士の姻戚関係を好ましく思っていなかった徳川家の意向を汲んでのものだったともいわれている。

京都での蟄居  

  • 千世の離縁の命に強硬に反発した忠隆は剃髪して長岡休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居する。
  • 寛永9年(1632年)に肥後熊本藩に移った忠興は、寛永19年(1642年)に休無を居城の八代城に招いて正式和解するが、休無は八代領6万石を固辞し京都に戻る。熊千代は同年のうちに夭折。
    千世との生活はその後も続き、徳(後に左大臣西園寺実晴室)、福(後に久世家初代通式室)などを産んだ後、慶長16年頃には実家前田家の加賀に戻り、加賀八家のひとつ村井長次に再嫁した。その後、忠隆(休無)と継室との間に生まれたのが細川忠春である。

内膳家  

  • 休無の死後、休無の長子である忠春の子が細川内膳家(長岡内膳家、6千石)を興し、熊本藩一門家臣首座となる。
  • 内膳家2代の忠英(ただふさ)は藩校時習館の初代総長となり、その弟は熊本藩家老職を務めた。

子孫  

  • 政治評論家の細川隆元やその甥の隆一郎は、この細川内膳家の忠隆の子孫にあたり、忠興とガラシャの血を受け継いでいる。※共に故人
  • なお三斎は、関ヶ原の戦いで父幽斎が一時田辺城を明け渡したことから一時不和になっている。この時古今伝授が途絶えることを恐れた後陽成天皇からの勅命により、父幽斎は敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に身を移している。「古今伝授の太刀」の項を参照。
  • さらに二男の興秋が大坂の役で豊臣方に協力した際も、戦後に自害させている。

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